剣尾山
下見谷丁石

剣尾山月峯寺丁石一覧

1.始めに

剣尾山月峰寺へのもう一つの参道、下見谷道について見ていきます。
 こちらは、中宿野から旧大阪府総合青少年センター、K-3たわ、白木谷参道と合流し、本堂跡の経路となり、青少年センターまでは、自動車も通る道になってしまい、参道の面影も無く、丁石も二ヶ所に4基が移設させられいて、白木谷参道のように訪ね歩く楽しさはない。
 一応、遠い順に紹介しておきます。

起点、38丁想定地点

登山道始点、10丁?

到達点西端、本堂跡西側

2.起点はどこか

起点をどこにしましょう。丁石は江戸時代より前の作と推定されていますが、江戸時代の作成になる『攝津名所圖會』. [12]の「劔尾山舊蹟」コマ番号49を参照してみる。同書には「大里村より五十町北の方、山遍村上方にあり、又中宿野より登れば坂路壱里(36丁)、此道嶮岨にして渓水道を遮り行路の半に梵字石あり…」とあり、36丁としたいが、現存するものに38丁がありこれとせざるを得ない。では38丁とした時の想定元位置はと見ると、千ケ畑に続く道(現府道54号、園部能勢線)からの分岐点辺りになり、起点とするに相応しいと思う。前書の中宿野からは概算距離を書いたとします。

想定17丁辺りの梵字石か

地蔵種子麿崖碑の説明板

尚、「想定」とは、現1丁岩からの距離を地理院地図上から求めたものです。

3.最遠丁石は移設

現存する38丁は34丁と二基同じところに移設され、37,32丁(是も移設)よりも近い場所に置かれる。やはりここは現在の場所の遠い方から順に巡るとします。

4.一番遠い37,32丁

37丁、32丁が同じ所に置かれこれが最も遠い位置になります。大里の池の畔西側になるが、一般の人が通る場所ではありません。
 もし大阪方面から自動車で向かったとし、分かり易い道順で説明しますが、駐車場となると能勢町役場に止めるしかないでしょう。国道173号を池田から北上し、一庫ダムの西を過ぎ、能勢町栗栖の交差点で「妙見山」方面へ東折れし、府道4号で能勢町役場に向かいます。1.2㎞で大里南交差点(三ツ辻)を左(北)に折れ府道104号へ、530mで後で戻って来る三ツ辻(本当は四辻)を過ぎ、790mで町役場入口になります。多分駐車料金はいらないのでは無いか。
 この入口から徒歩で南へ260m戻り、大きな三ツ辻を西に折れ、50m先の地蔵祠の三ツ辻を南に折れ、50m少し登り西側民家の切れた地点が池への進入地点です。池も見えなければ、道も見えないと思います。畑に登るのではなく、民家南の側溝に付いて登ります。

役場から260m南の辻を北に見る

50m西の地蔵、奥(南)に進む

池への進入口、右端を西に登る

水の無池の東堤から西を見る

40m西に登れば池の土手上に出るので、丁度その向こう正面になります。南に回り込んでいけば良いでしょう。

屋根付き井戸の北側に二基

左37丁、右32丁

差し渡しが20m程の池の西側に屋根の付いた井戸?があり、その北側に置かれていました。東の一基は寝かされたか倒れたか板碑に感じる32丁丁石で、左の倒れかけが37丁で古く小さく見えます。同じ時期に建てられたものでは無いでしょう。又何故ここに有るか不明です。森本弌さんの『能勢の道しるべ』1991年にも「オダ池池畔」とあるので最近の移設ではなさそうです。

37丁梵字と「月峯…」

この37丁丁石は特徴的には白木谷参道の丁石に似ている。そちらの遺失の25丁と同時とすれば應永十八(1413)年となるが、寺名が書かれている、高さが少し低い等の違いも見られる。

32丁は、37丁より幅広で新しく感じる。

32丁は「三十二町」と刻む

5.久佐々神社の道標

駐車場に戻り次の丁石を見る前に、寄り道。
役場から府道104号に出て北へ、150mで宿野交差点三ツ辻を右(東)府道54号へ、交差点から400m左(北)側に久佐々神社駐車場入り口の看板が見えますここに入り、入口西の植込みの裏側に「久佐々神社の道標」があります。これは月峯寺を案内してはいませんが、旧道の位置を確認するに打って付けと思われます。東への細道がそれと思われます。現在は民家に突当り先にはどう繋がっていたか推測するしか有りませんが、明治の地図に一致しそうです。

久佐々神社を北に見る

駐車場入口の道標を南東に見る、後が府道

道標を東に見る、奥へ旧道跡か

6.想定38丁地点

神社を出て府道54号を東に向かいます。250m辺りが想定38丁地点になります。北側はお食事処のお店となっています。
 此処にこの後で述べる38丁丁石が建っていたと思われる。明治の地図で見ると山入端に沿って蛇行する道が見えますが、丁度この辺りは現在の府道に吸収されています。食堂の東にはその跡らしいものも見えます。

