住吉道山中の二基

2023/03/27 作成

始めに

又々、後回しにしていた山間部です。目指すは「流されて70年ぶりに見つかった、有馬道と書かれた古い道標」です。
 「住吉道」が一般的にどのように使われているかよく知りませんが、個人的には灘区の本住吉神社南東の国道2号線四辻辺りから、有馬温泉の阪急バスターミナル西の四辻までの近世の道(旧道)としますが、此処では「住吉台1の道標」から六甲一件茶屋までのほぼハイキングコースとして使います

出発点は、白鶴美術館前のバス停としてみました。次の目標は西谷川に架かる落合橋北の三ツ辻です。

水災記念碑を北に見る

水災記念碑

大きな三ツ辻を右(北東)に入り40m左手(北)に「水災記念碑」が建ちます。これは道標の機能を持っており案内にある「有馬」を目指す事になります。
 ここで一言、普通は行先をもって街道名とする事が多く「有馬道」とすれば良いのにナゼ「住吉道」と呼ぶのか。多分神戸の人にとっては別の「有馬道」がありこれと混同する事を避ける為と想像するが、「京道」等はいたる所にあるのに、これは納得いかない。住吉に向かって歩く人しか、いなかったのであろうか。(川の名前を使ったのでは?)

右下に「右、有馬道」

小峯橋を北に見る。正面の舗装路を登った

住吉台への分岐、直進50mは舗装路

この道標を左に回り込み、右手(東)の住吉川に沿い、ほぼ道なりに進みます。水災記念碑から400mで橋(写真忘)、660mで甲南斎場入口(写真忘)、730mで小峯橋を渡ると砂防提を越すため大きく迂回します。徒歩ならダム脇の道が行けそうであった。1.2㎞で住吉台への分岐点、これを分岐せず細い道を直進すると50mで舗装路が切れます。正面と右手(東)に建物(廃屋?)があるが、左手の山側に登る山道があり、標柱が建ちます。この案内「六甲山頂最高峰」に従い、ドンドン進む事になります。

標柱(ひ6-2)を左「最高峰」へ

山道へ(ひ6-2)

標柱(ひ6-2)には「五助ダムを経て六甲最高峰」とあります。最初の標柱(ひ6-1)は見落としたようで、上記「住吉台分岐」に写る標柱がそれであったかも知れない
 此処からはハイキング道となります。この先は少しきつくなります。

帰りに、突当りにある水車小屋、旧五輌場の案内板に従い、右に橋を渡ったが良く分らなかった。明治の地図で現五助ダムの下流左岸(東岸)の「八輌場」辺りに水車小屋の記号が幾つか見え、これだとすると、橋を渡り上流に結構登らなければならないかも知れない。

【閑話休題】
輌場とは、勝手に「第五番目水車場」であろうと思っていたが、ebに「五輌場は水車が五台有った所」を見つけたので、漢和辞典「輌」を引くと「車の数を数える語」とあり納得したのですが、明治の地図を見ると八輌場があり、その南に七輌場が見えます。五輌場は地名に成らなかったのでしょうか、書いていないだけなのか。
 住吉道の下流側「東灘区住吉山手3会館東道標」があり、この西には今も残る水車が有ります。これ等の水車は灘の酒が発展する上で重要な役割(精米か)を果たしたらしく、運搬手段(車)を考えると、近世であっても道の広さは相当なものであったと考えられるでしょう。

東谷橋西詰の旧五輌場案内板

標柱(ひ6-3)を北西に見上げる

さて標柱(ひ6-2)から、少し遅い梅の花をめでる余裕も無く、階段状の道を一しきり登ると、何と車が通れそうな広い道に出た。左(南)の方からは杖を突きながら散歩して来る人もおられ、何か拍子抜けする。
が楽になった事を喜び、右(北)の上流を目指す地点です。標柱(ひ6-3)「五助ダム1.0㎞、最高峰5.1㎞」とありました。標柱(ひ6-2)地点からは地図で300mしかなく、不自然な接続を考えると旧道ではないでしょう。

