旧妙見道
明治19年測図の地図。右側の黄緑色が「旧妙見道」
1.始めに
本日は、旧妙見道の未踏査区間を狭める作業です。明治の地図=近世の妙見道とし、トレースするものです。『今昔マップ on the web』明治の地図と私の手元にある明治19年測図の地図では、少し異なり、一応古い方を用いる事としましたが、皆さんは、web上の方が便利だと思います。手元の図の「旧妙見道」と書かれた道を黄緑色(吉川峠の分岐迄)で示した図を参考に載せて置きます。緑色の終点は吉川峠と呼ばれるらしく、この後、峠から吉川に下るか、そのまま尾根筋を天台山方面に進むかが、疑問点の第一となります。
峠の分岐点から吉川に下ると三本の参詣道が選べ、峠から尾根筋を進めば、川尻山(天台山)の西を通過し、清滝参道に出る道となります。旧妙見道はどの参道に繋がるのでしょうか。
2.目的と出発点
目的は旧妙見道上に道標の見落としが無いかを確認することですが、案内が無くとも妙見山にたどり着ける道であったなら、どの参道に繋がるかを考えます。
池田市の項に属しているのは、出だしが「池田市古江町の道標」で、最初の部分が池田市市域を通る為です。川西、箕面、豊能町の境界を進みますが、池田の項に載せます。大阪府史に言う「能勢街道」とは全く別物です。前述横山峠の記事で「古江町551の市営住宅の道標」から伏尾台1丁目南の三ツ辻まで述べており、一部重複します。
能勢街道の、古江橋北の分岐辻からです。ここには二基の道標があり、当然の事ながら「妙見山」を案内する。しかし、妙見山が現在の一般の人が思う妙見山と同じであったのでしょうか。
取敢えず、私の思う妙見山は、間もなく廃止されるケーブルカーに乗り、リフトを乗り継いで到達した「展望デッキ」の北西に有る開運殿とします。妙見山への参詣道は3本として「川西市妙見山新滝道丁石一覧」等で紹介していますが、これから行く旧妙見道が、どの参詣道に繋がるかが分からないのです。
茨木市や高槻市辺りで「妙見道」と呼ばれる道とも異なります。「京道」が彼方此方に有るのと同じとご理解ください。
3.旧妙見道の鍵を握る
では池田の次の通過地点を見てみましょう。市営住宅前の三ツ辻に「池田市古江町551の道標」が建ちます。ここを通過する事は問題ないでしょう。
7.接待所跡は無し
ここに是非とも確認しておきたいものがあります。池の側の接待所ですが、跡形も無かった。池田の町中にこれを示す「木部町3三基の内東側の道標」が有りまして何とか面影だけでもと思ったのですが、無理の様です。ゴルフ場が出来る前に訪れたかった。
この道標には「久安寺より妙見道池のせつたい所まで十三丁」とあり、今昔マップ明治の地図では久安寺の北側を西に進む小径が見られ、池の南で、旧妙見道に合流する道を案内したものと思う。合流地点も分らなかった。
8.ゴルフ場内は一部旧道なし
危うくハイキングコースを誤る所でした。クラブハウスを過ぎると左(西)に折れなければなりません。コースの設計上旧道をそのまま残せなかったのでしょうか。仕方なく案内通りに進みます。今昔マップ明治の地図の旧妙見道は北へ直進する様に見え、しばらくは辿ることが出来ません。部分的に道跡は残る様ですが、旧道に復帰するのはゴルフ場北端からであろう。
話に聞くトンネルを潜ります。当然旧道には無かったと思います。入口直前で不自然に東に折れ曲がって、尾根筋に近付く様に見え、中で北向きに曲がり出口となります。この辺りを今昔マップ明治の地図で見ると尾根の東側を通過する様に読み取れ、旧道からはかなり外れている様に思う。トンネルを出るとコース東端を山際に沿って北に進みます。
13.宝塔奉献石碑
40m行くと、「宝塔」が左手に有ります。案内板には「宝塔」とあるが、宝塔奉献のいきさつを書いた顕彰碑である。詳しくは「豊能町東ときわ台長尾街道の石碑」を参照下さい。
何んとなくそれらしい道が西口の南20mから有りますが、公園内散策路になっているようで、すぐに公園北端から出てしまいます。現在の公園北端辺りの北東へ進む道様子は、今昔マップの明治の地図の経路は近いようにみえます。
14.旧妙見道の吉川峠へ
諦めて、旧道の「吉川峠」を目指します。東ときわ台5丁目の東端にでて、上部に見える旧道に登りたいが、道がありません。仕方なく北へ北へと進みます。アンテナと水道施設の様なものが見えるのですが、ここも登れません。道は東の尾根筋から一度離れて西に曲がります。最初の辻で北に向かうと住宅地の外れが三ツ辻になっており、ここから右(東)折れし吉川峠に向う事になりました。電柱には「東ときわ台五丁目」と有り、すぐに道は南東に向かいます。遠回りになった様で、小学校の北から強引に登る方が良かったでしょう。
