芦屋

芦屋市の東西は距離が少なく、南北の道も生活道路としてはあるのであろうが、道しるべを必要とする集落も少なかったとおもわれる。東西の主要道路はやはり西国街道である。この街道は近世においてはやや山側を通過し、明治に入り市域東部で分岐し海よりへと進んでいる。現在の国道2号沿いが近世に近く、43号が明治の街道に近いでしょう。天保国絵図を見ると、夙川と堀切川の間で分岐している様にみえるのでもう少し東であったかも知れない。海よりの道を「西国浜街道」と呼ぶようである。

西国街道

浜街道分岐点辺りを西に見る

阪神電車北側
旧道再開地点

近世の西国街道から見ていきます。明治の地図で見当を付けると、阪神電車堀切川橋梁の西側(厳密には西宮市かも)から始めたいのですが、線路を越す道がありません。線路沿いに西に進み北に折れ高架の下を進み、東に折れ反対側に廻って見ましたがやはり行止りでした。一応ここを開始点としました。西に110mの筋違い四辻があり辻の北西部、マンション地内と思われる所に「春日町17の道標」二基があり、西側は地蔵が彫られている。東側の道標に「右、西宮道」とあるので、西国街道をさすものとしてよいでしょう。左への案内は「左、中山道」、地蔵道標が「左、甲山/荒神/中山/妙見/道」としており、北へ分岐を指示していると思われます。この北への道を明治の地図で探してみると二ヶ所の候補が見えいずれも「森具」への小径に続いていて、その後現JRのすぐ南で夙川を渡り西宮市の越水に最短でつながっている。この道は部分的に今も残っています。
なぜ、北への道を書くかと不審にお思いでしょうが、それは近世以前に消えた「古い西国街道(古代山陽道)」の痕跡かも知れないからです。

地藏越しに旧西国街道(奥へ)を見る

右端が道標、地蔵の左面にも案内

お地蔵さんに別れを告げ、西へすすみます。80mで旧道は無くなります。明治の地図をたどることはできませんが、現在それに近い道を進みます。
右(北)に折れ20m、
鳴尾御影線の三ツ辻を左(西)折し、430m西の三ツ辻へ、打出小槌町14-18の南西角を右(北)に折れて40m始めての三ツ辻(打出小槌町12-8)を左(西)に折れて、旧道らしい道が再び始まります。

春日町3道標を西に見る
左、阪神打出駅

春日町3の道標

途中、阪神打出駅北側の四辻北東部に「春日町3の道標」があり「是ヨリ五丁/阿保親王廟」とあります。旧道はほぼ現在地を通過していた様にみえるが、明治の地図ではこの地点は三ツ辻で北に向かう道は現在地の東20mか、西40mの三ツ辻跡であろう。
ここから、北130mには「図書館分室の道標」二基(当地に無関係)が、同じく北240mの国道2号山打出交差点北東部には
「春日町8親王墓三丁の道標」があり寄り道しても良いかも知れません。

西国橋を西に見る

打出小槌町12-8の北東角から旧道を西へ70m、三ツ辻に突当り右(北)へ40mの四辻を左(西)折れして道なりに220mで宮川にかかる西国橋になります。橋東詰め北側には白露地蔵があるようです。橋の名前からしてこの道に出れば旧街道でしょう。
橋の西詰から道なりに西へ280m行くと茶屋の町4の北の三ツ辻になります。ここをやや右に細い道へと進み、130m進むと国道2号の手前で階段だけの道となり、数段登ると国道に吸収されてしまいます。階段の手前30mの四辻を右(北)折して国道に出ると左手角(南西部)に「芦屋市茶屋之町」とする石碑が立つ。自転車等はこちらをお回りください。

R2茶屋之町北交差点から南を見る
先の左右が旧街道

清水町9の道標、国道北側の古美術店前

清水町9の道標

国道2号、茶屋之町北交差点から西1.1㎞津知町までは旧道を飲み込んでいるとおもいます。これより西は神戸市東灘区になります。途中1km地点国道の北側に古美術店があり、店頭に珍しい形をした道標(元大阪市内)があります。商品だとお聞きしたが、趣味で集められた感もあるように思いました。昔はそこにもう一基道標では無いが尼崎藩の境界を示す碑があったらしい。これは近くの山手のお屋敷に有ったものを引取り置いていたが、今は甲南山手駅南の駐車場(東灘区)に移してあるとの事です。尼崎藩領については「Web版図説尼崎の歴史」の近世編第2部、成長する摂津地域1、「明和(1769)上知前後の摂津国内所領変遷」に詳しい。

東灘区森南町の藩領石を南西に見る

青線は文中の経路と異なることがあります。

2021/8/21 作成

おわり