7.宿野3区公民館前道標

 これを過ぎ80m右側(南)に「宿野3区公民館」が有り、この北東角の生垣に隠れ「公民館前の道標」昭和3年が立ちます。移設されたものらしいが、これには「此山頂剣尾山月峰寺趾」とお目当ての案内があります。現在ではここが信号のない三ツ辻に成っており、北に向かう道が、ほぼ下見谷参道に一致しています。車で向かうならここを左折して府道54号と別れます。

3区公民館前三ツ辻を東に見る、左(北)に折れ下見谷道へ

剣尾山を案内する昭和の道標北面

道標(植木で見えない)南から、下見谷道(奥へ)を見る

想定37丁辺りを北に見る

8.想定37丁地点

さて次の37丁想定地点ですが、上記三ツ辻を折れて50m辺りになるでしょう。但し旧道は先のお食事処から続くようで、今の様に直角には曲がりません。そしてこの後、舗装路は東に曲がり旧道跡から離れてしまう。旧道は曲らずに正面民家の西側の1m幅を行くことになりますが、徒歩以外では無理でしょう。車を想定しているので公民館前から、290m進んだ最初の三ツ辻を西の農道に折れます。農道に入り60mで旧道を横切った後、急坂を登って140m地点で行止りになります。正面が地蔵堂です。多分車は置けたと思います。

下水の地蔵堂を西に見る

9.下水の地蔵堂

丁石の探訪としては二番目となる下水の地蔵堂です。
 永禄元年(1558)の「名号板碑」が売り物の様ですが、それには目もくれず丁石を探します。

左地蔵堂を北西に見る、中央石垣に二基が立掛けられている

二基を北東に見る、手前が38丁(最遠)丁石

この「下水の地蔵堂」に二基の丁石が置かれています。堂北側の石垣に立て掛けてあるだけなので変わるかも知れないが西(左)側が最遠の38丁、右が板碑風34丁となっていました。こちらも38丁の方が小さく古い様に見えます。

10.起点か、38丁石

この38丁が最も遠い距離を示します。前述の想定38丁に有ったと考えられるので幹線道からの進入点として「月峯寺」は欠かせないでしょう。差し詰め現在移設の前述公民館前の道標に相当するでしょうか。但し、よく似た37丁丁石にも「月峯寺」とあり、下見谷丁石のこのタイプの共通意匠かもしれない。

38丁南面

38丁上部、「月峯寺」でしょう

38丁下部、「丗八丁」

11.板碑型か34丁

ほぼ全体が残る34丁です。舟底型の背面を持つ山型板碑と思われるが、38丁よりは新しく感じる。形状の分類からは32丁に似るが、梵字を日輪で囲みかつ連座に載る様で32丁とは別に作成されたと思う。32丁より古く感じる。
 想定元位置からは割に近く移設先としては妥当な気がする。

34丁南面

同、右面

34丁上部、梵字

34丁下部、「三十四町」

12.想定34丁

地蔵堂下から東を見る、徒歩なら80m先を左(北)に、車は直進

この後、徒歩の場合は、80m下って四辻を左(北)に旧道を進みます。車も通行可能かと思いますが、140m戻り、広い道を北に進むのが無難かと思います。徒歩の場合は旧道を北に折れてから140mの想定34丁地点を見た後、東に転向し230mで自動車道に合流します。

想定34丁地点を北に見る

13.想定32丁

想定32丁を北に見る

徒歩の時想定34丁から80m先で広い道の四辻に出合い、これを北に折れ120mで想定32丁になります。車の場合は地蔵堂進入地点の三ツ辻から約300m北辺りになると思われます。

14.行程半ばの梵字石

旧野外センター入口手前の三ツ辻を北に見る、右10mに梵字石

これ以降は旧道の痕跡は見当たらず、自動車用の道に吸収されているともわれ、青少年センターの登山道開始点迄は味気の無い舗装路を行くばかりです。
 ただ一点、前述名所図会にある「行路の半に梵字石あり」に該当するものが、センター入口手前の三ツ辻を右(東)側入ってすぐの、大きな石(宿野牛堂、地蔵種子磨崖碑)がそれではないかと思われる。想定17丁辺りになると思う。

宿野牛堂、梵字岩を北に見る

15. 想定10丁と10丁石?

