茨木市
二次調査_2

二次調査の二回目です。西国街道の十日市町から北に分岐するとしましょう。
 明治期の名称では、茨木街道支線
妙見街道、清坂街道等が対象です。

1.安威2の鎌足公古廟の道標2

№1.今日の出発点十日町1、
左奥(北)安威へ、左右は西国街道

№2.十日町8の道標
奥(北)へ

№3.十日町9の道標
奥(北)へ

 ここには「十日市町1の道標」があり明治42(1889)年の西面の「左、石川、国見」に従って北に進みます。この道は旧道で現府道46号に合流するまで二基の道標が現存します。東側の小さな流れと別れる地点に建つ「十日市町8の道標」は総持寺の案内で無視します。二基目「十日市町9の道標」には「左、妙見」とありこれを目指します。元の向きがハッキリしないので北を目指し現府道に合流します。今回は妙見山詣でが目的ではないので、今日一番目の遺失道標に向かいます。
 茨木街道支線を少し離れます。大きな「安威交差点」を西に折れ道なりに680m進むと道はやや北西に向きを変え五つ辻に突当ります。正面が追手門学院の入口で、通学用のバスが始終出入りしています。この五つ辻の南に「安威2の鎌足公古廟の道標2」が有ったと思われます。場所の特定は『わがまち茨木』の写真にのる食堂の看板に依りましたが、どうでしょう。
一番目の遺失道標でした。
 道路拡張で無くなったのでしょう、私ならキャンパス内に置いてもらうところです。

№4.遺失一基目の辻中央電信柱の向こうの道をこちらに向かって来た、この後左奥へ。
 この辻は下記「大念寺の道標」№13.の元位置とも思われる。

2.安威1丁目私邸内道標

№5.安威1丁目

№6.失礼して庭内を

2番目は安威一丁目の私邸内です。妙見道方面に戻ります。
 上記遺失道標地点の五つ辻を北東一丁目方面へ。『わがまち茨木』に載る写真をじっくり見ると背景の特徴からこの辺りではと思う地点が浮かび、辻から330m程の所に着くと案の定門内に見ることが出来ました。遠望だけです。
 何度も前を通り過ぎていました。

№7.安威小学校南の道標

№8.生垣の中の道標

№9.鎌足古廟の道標

安威一、二丁目には他に三基があります。二丁目の民家生垣中の道標№8.は来るたびに見にくくなってきており今回も確認しに行きました。やはり厳しい状態です。

それよりも前回の不安、珍しい道標の安否を確認しに行きます。「二丁目の道標」を北に過ぎると心配していた通り山際を東西に削り真新しい道が見えだしました。グーグルマップには「都市計画道路山麓線」とあるようです。

「安威墓地の道標」は残っていました。  周囲の景観はまるっきり変わっていましたが墓地自体はほとんど変わっていないと思われます。よって墓地内にある道標も無事でした。辻や路端は弱いが、墓地は強い。何といっても六角柱の道標は多分これだけであろう。新しい道が出来たので北面にある「左、総持寺」がこの「山麓線」道を指すと誤解の無いよう老婆心ながら言っておくと、山麓線を南に横切り、池の東から村中に向かい上記の二基の道標を通過する道を案内するものです。
 安威1-5交差点辺りから西に分岐し、安威墓地の東から現山手台に登り、旧清坂道に合するまでを私の地図では「巡礼道」としている。これは西国三十三所の二十一番穴太寺から二十二番総持寺を結ぶ道とした為である。桑原を通る妙見道よりも近い道筋である。

№10.墓地入口を南に見る2018年

№11.六角柱の道標2018年

№12.残っていた安威墓地2022年

3.大念寺の鎌足公古墳の道標

さて、二次調査再開、三番目を探しに向かいます。

№13.安威3-17の道標を北に見る

昔見つけられなかった、安為神社入口(鳥居横)にコロがっているらしい道標です。安威墓地から新し山麓線を東に一本道です。前に、南面する神社なので南の鳥居周辺を探したのですが、東側にも鳥居が有りこちらを重点的に探します。
 写真№9.の「安威1丁目の鎌足公古廟道標」から村中を真っすぐ北に上って来た道と山麓線の四辻を北に折れ大念寺を目指します。辻から70mで寺山門下の階段に着き、十段ほど上の左(西)に寺標と思いきや、探す道標が直立していました。地べたばかり探すものではありませんね。階段左手には
安為神社鳥居も立っているではないか、こちらの主参道の鳥居だったようです。
 多分移設されたものであろう。詳細は下のボタンから参照下さい。

4,5.安威三、四丁目私邸内の道標

次に4,5番目の道標ですが、結果だけ述べると見つかりませんでした。安威3丁目、安威4丁目の私邸内だけでは探せなかった、同書添付の地図で特に3丁目は本龍寺辺りと思われ、境内を三度探したが見つけられず、4丁目の方は本龍寺の西辺りを示しているので寺の西側をさがすも見つからなかったが、車作大橋の石標が有った。

