神南邊(5)
神南邊奉納の額を読みに
神南邊奉納の額を読みに
2024/4/2、まだまだ神南邊です。
報恩寺にお願いしていた「扁額」を見に行きます。前にも来たことがあるので近辺の地理に不安は有りませんでしたが、途中二回ほど余分な行程(迷い道とは言わない)を経ました。
額は寺改装の折、傷まないようにとガラスが前面に着けられています。これが、曲者で堂内の景色が写り込み肝心の額面が写りません。カメラの向きを変え写真を撮るが、高い場所でもありママならず、せめて紀年銘の部分だけでもと思い取ったものがこの様なものです。申し訳ありません。当然本文部分は読めていませんが、『狭山町史』に翻刻文があり、それを信じる事にします。誕生日や出家した年月日に関する記述はこの額を含め、他にもなさそうなので諦める事にしました。
今日の予定は、この後二ヶ所、一ヶ所はすぐ近くです。前回忘れていた河内長野市の「晴明塚」です。これには紀年銘が無いとの事で忘れていても気にはしていなかったのですが、ここまで来たら見ておきましょう。寺のすぐ西の府道を南へ進み、西に偏っていきます。
14:00、西高野街道沿いになるのでしょう。突如として西側に現れます。この塚の由来が「土地の人の天気予報があたり、専門家(陰陽師)である安倍晴明の予報が外れた(負けた)ため、晴明が本に頼りすぎる事を戒める為にそれらを捨てた場所」らしい。
であるなら、旅先での休憩場所か、土地の人と会話した場所である可能性が高く、寺社や旧跡等でなく、特徴のない所に在る事もうなずける。
次の目的地に向かう前に、図書館に寄ります。『河内長野市郷土研究会誌第59号』2017年を参照したとする記事を見たので、原本の確認です。地元図書館には蔵されている。市役所より西側にありました。細い道を抜けて到着しました。
同書の86頁に「神南辺隆光と御室御所(仁和寺)、そして西国三十三度供養塔、石造物に刻まれた文言から見えるもの」玉城幸男が掲載されています。これから、御室より名前を賜ったとする年号を確認する為です。しかし残念なことに、御室八十八ヶ所霊場巡りが文政13年の地震により倒壊し、再建協力と一番、五十番、八十八番の標示石を建立した。「そのことがあって門跡に拝謁を許されたのであるが、そのとき門跡前をもはばからず、あぐらをかいて盃をうけたというエピソードが残されている(注、堺市史第7巻)。」とするだけで、拝謁年月日の裏付けは取れなかった。この記事も、またしても堺市史に翻弄されている。
今日の最後の目的地に向かいます。近鉄滝谷不動駅へ。事前にマイマップに登録してあるのでナビに頼る事にしましたが、ナゼかハングアップ、再起動等試みるも、「経路」を押すとアプリ・プログラムが終わってしまいます。
マ、適当に行くか、と国道170号(外環らしい)を東に向かいます。この道は南海高野線を越えると北に向かうのですが、道なりに進んでいるので東に進んでいるとばかり思っていた。その上新しい道(バイパス)を進んでいたようで、滝谷駅方面に続く府道38号に降り損ね直進してしまう。何かおかしいなと気付き、Kホームセンターの辻を南に折り返す様に曲がりました。変則的な大きな四辻に出て地図を確認すると、すぐ近くに来ていることが分かりました。ななめ左(南東)に折れると200m程先の四辻の左角に電柱に隠れた道標が有りました。
早速、写真を撮ります。南西面が見えません。北西面「すぐ槇尾山」?、南東面「すぐ葛井寺」?、どうも向きが違う様である。もう一度南西面をのぞき込むと、「右、瀧谷山…十丁」これは良さそうであるが、でも90度時計回りに回すと全てがOKとなる。
回してみると、電柱がなかったとしてこの時一番目立たない面に、今日はお目当ての「発起、神南邊」が来て四面共に整合性がとれる。依ってこれを元の状態とする。
という事で、本日はここまで。松原方面へ出て帰る事にします。
報恩寺の扁額、大いに期待して行ったのですが、撮影の不備もあり読み下す事が出来ませんでした。唯一「神南邊大道心」が読み取れ、年月日の一部ではあるがそれらしいと確認が出来、狭山町史の読み下しを信じても良いのかな、と感じました。