想定10丁辺りを北に見る

想定10丁の位置は現10丁石?より少し下方(南)70m辺りになると思います。そこは舗装された自動車道と施設への入口辺りになり、保存設置に相応しくなく現在地点に置かれたとします。

明治の地図上に丁石を示した

10丁石?から北西の登山道へ

10丁?を西に見る

10丁?の北東面拡大

10丁石?左横の説明板

自動車道と分れ、登山道(下見谷参道)に入ります。此の道は「センター道、茶沸かし道」とも言われているようです。分岐の三ツ辻南西角に「10丁」とする石が置かれていますが、数字部が失われており断定はできません。この石が発見された位置から10丁とされるものであるが、この位置で見つかったものでもないようです。確かめる術もないので10丁石か?としておきます。
 ただ、10丁とした場合この位置が相応しいかの検討は出来ます。西に9丁(これも不確定)がありますが、それはこの10丁から距離を合わせたようで、参考にはなりません。ここは最も確かであろう「1丁岩」から求めるしか方法はありません。この時経路が正しく無ければ意味が有りませんが、明治の地図と見比べるとほぼ現在の登山道が一致しており、唯一、自動車道から分岐する地点が今より北に成っており、当初は「自然研究施設」が建てられた為に南に移動したものと考えたが、現地の地形(沢との位置関係)を見ると今の道の方が自然である。

16.想定9丁、9丁石

想定9丁を北西に見る

振返って南東を見る

想定9丁辺りを見ておきます。北西に進んだ道は西に向きを変えていきますがその手前辺りです、何もありません。振り返れば10丁の辻が見えます。10丁からは40m程です。

10丁が北によった為、9丁?も西によっています。上にも述べたように、1丁(109m)離れています。こちらも発見位置から9丁としたもので上部が無い為確証はありません。説明板の一部を抜粋しておきます。「しかし、この町石は、完全なものではなく、何町の町の下半分より下の部分しかありません。…九町と十町の間の川に埋もれていたもので、九町石と呼ぶことにしています。」
 この石の北側少しの所に沢が流れており其処で見つけられたものと思います。

9丁?を西に見る

9丁?南面と説明板

9丁?「町」の一部

17.想定8~5丁

下見谷道参道には、これ以降1丁岩まで何もありません。ハイキングと割り切って登りましょう。参考のために想定される丁数辺りの前後と目印になりそうな写真を載せて置きます。

想定8丁で西を見る

振返り東を見る

想定7丁で西を見る

振返り東を見る、南側の沢が近い

想定7丁から40m程先、「府営林」の札でやや左に向きを変える

想定6丁で南西を見る、階段になる

振返り北東を見る、左右共に沢

想定5丁辺りで南西を見る、この後九十九折れで足場も悪く南へ向う

振返り北東を見る

18.現白木谷道合流点と、想定4丁

想定5丁から60m、K-3たわに出て南を見る。右に折れ1丁を目指す。白木谷道現5丁石へは赤標識を後ろ(南)へ下る。

想定4丁を西に見る

振返り東を見る、下にK-3地点が見える

19.白木谷参道合流点

白木谷参道合流点を北西に見る、想定4丁から70m辺り

白木谷道合流点で東を見る

同、南東を見る。是が白木谷道か

20.想定3、2丁

白木谷参道と合流後は一本の参道となり、3,2,1丁を残すのみとなるが、現存するのは1丁岩だけである。

「七合目」を南に見る

想定3丁で西を見る

振返り東を見る

想定2丁で西を見る

振返り東を見る

21.日月岩と1丁岩

想定2丁から一丁弱に不動岩が有り、その先に日月岩が有ります。この日月岩の上に目指す1丁岩が有りますが現登山道からは見えません。日月岩の右(東)を回って上に出ます。大きな倒木がありますがこれを越えると右手(北)に1丁岩があります。

日月岩を北に見る

岩の右から上に登る

1丁岩の前に出て北を見る

1丁岩を北に見る

丁石を感じさせる彫り出し

「一町」とある

1丁岩を西に見る、この岩の左(西)横を登り(写真右奥)本堂跡へ

鐘楼跡手前で北西を見る。正面(北西)に鐘楼跡東側が見える。

本堂基壇跡を東に見る。鐘楼跡から最短で進むと本堂跡南東端へ。

私の思う参道を紫色で示した

22.本堂へ

1丁岩のすぐ左を登り北西にほぼ直進すると、幾つかの建物跡と思われる平坦地を過ぎ、鐘楼跡南東端に出る。この東側を直進するとすぐに本堂跡の基壇石がある南東角に着き目的地到着となります。後日この距離を地図上で測ると、1丁(109m)より短い事が分かります。
 そこで少し考え、「本道へ参拝するに相応しい道なら正面から」とすれば、鐘楼跡南東角に出て西に曲がり、本堂正面の真南から北に進むべきであろうとした。この経路を測るとピタリ1丁となります。

尚、日月岩から、現在の登山道を通り行者山からの登山道との合流K-4地点を経て、山頂に向かう道を行けば、西側から鐘楼跡や本堂跡を案内する看板が立っている。上の図を見ると分かりますが随分と遠回りになります。

現登山道の鐘楼跡入口を東に見る

現登山道の本堂跡入口を東に見る

蛇足ですが、丁石の起点(麓側)と終点(ここでは1丁岩)に建つ二基の丁石は中間の丁石のシンプルな意匠ではなく異なった意匠である事が多い、に従えば、この1丁が岩に刻まれ特別である事は納得できる。