住吉道山中の二基
2023/03/27 作成
始めに
又々、後回しにしていた山間部です。目指すは「流されて70年ぶりに見つかった、有馬道と書かれた古い道標」です。
「住吉道」が一般的にどのように使われているかよく知りませんが、個人的には灘区の本住吉神社南東の国道2号線四辻辺りから、有馬温泉の阪急バスターミナル西の四辻までの近世の道(旧道)としますが、此処では「住吉台1の道標」から六甲一件茶屋までのほぼハイキングコースとして使います。
【閑話休題】
五輌場とは、勝手に「第五番目水車場」であろうと思っていたが、webに「五輌場は水車が五台有った所」を見つけたので、漢和辞典「輌」を引くと「車の数を数える語」とあり納得したのですが、明治の地図を見ると八輌場があり、その南に七輌場が見えます。五輌場は地名に成らなかったのでしょうか、書いていないだけなのか。
住吉道の下流側に「東灘区住吉山手3会館東道標」があり、この西には今も残る水車が有ります。これ等の水車は灘の酒が発展する上で重要な役割(精米か)を果たしたらしく、運搬手段(車)を考えると、近世であっても道の広さは相当なものであったと考えられるでしょう。
(ひ6-8)
左岸道を80m程直進すると(ひ6-8)標柱が立ち、右(南東)「黒五谷、打越峠」への分岐点である事を示す。
突然ですが、『六甲・北摂ハイカーの径』木藤精一郎、阪急ワンダーフォーゲルの會、1940年刊を要約すると「高臺道(住吉道)の西お多福山や西瀧ヶ谷道の分岐点に、今日では無くなったが、『大毎道標』がある」とする記事があり、その大毎道標が現在ではこの先に置かれており、それを訪ねる目標となる標柱です。
大毎道標
大毎道標の目印と書いたが、実のところ1回目はこの道標を見逃していた。順番的にここに書きますが、別の日に行ったものです。悪しからず。
(ひ6-8)標柱から北へ150mの道の東側(右)、笹に隠されて気が付かず通り過ぎていた。左の写真は見つけた後に少し笹を刈った状態で撮ったもので、元のままではほぼ見えません。
もし笹が無ければこの様に見えます。道から見える様に前面だけは刈っておきましたが多分半年は持たないでしょう。手作業でこの状態にするのに30分は掛かったように思います。
現状、下部は折れて遺失。大毎(大阪毎日新聞)の道標はこれの外に有馬と阪急六甲駅南に有り、その二基は大きさも様式もほぼ同じであるが、これは不便な山中に設置された為か幅、奥行き、共にいくぶん小さい。元の高さは分からないが、残っている部分の字の配置などからこれも低かったであろうと思われる。小ささの故か社章が文字面に無く石柱の頭部をドーム状にしそこへ彫り込んでいる為、かえって他の石よりも面白い。前述の書によれば元位置は下記に示す(ひ6-9)標柱の辺りらしいが、水害により流されたとしている。その為か柱部に数か所欠落が見られるがよく残ったものだと感心する。どこで見つけたものか分からないが、今は非常に大きな舟形の石の上に、支えの石に囲まれ置かれているだけで、固定はされていない。転倒、遺失などが気になる所である。
大毎三基の比較
(ひ6-9)
大毎道標から50m進むと、住吉道は大きく右(北東)に折れ曲がり手前右に(ひ6-9)標柱が立つ。「右、六甲最高峰4㎞・有馬」と案内するが、直進方向の案内はありません。直進(北)は崖状になっており2m程垂直に下りれば、住吉川本流と西瀧ヶ谷の沢との合流部に出られる様で、巨岩の下部に丸太橋が架けられているのは確認しました。帰りに登れる自信が無く止めました。
ここが『六甲・北摂ハイカーの径』の言う「西瀧ヶ谷道の分岐点」で住吉道の大毎道標の元位置と思われます。現行の標柱は「右矢印、六甲最高峰4㎞・有馬」、大毎道標は「右、六甲山頂上ニ至ル 四…」の案内しかありません。当時も直進道は案内不要だったのでしょう。
現在の標柱から、折れた道標の下部を想像すると「六甲山頂上ニ至ル 四、000メートル」となりそうです。
掘り出しては見たものの、倒れている為表面の苔がヒドく、ブラシでも取れません。ご容赦ください。
裏面は分かりませんが、全体は大きなカキ(牡蠣)の様に見えます。上面の「右 有馬道」以外に文字は確認できません。
『六甲・北摂ハイカーの径』の言う「古い右有馬道の道標」として間違いないでしょうが、「灘区五助ダム北の道標」と呼ぶことにしました。
転がっていた解説板を書き起こしてみます。
「約100m上に 有馬に物資を運んだ 旧有馬道の跡があり、この石標は1938(昭和13)年7月の阪神大水害でそこから流されたもので、およそ70年ぶりに発見されました。 2010年11月」(句読点、( )部は加筆)
『六甲・北摂ハイカーの径』昭和15年三訂版の「本道は…左岸を行く…その岐点に今日では無くなったが、…その少し先に『右有馬道』と記した古い道標のあった…、昭和10年の雨…、昭和13年の水害…」記述とも特に矛盾せず、「この地点に水害により流されてきた」と言いたかったと思う。しかし、私の感覚では、土石流により流れ着いたのではなく、崖崩れにより転落してここに有るとしたい。
五助ダム北道標の元位置は
「流された」と「落ちた」になぜこだわるの。それは元位置推定に係るからです。解説板の「100m上」、『六甲・北摂ハイカーの径』の「その少し先」を検討する時に、土石流によるとした場合元位置の対象範囲が広がる為です。落ちたとなれば現斜面の上方だけを検討すれば済みます。
(ひ6-16)標柱から70m道なりに進むと北東方向に向かう道が左(北)へ折れ、ほぼ水平な道となる地点があります。右側(南)からは広い道跡らしきものが合流している様にみえます。これが案内板の言う「旧有馬道の跡」としてよいと思うのですがどうでしょうか。明治の地図「今昔マップ on the web」でも、旧道はやや東寄りに余り蛇行せず描かれ、西に寄りすぎる現行の道は描かれていないように見えます。
依って、ここを「灘区五助ダム北の道標」の元位置候補としました。(地形的には上記より少し南寄りか。)
しかし、ここであったとしたら、大きな疑問が残ります。案内がいる場所だったのか。結論は出ていません。
大毎の道標の元位置
「大毎の道標」をここで取上げたので、元位置をもう一度述べておきます。
『六甲・北摂ハイカーの径』の著者はこの道標を見ている様で、その言によると「高臺道(住吉道)の西お多福山や西瀧ヶ谷道の分岐点に、今日では無くなったが、『大毎道標』がある。」は間違いないでしょう。それは、前述の(ひ6-9)標柱の地点と思われます。
終りに
11時に山道に掛かってから、此処に14時30分、途中道を間違えるハプニングが有りましたが2.4㎞を2時間半のアトラクションでした。後はこけない様に帰るだけですが、一度木にブチ当りながらも1時間10分で戻りました。
尚、記事中の「大毎の道標」は別の日に出かけたもので、上記の時間には含まれていません。もし見つけていれば、「灘区五助ダム北の道標」に行き着けていなかったかも知れない。