このホームページを作成し始めて、日にちもかなり過ぎましたが、「摂津市」に関する記述が一つもない事に、気付きました。
何んとかしなければなりません。
「摂津の国の道標」と銘打っているにも関わらず、「摂津市」はほとんど知りません。取り敢えず、書きかけておいて、近日出かける事にします。
摂津市のHPの「おすすめ」を見ても「新幹線公園」と「市場池オアシズ広場」しかありません。安威川歩道橋が有るらしいので、下流部を見るついでに、行っておきましょう。
その他、キーワードとして、淀川最後の鳥飼の渡し、味舌天満宮、味生神社、鳥飼野々3丁目の鳥飼井路に流す三ツ樋、を上げておきます。
今日は市境の確認から入ります。
先ず、摂津市の北西端です。吹田方面から明治の亀岡街道を来ると、現府道135号(豊中摂津線)の交差点になります。今ではメインの道が変わったのでしょう、南北方面は、信号を長く待たされます。周囲の町名板を見ると、まだ吹田市です。
旧亀岡街道を北に進みます。厳密に進行方向を書くなら、この辺りでは北東とすべきですが、亀岡が北に位置するので、単に「北」と表現します。
「1.千里丘6市場池公園の道標」これも「イヤ」と言うほど見ています。今日も確認します。
市場池で旧地名(字・大字・村等)の名残を確認するべく、ウロウロしていると。
道標から、北東150m、公園内に大きな記念石(市場池跡碑)があり、その横の木杭に「味舌上町会」を見つけました。「今昔マップ on the wed」に、現千里が丘4丁目辺りに「味舌上竹鼻」とあり、これの名残とする。
吹田市ではあるが、道標は無事でした。
メデタシ・メデタシ。
辺りをウロウロしていると、始めて気付きました。「芝村藩札場跡」とする碑が、旧亀岡街道を挟んで道標の南側の、これも多分民家の庭に建てられていました。
芝村藩を摂津市HPの「市のおいたち」で見てみると、江戸時代の項で「味舌(ました)地域は主に大和国芝村藩に支配され…」となっており、ここに札場がある事は、中心地であった事を示します。
旧亀岡街道に交差する東(正確にはほぼ南)への道は、街道と思われ、進みたいが、もう一つの道標が、北にあり、それを見に行きます。
「千里丘1の道標」を北に見ると、道の東側に「摂津市」の標識が建つ、旧亀岡街道は府道14号に吸収され左に向う。
この道標から北へ100m辺りが、摂津市西部の北端になっているようです。
さてここから、南へ向います。道標確認の他に、乙辻街道、市場街道、枝切街道の物証がないかも調べたい。
「摂津市道千里丘9号線」がグーグルマップにあります。これを進みます。「すこやか通り」となり、JRを、とんでもない地下道で抜け、「摂津市道千里丘南千里丘線」に進みます。これは、坪井で旧乙辻街道に繋がる可能性があるかも知れないからです。或はこのルートこそが乙辻街道とすべきかも知れないからです。大阪府史の「乙辻街道、終点:三島郡三宅村大字乙辻仮定県道亀岡街道」がよく分からないからです。
道に迷いながらも府道14号の三島幼稚園前にでた。見覚えのある幼稚園である。これをJR千里丘駅に向け北に進みます。
同一か、どうかを確認する為、写真を回転させて並べてみます。
従来のもの
「左 かつをじ/ミのを/中山」、
倒置のもの
「左 ・つをし/ミのを/中山」
同じ物のようです。
交通事故でも無さそうなので、何かの都合で折られて、捨てられているようです。
現在の石の大きさを計ると、
55x23x19㎝となり、元の55x23x17㎝大きさと、奥行き部分で2㎝程誤差が出ているも、同じとして良いでしょう。尚、高さが変わっていない所を見ると、基礎部分は、元の位置に埋ったままではないかと思う。掘起こして寝かす手間を省いたものと、勘ぐってしまう。
無事ではありませんでしたが、一応、折損・倒置としておきます。残念。
この踏切の札を見ると「乙の辻踏切道」とあり、左側に小さく「おとのつじ」とフリガナがある。
踏切の西側は、現在千里丘東二丁目と三町目に成っており、道の南側が二丁目であるようだ。
踏切の東は香露園となっている。「乙辻」は無くなったのでしょう。
グーグルマップでは、東西の道が、府道143号(沢良宜東千里丘停車場線)となっている。明治の地図には道路の名称はないが、三宅村・乙辻、近辺の集落名に蔵垣内・太中・坪井とある。
天保国絵図には「乙辻村」があり、蔵垣内村と太中村に挟まれており、これから「乙辻村」は現在の千里丘東一・二丁目辺りとしたい。踏切のヨミからすると、明治の「乙辻街道」は「おとのつじ・かいどう」と呼ばれたかもしれない。
【後日】乙辻街道の終点を確定したいのであるが、「仮定県道亀岡街道」が何処になるかである。この踏切からの経路は、明治の地図で候補地が四か所考えられるが、府道143号(終点:JR千里丘駅)を頼りとするなら、JRを越え真っすぐ西へ道が相応しいとすると、四か所の内で、最も南寄りとなる、坪井共同墓地の北の四辻となりそうである。踏切にこだわらず、乙辻村集落中を通過するだけとすれば、進行方向からすると、旧街道上最も北に位置する、になると思う。
乙辻がゲット出来ました。道標安否確認に向かいます。
阪急の踏切を越え、すぐを南へ、「ガランドウ」用水跡かを南に進み、旧乙辻街道に戻りたいと思ったのだが、
安否確認は、千里丘1の道標から「乙辻街道」に沿って南下し「西一津屋」、淀川右岸を回り、「鳥飼八防」で終る事にしましょう。
昔、岸辺の操車場に潜り込んだ事がありますが、摂津市か吹田市か定かでない。当時は、機関車に登らせて頂いた等、今では考えられない、良い思い出です。
「乙辻街道」を『大阪府史』明治36年刊の、昭和36年復刻版で見ると、三等補助里道、起点:三島郡味生村大字別府高槻街道支線、経過地名:三島郡味生村・味舌村・三宅村、終点:三島郡三宅村大字乙辻仮定県道亀岡街道、となっています。
「市場街道」は『大阪府史』明治36年刊の、昭和36年復刻版で見ると、三等補助里道、起点:三島郡山田村大字山田下小野原街道、経過地名:三島郡山田村・味舌村・鳥飼村、終点:三島郡鳥飼村大字鳥飼西高槻街道支線、となっています。
他に「枝切街道」が一部通るが、短いと思う。一等助里道、起点:三島郡茨木町大字茨木仮定県道高槻街道、経過地名:三島郡茨木町・玉櫛村・宮島村・鳥飼村、終点:三島郡鳥飼村大字鳥飼下高槻街道支線、となっている。蛇足ですがこの街道は、多分著名な『大阪の街道と道標』武藤善一郎著の記述の誤解により、淀川以南も「枝切街道」とする資料が多く見られ、難儀したもので有る。此れに関しては「冷やかし暗越奈良街道」を参照下さい