大阪
高麗橋から西へ
太田南畝(蜀山人)の『葦の若葉』にならって西へ進んでみましょう。享和元年三月二十五日(1801年5月7日木曜日)お昼過ぎからです。南畝さんは米屋町五(現南本町3)丁目の宿屋にいたようで高麗橋通りからは800m程南へ離れるが、真っすぐに北上したようで、「過書町、梶木町(北浜二丁目の西)より船町橋を渡り玉水橋、筑前橋、田簑橋、梅田橋を渡り上の天神、中天神遙拝、下天神」としている。この行程中で「筑前橋(現在は無い)」を北に渡った地点に道標が建っている。
北区2.大阪市北区中之島3の道標
筑前橋の北詰が正面駐車場辺りと思われるので、この撮影地点を通り過ぎて背後(北西)に残る田簑橋へ進んだのでしょう。
この道標は「寛政十一年八月(1799年8月)」の銘を持ち、南畝さんは目に出来たと思います。道標の北東面の「右 梅田 十そう/大仁 尼可さ起」からすれば南西に向かうと見えます。
南畝さんは堂島川を田簑橋で越え、現堂嶋3交差点に掛かっていた梅田橋を渡り西折れし、上の天神(福島天満宮)に参ります。途中童部が色紙を付けた竹を担ぎ、顔に墨を塗り参拝する様子を書き留めている。上の天神を裏門(おでんの有名店がある所か)から抜け、中天神は遙拝で済ませ「野田道にむかふ」と下の天神を目指します。此処で言う「野田道」はよく理解できていませんが、野田への最短経路とすれば、現福島小学校前交差点への道であろうと思う。この後「左のかたに下天神の宮みゆ、田のはたに石碑あり『左ふく島』『右なか山、あまかさき/左藤名所、舟町橋』『右ふく島』とありて、うらに『山六十一郎』とえれり」とあり、「すなわち左の方に入れば門前の木よりしてまつ藤咲かかれりて、紫の雲のごとし」と書いている。
ここで、「文化三年(1806)の『増修改正摂州大坂地図』の野田村の「玉江春日」神社の東にある三ツ辻に目を凝らすと、道標らしきものがかかれ、これが「田のはたの石碑」なら南畝さんの通った道はほぼ推定できる。図の道標地点は現在の下福島公園の南西入口に当るとと思っています。
現在、下天神境内に残る道標は上記の石標とは異なるが興味深い。偶然だろうが「山六十」とある丁石が「西宮市仁川百合野町3 」にある。
この後、春日神社で藤を見て、茶店によりお酒をいただき、上福島の妙徳寺(五百羅漢、現東大阪に移転)から、久安寺、麦畑を抜け、小流を渡り了徳院としています。麦畑の道は分からないが、小流は現在の福島区鷺洲2丁目10の交差点辺りと想像できます。
鷺洲2丁目(小流)に建つ、現在の石標
了徳院は現在の福島聖天院のほうがわかりやすいでしょう。境内に二つの道標が移設されています。
お酒を飲んだ茶店は分からないですが、春日社から了徳院(聖天さん)へも絶望的に思われる。ただ福島駅の北側を通る道が明治の幹線道路で、ここへ出てからは辿れそうである。特に川を渡る地点は、今でもよく分る。
了徳院から大坂七墓の一つ梅田墓地を経て曽根崎新地までは、絶望的です。新地を抜け露の天神までは何となくこの道かなと思いつつも、その東太融寺までの道は想像が付きません。上図では抜けれると思われる最短経路としました。評価の低い太融寺を後にして帰路に分かり難い道はないが、淀屋橋を渡った以降は、宿屋の位置が分らないので、行きと同じ丼池筋を帰った事にしました、10km強ではないか。晩御飯は何処で食べたのでしょう。
露天神、大阪の人には「お初天神」がなじみ深いか
了徳院を後に、大坂の七墓の一つ梅田墓地(三昧とも言うらしい)は省略し、曽根崎新地も見るべきものは無さそうで、「左への道をとり」が分らないが「露天神」を見てみよう。
右の写真は南側の鳥居です。左は直に御堂筋となるが当時は南北の道は無さそう。
今のところ、ここまでです。(2021/7/18)
長くならないように、構造化します。