伊丹3(有馬道間道)

「有馬道(間道)」としているが、間道とする根拠は何もありません。何度も言いますが、尼崎市の資料に書かれているものがひとり歩きしたのでしょうか。便宜上、大坂から伊丹郷町を通る道を「有馬道」としたので、途中の尼崎市「神崎町12の道標」にある有馬を指示する西へのルートがありこれを区別するために「間道」と名付けただけだとおもいます。これは、時代を考慮していない為に起きたものでしょう。近世の道標にあっては、有馬は北への道であったものが、明治11年には西への道が最適であったためと出来ます。本来名付けるなら、「明治11年の有馬道」であろう。例えばですが、もし現在神崎橋を西に渡った辺りで道標を建設するなら橋西詰に「すぐ 有馬道」と県道41号(近松線)を案内すると思います。これを100年後の人が見つけたとして、現県道を「間道」と表現するでしょうか。「近世の頃の「有馬道」は橋から北に向かっていたが、「間道」は北西に向かって延びていました。今では阪高を通って宝塚に出ます。」と言っているのと同じだとおもうのですが。…しかし私も「有馬道(間道)」を使わせていただきます。参考として「ぬけ道、ちかみち、どちらもXX」等と表現するものが市内にも一例あります。探してみてください。

明治前期の尼崎との境界あたり

では伊丹市内に入ったころから続けます。塚口神社北西角から県道に出た三ツ辻からとします。
旧道はほぼ直線で北西に続いていますが、消えている為、左(西)へ30m進み阪急伊丹線の踏切を越えます。平面ですので越えてすぐを右(北)に折れ線路沿いに40m進むと、逆K字型の辻が現れ、これをななめ左(北西)に進みます。130m進むと古墳跡と思われる墓地に突当りこれを左(西)に廻り込み道なりに100mで三菱グランドの南東端に出ます。ここで旧道は無くなります。明治の地図ではほぼ直線的に続いていますが、一度左(西)190m県道142号(五号橋線)塚口小学校北交差点を右(北)に190mで旧道の延長線上となる分岐道が出てきます。これを左ななめ(北西)に進み見通しはきかないがほぼ直線720mで南野村南に突当ります。途中金岡川の小さな橋と県道336号(御願塚東富松線)をこえます。

南野村の南口にあたる、有馬は右へ

南野村の南端はY字状の三ツ辻で正面が民家の門になっています。辻南東部に「南野村道標」が立っていたらしいが現在は博物館に収蔵されています。「右 中山」までは読み取れるが「小」以下はむつかしい。博物館では「小浜」としている。「有馬」は無いが「中山」方面に向かってでよいでしょう。辻の何処に立っていたのでしょう。 右に10m進むと三ツ辻となり、左(北西)に進んでください。右は「伊丹、西宮道」の御願塚方面です。左は西宮へとなります。
北西に道なりに(せまい道です)230m進むと新幹線の高架下で少し筋違いになっていますが、それも北西にくぐります。越えて70m行くとT字路に突当りこれを右(北東)に折れすぐに左へ弧を描く様に北に分かれます。昔は一本道であったとおもわれます。分かれて180m県道142号(米谷昆陽尼崎線)にのみ込まれ、40m北で右側に復活します。美鈴町交差点の南で分れた旧道を道なりに1.2㎞進むと昆陽の札場の辻、即ち西国街道との交点になります。途中何本かの広い通りを横切りますが、「道なり」の言葉通りに進んでください。特に最後の県道334号(伊丹寺本線)は4車線で横断歩道が無く、西側の昆陽6丁目交差点を渡ることになるでしょう。また、札場の辻のバス停がこの県道の東側にある為、近所の人に道を聞いても旧道の辻を教えてもらうことはむつかしいでしょう。

南野村道標

昆陽1丁目の道標、札場の辻はこの先120m

昆陽はあまり知られていないですが、西国街道の宿場町です。本陣もあったと聞いていますが場所は分からないとされています。そこで勝手に想像した場所は、「西国街道」の項を参照下さい。
ここでは、その道を突き切って進みますが、私の想像ではこの辻に「昆陽1丁目の道標」が立っていたとしました。現在では少し東の稲野小学校校門前に移設されており、街道の解説碑等も置かれています。また辻の南西部には大正時代に設置された「稲野村道路元標」も残っています。

