尼崎(西国街道)

尼崎市の西国街道(山崎通)は、現在の西昆陽町部分のみで、河川敷も含め800mの区間でしょう。R171の新道、旧道にほぼのみ込まれ近世の道の面影を残す道はありません。見ておきたいのは、大正に入っての「武庫村道路元標」と、武庫川河川敷内の髭(ひげ)の渡し跡の二点かとおもいます。

伊丹市西国街道解説碑より
山口県文書館「行程記」から

旧R171から南西を見る
右歩道橋下に元標

ガードレール後に元標
右後ろに祠

武庫村道路元標を北に見る

伊丹市との境はR171と県道42号(尼宝線)の昆陽交差点より180m南西あたりと思いますが目印がないので、昆陽交差点から始めます。国道北側を500m南西に進むと「西昆陽交差点」になりますが、R171新道が南に曲がり始めているので大きな交差点になっているが1970年頃までは北側の四辻だけだったように思います。南北の道は尼崎市の守部あたりから宝塚市の安倉につづく道であったでしょう。交差点を南西に直進(旧R171)すること140m地点に歩道橋がが架かっている。歩道橋北側階段下に「武庫村道路元標」と小さな祠があります。大正12年の地図では離れた東武庫に役場が有りここの道筋とも違うし、ここに元標をおく理由がなさそうである。ここへは移設されたものとして、元は上で述べた西昆陽の交差点にあったものではないか。東西、南北の太い道がまじわった辻としてふさわしくおもいます。尚、当時現在の尼宝線(昭和7(1932)年日本初の自動車道)の辺りには道はありません。

道路元標から旧R171を南西に190m武庫川の左(東)岸土手に突当り道が左(南)へ曲がり始める手前に四辻があり、これを右(北)に折れて50m登り土手上の道に出て、これを横断して河原に20mおりた辺りの右手(北側)に常夜灯と少し西に「髭の渡し解説板」があります。(堤防上の道の横断は気を付けてください。車が多いのに横断歩道はなく、河原へ降りる道はガードレールの切れ目に巾1m程の階段だけです。車はおろか自転車も通行できません。河原や近辺に駐車場も見かけません。)

旧R171、右折する辻を西に見る

交差点より北を見る。渡し跡、宝塚へ

河原の髭の渡し跡常夜灯を西に見る

尼崎市、髭の渡し解説板

髭の渡し跡常夜灯を振返って東に見る

武庫川左岸より西宮側を見る
今はすぐ下流に砂防提があり水が淀む

川向うは西宮市になります。上の写真「伊丹市西国街道碑の「行程記」には「武庫川広二町陸渡リ、此水広二間水浅シ」とあり、国立博物館の「山崎通分間延絵図」では「川巾二百六(又は八)十間」としており、2丁で218m、268間で468mと大きく違うが、渡し地点を明治の地図でみると堤防間が470m程度と読み取れ、「行程記」の記述は普段の水の流れる巾を書いたのではないでしょうか。ただし後ろの「此水広二間水浅シ」は「二間」ではなく「二町」の誤りではないかとおもっていますが、原本を見たことがありません。昭和36(1961)年頃の夏休みの記憶では子供の腰くらいで幅は50mほどであったように思う。渡し跡よりは少し下流だったようにおもいます。

青線は文中の経路と異なることがあります

2021/8/20 作成