№15.安威三丁目大龍寺

6.大岩国見の私邸内道標

6番目の探索は茨木市大岩になるのですが、安威四丁目からどう行くのでしょう。
 西の山手台に登り私が名付けた「巡礼道」から清坂街道に合流して国見峠を越えて大岩が順当と思われ、安威四丁目から西に行くと、道を見失い行止りとなってしまった。
『わがまち茨木』の「妙見道」(注1.)を進めば良いかとし、安威ダムを見たい事も含めて、安威川左岸(西岸)を遡り桑原から大門寺に向かうが旧道を見失ってしまいました。巡礼道へは安威墓地からが無難なようです。
 仕方なく新道46号に戻り大門寺トンネルを過ぎ、北東に亀岡街道が分岐する新しい交差点を過ぎると徐々に南西に向きを変え大岩川の東の山を切通しで越え大岩集落の北の府道1号バイパスにぶち当たります。ICへの接続道路は人・軽車両は通行できません、側道を進みます。「大岩交差点」とありました。
 これを南のバイパスでなく南西の旧府道に入り坂を上り詰めると「大岩の道標」等三基がある三ツ辻(清坂街道と妙見街道の分岐点)となります。旧道と合流した旧府道をさらに南へ50m進むと写真№18.(北向きに撮影)になり、この辺りの私邸内と思われるが見つけられませんでした。

№17.大岩の二基

№18.国見私邸内道標は不明

 当初の予定通り巡礼道に出られておれば、途中「山手台4丁目の道標」三基が見られて楽しかったはずです。北稜中学校の北東に出る道がなぜ見つからなかった。残念である。

№19.山手台の三基

(注1.)『わがまち茨木』の「妙見道」は高槻市の塚原の北から来て、今の長ヶ橋北詰交差点を旧府道に進み桑原橋を渡って桑原バス停から南西に折返し山手台小学校の北を過ぎて山手台七丁目の北に登り新旧の清坂街道に合流するルートとしている。明治の地図では私説よりこの道の方が太く(聯路)描かれているからであろう。 私は、近世を主にしている為、天保摂津国絵図より大門寺村を通る経路を「妙見道」にしている。現在ではゴルフ場の中の道になっている様に見える。

左は№20.茨木市北部
左下は№21.同南部地図
 丁度境目で見にくく、下の図には「妙見道」の大門寺から「巡礼道」に接続する部分が漏れている。

7,8.赤才の道標二基(遺失)

№22.赤才の遺失道標

上記№17.の大岩の三基の道標が建つ三ツ辻から、「左、妙見」(西より)の道を550mで、左の写真№22.の三ツ辻となります。これを右に行けば新名神千堤寺ICの周回道路に出ますが左の旧道に進むと10m程の北側に石灯籠があります。7、8番目の遺失道標地点となります。灯籠脇に二基立て掛けられていたらしいので、遺失はあきらかです。

無くなった二基の道標が案内した妙見道を西方へ辿れば、移設された「千提寺旧一町田の道標」に繋がるのですが、今日は№22.の三ツ辻を北に下りICの東を抜けて、府道府道1号に出ます。9番目の捜索に向かいます。

№23.寄って見たかった

9.安元47の道標(遺失)

№24.青面金剛石碑、左はIC、奥府道1へ

赤才の三ツ辻を北に80m下り突当りT字路を右に折れ料金所への道をくぐると、広い新道に突当り、これを右(北)に下る。広い道に出てから130mの三ツ辻右の崖に何やら?。残念、青面金剛石でした。青面金剛から270mで府道1号に突当り左折(北)し登りになります。登り始めて180mの三ツ辻北西部に鳥居が見えますが宮がわかりません。この鳥居から200m北の右手(東)に山から下って来た道らしきものが見えます。本当ならここから登りたいのですが自信がありません。北に廻りして飯原神社から下ってくることにします。50も行けば「茨木療護園」とあるビルが建つので目印になるでしょう。

№25.療護園下の登り口か

№26.府道1号の短絡道

府道1号、療護園を過ぎ新名神を潜り250mの三ツ辻、高速の工事用道路と思われる新しい道へ北東に分岐します。400m登りトンネルの上辺りで、忍頂寺から折り返してきた府道1号に再び合流します。スゴクショートカットした分急こう配でした。振り返ると見えるのが表題にあげた写真です。もう一度載せておきます。

№27. 9番目の目的地を北に見る

府道1号に合流して20m南の三ツ辻右角に「安元資材センター右折」とある看板に従って、構内の様な道を進みます。道なりに280m南に進むと工場の南西端辺りで舗装が切れ、地道を20m程で8番目の目的地の四辻に着きます。ここを中心に2ヶ所ほど探したが見つかりませんでした。前にあげた療養園下の登り口との関係もつかめませんでした。薮と蚊は嫌いだ!。

№28. 飯原神社下から北を見る。
療護園下→9番目→神社の順に来たかったが

10.千提寺村金蔵の道標

№29. 10番目のあった地点

飯原神社周りの道の関係等を見るうち、暗くなってきたこともあり、慌てて帰ることにした為、最後10番目の写真を撮り直すのも忘れてしまっていた。昔の写真でお茶を濁しておきます。

№30. 10番目の上の道標は今も残っている

二次調査の一回目で10点、二回目で9点の内、私邸内の一基が確認出来ただけ、三回目で残りを締めくくろうと思います。続く

つづく