札場の辻の道路元標、今回の道は右(南)から来て左(北)有馬へ直進する

昆陽4東天神社前の道標、右壁際に道標有馬道は左(西)へ

松ケ丘の地蔵菩薩道標、左に有馬道、右奥、昆陽寺へ

札場の辻から北へ150m、長かった直線の道が神社に突当ります。東天神社と言いまして当然西天神社も600m南西に有ります。昆陽をはさんで東西でしょうが、むしろ昆陽の北端であったと思います。
この辻の北東部(正面鳥居の右壁際)に小さな道標があります。草に覆われ見にくいかも知れませんが、南面に「左、小濱、有馬」としるされています。他の面も含め全て漢字で書かれており、明治頃のものかと思うのですが、これを頼りに左(西)に曲がり50m先の三ツ辻を神社に沿って右(北西)折れし60mで今のR171(西国街道)に出ます。これを北に渡り、旧道は新道にのみ込まれてしまいます。一部市民病院より北で新道より東に旧道が残るも200m程で再度吸収されてしまう。R171昆陽交差点より前の旧道を少し遠回りして800m道なりに進むと、県道142号(
米谷昆陽尼崎線)の「昆陽池西交差点」になります。昆陽池公園の西の入り口になります。公園に寄りたい方はここを右に入りますが、グット我慢して横断歩道を西に渡って下さい。正面に小さな祠があり、地蔵さんがまつられています。その台座が道標になっています。「松ケ丘の地蔵菩薩道標」としました。墓地北側からの移設とされ北向きに立っていて「右、行基菩薩道」とある様に三ツ辻南西の道を進めば「昆陽寺」に続きます。この道は県道333号(川西寺本線)となっており、この北の辻で有馬道と分かれ、昆陽池北部を通り川西につながりますが寺本にある二基の道標を見ると「妙見道」と出来るようで、大坂からの湯治客と灘あたりからの巡礼客が入り混じって通る250m区間であったように思う。

松ヶ丘の地蔵道標から北250mの県道333号(川西寺本線)分岐の中野大橋南詰までは旧道の面影は有りません。北に40m横断歩道と橋を渡り橋北詰交差点を左(西)に30m進むと三ツ辻になり、これを右(北)へ折れて中野村中をとおります。明治の地図を見ますとこの三ツ辻が旧道の橋の北詰であったようで、南詰に「池ノ茶屋」が、北1.5㎞には「姥ヶ茶屋」が有るのを見れば、大坂から約18㎞ほどで一休みをする人も多かったのではないでしょうか。

中野東3丁目道標、左真っすぐ有馬へ

中野北2丁目常夜灯道標から南を見る
710m南に中野東3丁目道標

中野大橋北詰西30m辻からです。北西に70m地点三ツ辻がY字状になっています。その正面に石灯籠と足元に「中野東3丁目道標」があります。道標は明治21年9月「右、中山寺/左、小濱」とあり移設ではなさそうであるが、中山寺への距離があわなくて気になります。又右の道は現在では新道に吸収されるが明治期には左の有馬道(間道)とほぼ並行し「鴻池宮ノ前道標」があったと思われる有馬道の辻に出ていたと思われる。 「中野東3丁目道標」の三ツ辻を左(北西へ直進)に進みます。天王寺川を渡り710mで素戔嗚神社に突当り三ツ辻南西部に常夜灯がありこれの台石に道案内がかかれています。「中野北2丁目常夜灯道標」としました。東面に「左、小濱」とあり西へ折れることができます。北面には「右、大坂」で私たちがきた道をさしています。東への案内は必要もなかったでしょう。

鴻池宮ノ前道標の元位置か
奥、有馬道
を鴻池へ

「中野東3丁目道標」から西に折れた道は再び北西に向きを変え610mで「姥ヶ茶屋の道標」に繋がりますが、向きを変えたあたりで伊丹市は終り、宝塚市安倉へと入っていきます。左手(西)に常休寺の金色の観音像が見えるあたりです。

姥ヶ茶屋の道標から南東を見る
左、有馬道、右、有馬道(間道)とした

2021/8/12 作成中です