池田

池田の道については、落語「池田のしし買い」にも登場する能勢街道でしょう。でも道の有名度からは西国街道を一番としてこちらから見ていきましょう。
例の通り、近世の道標においては行先の案内に街道名を表現するることはないので、「XX(地名)道」となり「西国道」或いは「西国街道」とはなりません。もしあれば明治以降のものとなるでしょう。よってここでは今の国道171号に相当する道を明治の地図を第一にして次に古絵図を用いて近世(江戸期)後期の旧街道を想定復元しながらたどることにしました。近世の表現として「山崎(海)道」等もあるようです。これは多分京都から見て「山崎」への道としてつけられたものと思います。池田から見れば東への道のイメージでしょうが、この辺りの方にとっては「山崎」はなじみの薄い土地と思われので「京道」となるでしょう。

明治31年地図、西国街道(藤色)

出発点、今井橋東30mの三ツ辻
左へ西国街道

箕面線野踏切を北に見る

旧道右へ分岐し阪大下交差点へ

京都方面から下ることにします。
池田の東の市境は箕面市瀬川2丁目の西の石橋2丁目辺りと思われ、西は豊島南2丁目を越えると伊丹市に入るようです。分かりやすいように旧西国街道が大きく曲がる箕面市瀬川の今井橋東30mにある三ツ辻から始めます。ほぼ東の瀬川半町宿から来た道がここで南西へと分岐し石橋駅方面に向かう地点です。道なりに真っすぐ進むとすぐに箕面川に架る今井橋を越え、能勢街道から池田への道とおもいます。
起点の三ツ辻(北は川で行止り)から南西へ道なりに340m阪急箕面線野踏切を越え380m地点で旧R171東行きにのみ込まれ、480m地点の「瀬川5丁目交差点」で旧R171西行きと合流します。交差点を過ぎ道の西側を歩くと70mで旧道は右(南西)に分かれます。分岐から60m左(東)側に始めての観光地点となりそうです。玉坂新池弁財天供養碑とあるがよく知りません
不明の堂としておきます。玉坂はこの辺りの古い地名の様で待兼山と共に古歌(枕草子)にも「邂逅山」などとして出てくるらしい。
ここから180m道なりに進むと再び旧R171と合流し、R176との辻「石橋阪大下交差点」に出る。この交差点を対角線に渡り、南西角から70mでR176から南西に分かれ旧道が復活する。振り返れば旧道を真っすぐ来ただけである事が分かります。ここからは旧道の雰囲気が残りますが一方通行になっており対向車が頻繁にとおります。
分岐から100m地点の左(東)側に「辻の地蔵堂」と案内され堂があり『
山崎通分間延絵図』に描かれたものと思われる。そうすると、先にあげた「不明の堂」が一里塚か「□天塚」辺りになりそうに思える。

不明の堂と祠
右に玉坂新池弁財天供養塔とある

阪大下交差点を振返る

山崎通分間延絵図の地蔵堂と思う

西国街道は踏切渡西へ
左奥、能勢道刀根山へ

石橋3札場の道標、左宝塚線踏切

道標を南に見る

辻の地蔵堂から90mで阪急宝塚線の踏切に出会います。直前の右手(北)側にフェンスを背にして「石橋3札場の道標」が立ちます。札場とあるように古くは東西の西国街道、南北の能勢街道が交差する交通の要衝地であったと思われますが辻自体が阪急電車で切られており、今では線路の西側が四辻に成ってしまっている。
特筆しなければならないのは、今の踏切東部に南東より來る細い道が合流していることです。実はこの道が能勢街道なのです。この道をたどると「豊中市刀根山元町1の(小)道標」に繋がっておりそれが実感できます。現在のR176は阪急の豊中駅東側からほぼ線路に沿って石橋から井口堂、池田に進むが、明治の地図では蛍池で線路を西に渡りこの道標の西の辻を北に通り、石橋駅を過ぎて線路を北に越し井口堂に出て池田とみえます。が、さらに古くは前述の刀根山を通る道が能勢街道で平地を行く道は無かったようです。よって道標の建てられた「天保二卯九月」では当辻は四辻であったとするとすると、現西面の「左、池田」は良いが「すぐ、大坂京」をどう解釈するかが問題点となる。京は今まで進んで来た道で「すぐ」は良いでしょう。では「大坂」への道が何処で分岐するかを決めなければならない。ここで明治19(1886)年の地図を見るとこちらは五つ辻として書かれ、刀根山への道が達路以上の太い道で、南方への道が聯路として描かれている。よって天保の頃も五つ辻であったとしてもよく、辻の西側に立っていれば、「大坂」へは辻を直進してすぐ、南東に折れると解釈できる。よって線路で辻が分断されたのではなく、線路の西に四辻があり、数メートル進んで大坂への分岐があったとする考えである。勿論道標は西側四辻に置かれていたものとする。

山崎通分間延絵図のこの辺りを見ると、札場のすぐ西に「石橋」とあり、これに因み今の石橋であろうか、ただこの絵図通りであれば川の位置からみて「箕面川」に架かっていたものでは無さそうにおもえます。勝手にそう思い込んでいました。少し調べると石橋南小学校に「いわれ石」があるようで、それには「この石は…踏切を渡る…西側の小川にかかっていた石の橋で明治四十三年ごろまでは幅二間長さ一間の一枚石でした。」とある。今のこの石では小さすぎる。

校庭の「いわれ石」と解説板

『山崎通分間延絵図』文化三年(1806)頃か。
石橋の右(東)に高札場とあり道標の地点であろう。
左辻内に「道印石」、南に辻を離れもう一基ある。
分岐の道が細く分かりにくいが野道を含めると、
五つ辻と出来るが刀根山への道がどれか不明。

明治19(1886)年地図『池田村』の一部拡大
鉄道が無く南西から北東の西国街道に南東から北西の能勢街道が交差し、
そこへ南北の道も交わり、一見六ッ辻であるが北への道が1本に成っており五つ辻である。東西に少し距離がある辻の様に見える。

十二神社南地下道入口
右(東)石橋から来る

西側の地下道出口
右(西)、伊丹へ

線路を越えた西の四辻から続けます。
西に直進し道なりに320mの三ツ辻を左(南西)の太い方へ進み、そこから280m道なりに進むと住吉神社北東の信号になり、この広い道を渡ります。渡ってから320mで十二神社の前の地下道を渡るのですが今は通行止めの為西側の出口まで南の住吉二丁目北交差点に迂回し、現R176を越えて右(北西)に折れ西側出口に進みます。出口すぐ北の側道の辻を左(西)に折れ、道なりに420mで箕面川の土手下に突当ります。左上に中環の高架が有り、正面に1m幅程度の階段が見えます。これを登り、落ちそうな橋(令和3年11月閉鎖)を40m渡ると旧R171の南側に出ます。「新開橋交差点」と歩道橋にあります。これを西には歩けないので左(南西)に折れ川に沿って下り、中環の下をくぐってすぐ右(西)に折れ側道を進み、中環とR171が合流した後の道に南から合流します。多分この辺りから伊丹市内となります。
近世には豊嶋郡、川辺郡の境でもありました。

箕面川左(東)岸の突当り

箕面川に架かる歩道橋の西詰、奥石橋へ
令和3年11月閉鎖予定

県、市境を西に見る
左が旧街道か

青線は上記経路と異なることがあります。

2021/9/6 作成