島本町は摂津の国の東端といえるでしょう。西国街道(山崎通)を京から西に下ります。隣町になりますが離宮八幡神社門前より始め、高槻市神内(こうない)の三ツ辻までとします。
始めに、京都府になりますが、大山崎町(おおやまざき)離宮八幡神社傍示石です。
北面に「従是北 八幡宮神御領大山崎總荘」とあり国境を直接示すものではありませんが、神社域を検討するのには役立つでしょう。『都名所図会』の東大寺村辺りに、この石碑かもと思われるものが描かれており、八幡神社前の部分には次の道印石かもしれない絵も見られます。
境内を出て右斜め前(南西)20mの三ツ辻角に、鉄パイプに守られ道標があります。山城(やましろ)国内とし取り上げていませんので、ここで少しだけ書いておきます。東面「右、西国道」、北面「大坂…/石大工太平寺屋/太郎工房」、西面「壬元禄五年/于日(承?)正誉水古/申九月十五日」、南面「大坂みち/こ礼よ里ひた里/橋本わたし」とあります。京都方面から来た人に、右が西国街道、左(ほぼ南)が京都府八幡市橋本(やわたしはしもと)への渡し場への道を案内したものであろう。紀年銘は中央部は良く分らないが「元禄五年九月十五日」(1692年12月24日金曜日)と読めるでしょう。日にちまで入っている所を見ると命日なのかもしれない。北面が読み取れなかったのですが、橋本への渡し場を案内しているのなら、西から曲がってきた人に「すく」とあるようにおもえます。
西国街道は上記道標の角を西に10m程で突当り、右(北)に折れ30mで三ツ辻(路地を入れると四辻か)に突当り、左(西)に折れます。この辻の南西部植込み中に「山崎1国境碑」が立ちます。現代の「大阪府」「島本町」の看板も道脇に立てられています。ここからを摂津の国としました。
ちょと見は三ツ辻、路地も含めると四辻であるが、街道から見ると屈曲点と感じる。京都方面からくるとあまり目立たず、大阪方面から来た人に「山城国」を意識させるものでしょう。
すぐ西に関大明神(せきだいみょうじん)の祠が有ります。
先ず、東大寺(とうだいじ)の道標二基の内東側「東大寺の道標1」です。北東面に「水無瀬神宮 左へ三丁」とし、南西面に「昭和十四年」とある。今なら水無瀬神宮へは南西への西国街道を進む事になるが「左」が西国街道を指したものか。「官幣大社」とあったり、戦争直前の建設等を考えるとその時代を示す道標なのかもしれない。 やや西寄りの大きな道標は、東面に「柳谷観世音菩薩道」とし、南面に「明治三十四年…三十丁」と発起人の名前を刻む。現在ではここから西に向かっても何ら問題はないのですが、距離が6㎞に対して3㎞と大幅に少ないのです。これはどうしたものでしょうか。
東大寺の道標二基から南西へ120mで水無瀬橋(北詰に高札場)を渡り、330m地点の筋違い四辻南西角に立っていたらしいのが次の道標です。ここでは西国街道はほぼ南へ向かっています。
上記不明道標の辻から南へ90m、東の水無瀬神宮へ向う道が分かれる三ツ辻を越え、南に向いていた西国街道が南西に向きを変えた直後の290m地点ちなる大きな三ツ辻に有ったらしい道標。
左の写真右隅には「淀川」「桜井駅」を案内する現代の道標が立つ。道標と共にあった思われる「愛宕大神」の常夜燈はここから40m東の道の北側に移築されて残っている。
上記不明道標より360m南西、「中堤橋東側辺りに」あったとされる。
島本町教委の『史跡をたずねて』に載るが、現在は不明と思われる。柳谷観音への進路とされていたであろう右奥への道も現在は行止りになっている。写真の高架道路では西に行けます。
中堤橋東側から100m道成りに進むと三ツ辻になり、西国街道は左(南西)の道で、右(西)への広い道は踏切を越え桜井(さくらい)の集落に向かいます。この三ツ辻正面に現代の案内柱と並んで「桜井1の道標」が立っています。
北東面(右写真の右面)「右、柳谷/左、西ノ宮…」とある慶応三年の道標です。「右、柳谷」が現在の道の状況では直接つながっていない感があり、明治の地図でも尺代(しゃくだい)につながる道が見えない。よって移設の可能性がありますが如何でしょうか。もし移設なら元は上記「広瀬1の不明の道標」あたりがふさわしいとおもいます。