標高285m石標

(ひ6-4)

一部舗装の残るような広いほぼ平坦な道(標高285m)を610m程進むと、大きな広場風の四辻に成ります。標柱(ひ6-4)が建っています。
 写真を撮っていると、お姉さま方と雑談となり一しきり盛り上がった後、かねて調べて頭に入れていた「道なり」と思われる、写真右側の道へと進んでしまいました。

標柱(ひ6-4)の辻、石切道の分岐を地図の方へ

標柱(ひ6-4)を北東に見る

右側道は標柱に「打越山、横池」と成っていたのだが、五助ダムなら川沿いであろうと思い込んで進むと、「鹿威し」のある沢を過ぎ住吉川の橋に出てしまい左岸に渡っている。何かおかしいと思い引き返し、標柱横の「石切道周辺案内図」を見ると、地図の前を通る道が正しいと分かります。標柱の案内もそう言われればこの道を示していると受け取れるが、不親切な気がする。
 現在の道標とは相性が悪いのかも知れない。直行してない四辻に、90度の四方向を指す案内板を打ち付けるのは、適さない気がします。

五助堰堤を北東に見上げる

正しい「住吉道」を進むと「鹿威し」の今度は風流な音が右下(東)から聞こえてきます。堰堤を越える階段までに少し迷う広い道も有りますが、川に沿う道を進みます、案内板も出ていないがダムも見えるので間違えないでしょう。(ひ6-5)標柱を過ぎると階段を一気に登り、堰堤上部に出ると、「立入禁止、五助堰堤、H30m」の札が見えますが、下から見た高さは20m程しかないように思えた。

五助堰堤上部堆砂部

住吉川左岸に渡る

五助堰堤の西部を越え、上流の堆砂部分に降りると、まるで高原に居る雰囲気。
これを東に突っ切り左岸に渡ります。

左岸沿いの道を北に

五助堰堤過ぎ

左岸道は100m程で石畳となり川筋から離れ林間を進むようになる。古道の雰囲気が嬉しくなる。

(ひ6-7)標柱を北に見る

(ひ6-7)

石畳道を150m程進んだ、開けた所に(ひ6-7)標柱が立ち、「六甲最高峰(住吉道)」直進を示す。標柱後ろに「住吉川右岸道危険、左岸道を利用」とする看板が落ちている。因みに、明治の地図では旧道は左岸道で右岸には道が見えない。

(ひ6-8)標柱を北東に見る

(ひ6-8)

左岸道を80m程直進すると(ひ6-8)標柱が立ち、右(南東)「黒五谷、打越峠」への分岐点である事を示す。
 突然ですが、『六甲・北摂ハイカーの径』木藤精一郎、阪急ワンダーフォーゲルの會、1940年刊を要約すると「高臺道(住吉道)の西お多福山や西瀧ヶ谷道の分岐点に、今日では無くなったが、『大毎道標』がある」とする記事があり、その大毎道標が現在ではこの先に置かれており、それを訪ねる目標となる標柱です。

大毎道標を北東に見る

住吉道から大毎道標を東に見る

大毎道標

大毎道標の目印と書いたが、実のところ1回目はこの道標を見逃していた。順番的にここに書きますが、別の日に行ったものです。悪しからず。

(ひ6-8)標柱から北へ150mの道の東側(右)、笹に隠されて気が付かず通り過ぎていた。左の写真は見つけた後に少し笹を刈った状態で撮ったもので、元のままではほぼ見えません。

もし笹が無ければこの様に見えます。道から見える様に前面だけは刈っておきましたが多分半年は持たないでしょう。手作業でこの状態にするのに30分は掛かったように思います。

