4基の内、最も西端の尖頭型角柱の石です。道に面した面(南西面)は「南無阿弥陀…」名号石だな。読取難いな。右面(南東面)はどうかなと見ます。
なんと「右…」、「左…」と有る様です。「左」の左上は一部欠けているようですが道標に違いありません。この時まで気が付いていませんでした。はやる心を抑え、先ず掃除です。草刈りの必要は無いものの、ブラッシングが必要です。
結果、「右 く王さん…」、「左 三田…」辺りまでは読めました。読下しは帰ってからと考え、撮影を急ぎます。右回りに写真を撮るのが通常なのですが、この時は、この右面の後、正面(南西面)が気になり左回りに撮ってしまった。
正面は「(梵字)南無阿弥陀仏」と道標機能は無し。
左面(北西面)には、左右の案内が有るが、右方面が二行「京あたご山…」、「ほん…」あり、左方面は「はつ可山…十七丁」と読めます。右の2行目が何処を指すか不明ですが、間違いなく道標です。左の案内は今し方登って来た参道への案内であるのは明白です。このすぐ東に「十二丁」丁石がある事から5丁も遠くから移設されたものと考えられそうです。
最後に裏面(北東面)は、暗くて良く分りません。ヘッドランプの力を借りて、「文化十三丙子十月日」、「世話人…」と読めました。下段に三名の名が刻まれているようですが、「喜、七、六助」辺りしか読めません。後の楽しみとしておきましょう。建立、文化十三年十月は1816年11月となります。
後日、『さんだの道標』の読み下しは少し違うかと思う。
北西面の上部、
「右 京あたご山…/…」
「左 はつか山…十七丁」
結果、「右 く王さん…」、「左 三田…」辺りまでは読めました。読下しは帰ってからと考え、撮影を急ぎます。右回りに写真を撮るのが通常なのですが、この時は、この右面の後、正面(南西面)が気になり左回りに撮ってしまった。
正面は「(梵字)南無阿弥陀仏」と道標機能は無し。
左面(北西面)には、左右の案内が有るが、右方面が二行「京あたご山…」、「ほん…」あり、左方面は「はつ可山…十七丁」と読めます。右の2行目が何処を指すか不明ですが、間違いなく道標です。左の案内は今し方登って来た参道への案内であるのは明白です。このすぐ東に「十二丁」丁石がある事から5丁も遠くから移設されたものと考えられそうです。
最後に裏面(北東面)は、暗くて良く分りません。ヘッドランプの力を借りて、「文化十三丙子十月日」、「世話人…」と読めました。下段に三名の名が刻まれているようですが、「喜、七、六助」辺りしか読めません。後の楽しみとしておきましょう。建立、文化十三年十月は1816年11月となります。
過去に遺失としていた「三田市香下の道標1/3」が復活します。(尚、過去は「…1/2」としていましたが今回3基となり、「…1/3」に改めました。)
ここで右「安永…」の上に彫は浅いのだが「右 観音道」とあるのに気づきました。私の道標の基準に合致します。なんと嬉しい事か。後日分かった事であるが、多分『さんだの道標』には載っていないものと思われます。いつからここに有ったのでしょう。移設されたものでしょうか。
「右」の右上部にキズがあり、読み難いがこれを無視すると「右」で問題は無いでしょう。続く「觀音道」かも知れないは、今し方訪れた山頂北の「観音堂」への道として受け取るのはこの地にあれば自然だと思う。但し完全に元の位置のままに有るかと言われれば、4基も整然と並べられている事を考えると、近辺からの移設の様に思う。どこが相応しいでしょうか。
「三田市香下の道標3/3」として新たに道標の仲間入りです。
正面(南西面)の最初の字が左半分よく見えない、右側は少し残るが判別できません。少し間をおいて「本堂江十五丁」と見えます。
右面(南東面)は先に見たように紀年銘だと認識し、それらしく読むと、右側に「文化八辛未正月」、左側半ばより下に「北御門院…」とあります。下部に右から左に傾斜して3文字「上、溝か灌、?」ではないかと思う。
後日、正面は「従是本堂江十五丁」(これより本堂へ十五丁)としました。元位置が辻に有ったとすれば建っていた面が進行方向を示すとし道標としても良いが、私の道標の定義からは、方向がないので丁石扱いとなります。が、一般的には道標と呼ぶものでしょう。テキストとして重宝させて頂いている『さんだの道標』では、№25.香下寺参道入口とするものであると判明しました。
遺失としていた「三田市香下の道標2/3」が復活します。(以前は「…2/2」としていた。)
4基中の西端のものが『さんだの道標』の№24.に該当するものとなり、ここに私が遺失した道標2基としていたものが、現実には移設され残っていた事になります。私の調査がいかに甘いかを如実に示す結果となりました。前回この2基を探したのは5年前(2019年)になるようです。
今、『さんだの道標』を見返してみると、左の写真の観光案内板の右側に2基が並ぶ写真と、記事中に(平成10(1998)年度整備)とあった。この平成10年が、県道脇の整備か、香下寺東への移設かは、確認出来ていません。尚、『三田の道しるべ』三田市郷土文化研究会編、昭和57(1982)年発行には左の写真地点と思われる道標の写真が載る。