ここで寄り道、ふれあいセンターの道標二基を見に行きます。距離は無いが少し登りがあるので先をいそぐ方は飛ばしてもよいかと思います。
桜井1の道標から右(西)へ50mのJRの踏切を渡り、八幡神社を過ぎて200m地点辺りで北に向きを変え、240m地点の三ツ辻を西に曲がらず北の住宅街の中を抜け320m地点でセンターの東下三ツ辻に突当り、これを右(北)に折れ、広い自動車道に沿って390m地点の坂上の三ツ辻左(南西部)が「ふれあいセンター」入口になります。道標二基はセンターの建物のちょうど裏側になります。右側の駐車場の方から建物に沿って150m廻り込んだ南庭の中にあります。(センター南の道の名神下辺りの西口から直接登るのが近いのかも知れない。)
現北東面「右、柳谷/左、釈恩寺 是ヨリ一丁半」とあり、『史跡をたずねて』では「もと柳谷道の尺代橋東詰めあたりに建っていたと思われる。」とあり、今も残る「尺代橋西詰の道標」の橋の対岸(北東側)に立っていたものと思います。(センターからは直線2kmほど北になる。)
元位置は、現二基の道標が立つ東大寺一丁目に立っていたとされる。現西面に「(右手指差し)右、山崎、向日町/(左手指差し)左、芥川、豊川、池田」とあり西国街道の北と南方向をしめす事から、東に面して立っていたのでしょう。
ふれあいセンターから440m、桜井1の道標まで戻ります。三ツ辻を南に折れて西国街道を進みます。
寄り道です。「桜井1丁目交差点」を左(南東)に折れて、「高浜(たかはま)常春寺の道標」を目指します。約1km強の距離になるので大変ではあります。南東に真っすぐの道を450mで阪急水無瀬駅、550mでR171の「水無瀬交差点」を渡り、なおも道なりに進むと道は南を向き、1030m地点の左手(東)に「高浜地区史跡案内板」とする大きな石板が立ちます。すぐ東には「砲台跡」も有る様です。石板から45m地点、(最初の三ツ辻の10m南)の幅1m程度の道を右(西)に下ると、左手(南)に常春寺の山門があります。真っすぐ門を抜け住居の東から南の墓地へ入りますが家の庭を通るので一声かけた方がよいでしょう。
南側墓地内の北側西よりに「高浜常春寺の道標」があります。力士(鬼勝定吉)の墓の側面に案内が彫られています。西面に「右、や者多道/左、京、山さ起」とあり八幡への渡しと、西国街道への案内として、下記の道標と同じあたりか旧の堤防上にあったのではないかと思います。縁者の方が今もお参りにこられるそうですが、いつ移設されたかは分からないとお聞きした。
続いて寄り道。「高浜の道標」はすぐ近くです。常春寺をあとにして、東の道に戻り右(南)へ50mの三ツ辻左側(北東部)に立ちます。民家の赤っぽい土塀の角に南面しています。その面に「右、八幡/左、京」とあり、八幡へは淀川を渡り樟葉にあっがたあと陸路と思われ高浜の渡しを案内するものと思います。京方面は説明もいらないでしょうが、明治の地図では北の広瀬に出たものと思われます。多分上記の「広瀬5不明の道標」の辻で西国街道に合流したと思います。
寄り道をした方で、西国街道全踏破にこだわる場合は、もと来た道を「桜井1丁目交差点」まで引き返してください。
高槻市神内に直接出たい方は次の説明に従って進んでください。分かり難い道なので事前に地図等用意しておいてください。
「高浜の道標」から150m南へ進み右へ分岐する三ツ辻に少し下り右(西)に折れます。ここは高槻市との境になります。三ツ辻から道なりに西へ470mのR171の高槻市東上牧歩道橋を渡り直進します。ここまでは問題ないでしょう。この後です。小川沿いの細い道を200m道なりに進むと新幹線のガードをくぐりますこの時点で道は北を向いています。阪急もくぐってそのまま路地へ直進します。路地を100m進むと少し広い道の筋違い四辻(正面電柱に神内2丁目2)があり、これを右(北)へ折れて、道なりに210mで大きく西に向きを変え、40mで旧西国街道に出会います。ここは神内2丁目9旧道分岐三ツ辻の北30mの三ツ辻になり、北東部には現代の西国街道史跡案内石板が立っています。
島本町の道標
2021年9月26日 作成