現状、下部は折れて遺失。大毎(大阪毎日新聞)の道標はこれの外に有馬阪急六甲駅に有り、その二基は大きさも様式もほぼ同じであるが、これは不便な山中に設置された為か幅、奥行き、共にいくぶん小さい。元の高さは分からないが、残っている部分の字の配置などからこれも低かったであろうと思われる。小ささの故か社章が文字面に無く石柱の頭部をドーム状にしそこへ彫り込んでいる為、かえって他の石よりも面白い。前述の書によれば元位置は下記に示す(ひ6-9)標柱の辺りらしいが、水害により流されたとしている。その為か柱部に数か所欠落が見られるがよく残ったものだと感心する。どこで見つけたものか分からないが、今は非常に大きな舟形の石の上に、支えの石に囲まれ置かれているだけで、固定はされていない。転倒、遺失などが気になる所である。

大毎三基の比較

住吉道の道標

53x15.5x15.5㎝

右□六甲山頂上ニ至ル 四

有馬の道標

145x23x22㎝

六甲山頂上ニ到ル 三、七二六・00メートル

住吉ニ到ル   一二、四一三・00メートル

六甲駅の道標

168x22x22㎝

六甲山前辻ニ至ル 五、五九八・三○メートル

(ひ6-9)標柱を北東に見る。
大毎道標の元位置とする。

(ひ6-9)

大毎道標から50m進むと、住吉道は大きく右(北東)に折れ曲がり手前右に(ひ6-9)標柱が立つ。「右、六甲最高峰4㎞・有馬」と案内するが、直進方向の案内ありません。直進(北)は崖状になっており2m程垂直に下りれば、住吉川本流と西瀧ヶ谷の沢との合流部に出られる様で、巨岩の下部に丸太橋が架けられているのは確認しました。帰りに登れる自信が無く止めました。
 ここが『六甲・北摂ハイカーの径』の言う「西瀧ヶ谷道の分岐点」で住吉道の大毎道標の元位置と思われます。現行の標柱は「右矢印、六甲最高峰4㎞・有馬」、大毎道標は「右、六甲山頂上ニ至ル 四…」の案内しかありません。当時も直進道は案内不要だったのでしょう。
 現在の標柱から、折れた道標の下部を想像すると「六甲山頂上ニ至ル 四、000メートル」となりそうです。

300m程先の尾根から六甲山頂を見る

ここから暫くUp,Downが有り少し辛くなります。特に下りが急で注意が必要になります。高い部分に出ると六甲山山頂方面の展望が開けます。
 明治の地図で見るとほぼ川と並行して進んでいるので、現行道は水害等により危険となったヶ所を高巻きに付け直した結果と想像します。

西おたふく山分岐標柱を北に見る

同じく南東(下り)に見る

西おたふく山分岐

識別記号の無い標柱、多分「西おたふく山分岐」地点であろう。これの案内に「六甲最高峰4.1㎞(住吉道)、住吉・御影4.7㎞」とあるが、山頂への距離が次の標柱の4㎞より長い点が気になる。これは住吉道を経由するのではないルート(西おたふく山経由等か)を示しているものかもしれない。

道標の入口を北に見る

(ひ6-16)

西お多福山分岐標柱から北へ130m進むと、柱に板を打ち付けたタイプの道標(ひ6-16)が見えてきます。この道案内のやや東に、今日の目的の最後となる道標を案内する看板が建っています。これに従い笹薮に近い踏み跡を進むと20m程でそれらしい岩が転がっていました。岩より先に白い解説板が眼に着くと思います。

道標(ひ6-16)から東に入る。
「六甲最高峰3.0㎞」地点

灘区五助ダム北の道標を東に見る

五助ダム北の道標

道標の周囲を掃除し、案内板を所定の位置に立てかけて撮った写真です。私が訪ねた時点では岩の表面が僅かに見えるだけでした。数か月も過ぎると元の状態に戻り、見つけにくいかもしれません。ここでもお掃除に30分を掛けています。これは笹よりも落葉が大変でした。

道標を南東に見る

掘り出しては見たものの、倒れている為表面の苔がヒドく、ブラシでも取れません。ご容赦ください。
 裏面は分かりませんが、全体は大きなカキ(牡蠣)の様に見えます。上面の「右 有馬道」以外に文字は確認できません。

『六甲・北摂ハイカーの径』の言う「古い右有馬道の道標」として間違いないでしょうが、「灘区五助ダム北の道標」と呼ぶことにしました。

道標の解説板を立て掛けた

転がっていた解説板を書き起こしてみます。
「約100m上に 有馬に物資を運んだ 旧有馬道の跡があり、この石標は1938(昭和13)年7月の阪神大水害でそこから流されたもので、およそ70年ぶりに発見されました。 2010年11月」(句読点、( )部は加筆)
 『六甲・北摂ハイカーの径』昭和15年三訂版の「本道は…左岸を行く…その岐点に今日では無くなったが、…その少し先に『右有馬道』と記した古い道標のあった…、昭和10年の雨…、昭和13年の水害…」記述とも特に矛盾せず、「この地点に水害により流されてきた」と言いたかったと思う。しかし、私の感覚では、土石流により流れ着いたのではなく、崖崩れにより転落してここに有るとしたい。

五助ダム北道標の元位置は

「流された」と「落ちた」になぜこだわるの。それは元位置推定に係るからです。解説板の「100m上」、『六甲・北摂ハイカーの径』の「その少し先」を検討する時に、土石流によるとした場合元位置の対象範囲が広がる為です。落ちたとなれば現斜面の上方だけを検討すれば済みます。

元位置?を北東に見る

同、通過し南に見る

道跡側から北を見る

転がり落ちたとして、且つ、説明板の旧有馬道跡らしいの両方を満足しそうな三ツ辻風な地点が有りました。
 それは、

(ひ6-16)標柱から70m道なりに進むと北東方向に向かう道が左(北)へ折れ、ほぼ水平な道となる地点があります。右側(南)からは広い道跡らしきものが合流している様にみえます。これが案内板の言う「旧有馬道の跡」としてよいと思うのですがどうでしょうか。明治の地図「今昔マップ on the web」でも、旧道はやや東寄りに余り蛇行せず描かれ、西に寄りすぎる現行の道は描かれていないように見えます。
 依って、ここを「灘区五助ダム北の道標」元位置候補としました。(地形的には上記より少し南寄りか。)

しかし、ここであったとしたら、大きな疑問が残ります。案内がいる場所だったのか。結論は出ていません。

元位置から50m程北

そこで、少し先まで、候補地探しを続けました。
 道は石垣に守られ、ハイキング道というより「旧街道」の雰囲気が強い。

元位置から100m程先を北に見る、住吉道は左に向かう。
「最高峰2.8㎞」とある。

道標入口から200mとなる(ひ6-17)標識、北東からの沢(谷)を越す地点で大きく西に曲がる。北東への道は無く、屈曲点である。この辺りから先に有ったならば、現在の位置へは人為的に運ばない限り届かない。転げ落ちたり、流された場合は沢筋に残ると思われる。よってこの先の探査を止める事にしました。

(ひ6-9)地点を北に見る
直進すると沢に降下

大毎の道標の元位置

「大毎の道標」をここで取上げたので、元位置をもう一度述べておきます。
 『六甲・北摂ハイカーの径』の著者はこの道標を見ている様で、その言によると「高臺道(住吉道)の西お多福山や西瀧ヶ谷道の分岐点に、今日では無くなったが、『大毎道標』がある。」は間違いないでしょう。それは、前述の(ひ6-9)標柱の地点と思われます。

終りに

11時に山道に掛かってから、此処に14時30分、途中道を間違えるハプニングが有りましたが2.4㎞を2時間半のアトラクションでした。後はこけない様に帰るだけですが、一度木にブチ当りながらも1時間10分で戻りました。
 尚、記事中の「大毎の道標」は別の日に出かけたもので、上記の時間には含まれていません。もし見つけていれば、「灘区五助ダム北の道標」に行き着けていなかったかも知れない。