15.旧妙見道、同定の為に
因みに、古江の市営住宅前の130丁(14㎞)を頼りにここまで来たが、この先どのルートが妙見道になるかを見る為に、少し計算してみましょう。此処迄の距離が7.99㎞(73丁)(実測できない部分は地図上の距離を用いている。)となり、残りが6.2㎞(57丁)となる経路が「旧妙見道」になるはずです。
以前に参道を調べて、新滝道は22丁(2.4㎞)。清滝道は18丁(2.0㎞)と分っているのでそこに繋がる距離が分かれば、それがいま求める旧妙見道と出来ます。(本瀧道は北方面からで除外出来ます。)
現在のハイキングコース図では4本のルートが示され、距離の短い順に
1.新滝道 詳細は「川西市妙見山新滝道丁石一覧」参照
2.上杉尾根
3.初谷渓谷 接続先の詳細は「豊能町妙見山清滝道丁石一覧」参照
4.天台山 接続先の詳細は「豊能町妙見山清滝道丁石一覧」参照
となっており、明治の地図にも、4ルート全ての道が描かれている。近い順に見ていきましょう。
1.新滝道へは、吉川峠から西に下り、現妙見口駅前を通り、国道477に合流する辻までが、2.3㎞(21丁)と思われる。この辻に有る大正時代の丁石の22丁を加えると43丁で14丁不足する。丁石の数字で無く、地図上の距離ではやや長く2.7㎞(25丁)となるが不足は11丁となる。何れにしても少し誤差が大きいようである。
尚、地図上距離では水平距離となり、麓から山頂までは高低差250mからルートによっては400m程にもなる。この分考慮すると2~3丁増えると思える。
2.上杉尾根コースは、新滝道コースと22丁丁石までは同じ道筋で、そこから分れ、尾根筋を東に登る。途中に八丁茶屋なる名称があり、参道の可能性はあるが、吉川峠から距離が5.2㎞(48丁)とやはり9丁短い。
3.初谷渓谷ルートは、吉川峠から西に下り、現豊能町吉川271の民家下の三ツ辻で分かれ、初谷川に沿って東に登るのですが、こちらに参道を示す丁石が無く、渡渉を何度も繰り返すようで参道には適さないと思うが、吉川峠より距離は5.3㎞(49丁)で8丁短い。
4.天台山ルートは、吉川峠から東方へ尾根筋を進み、天台山、光明山を越えて、野間口から登って来る清滝道に合流後西に妙見山を目指す事になります。明治の地図とハイキングコースの現天台山ルートを参考にして、約5.6㎞(51丁)と思われ、不足分は5丁程度になり、こちらが旧妙見道「百三十丁」に近いと思われる。
尚、この吉川峠に道標、丁石、常夜灯等が無いのは不思議であるが、住宅開発、水道施設建設等により失われたものと思う。今昔マップ昭和42年改測の地図には住宅地は無く、昭和53年修正に受水施設が見えるところから、今なら古老などに話が聞ければ、情報が得られるかもしれないが機会も無い。残念である。
今回は行けなかった天台山コースが清滝参道と繋がっている事を示す現道標を載せて置きます。
18.妙見口に下る
吉川峠に戻り、旧妙見道を行かずに、やや左の妙見口の方に下る。
峠から130mで先の東ときわ台五丁目の電柱の辻、290mで東ときわ台二丁目の辻で住宅街を離れ、又山道を下り始めます。現在の初谷コースと天台山コースの分岐点迄下るのですが、今昔マップ明治の地図では金ヶ谷池の西から今よりも短い経路になっています。
19.初谷コースの分岐点
現在の道は上記辻から東へ進んだ後大きく西にカーブし、現初谷コースの分岐辻になる。この辻に現代の道標が立ち、今下って来た道を「天台山コース」とし、右(東)へ分岐する道を「初谷コース」として、行先は何れも「妙見山」である。此処で言う「天台コース」は吉川峠までの道も含むのであろう。今目指す方向は「妙見口駅」と西を指している。
初谷コースはハイキング道としては人気があるかも知れないが、近世の参詣道としては沢を多く渡る点で相応しくないと思う。
20.終りに当り
この辻から400m進み国道477に出た所で今回の旅は終わります。帰りは現国道では無く西寄りの旧道を進みます。国道477を横切って110mの三ツ辻(旧道入口)で撮った写真2枚が写っていない。散歩中?の方が写り込まないように撮った記憶が有るので間違いないのですが、又してもカメラの不調が起きたようだ。
旧妙見道が、明治・大正に入り使われなくなったと思われますが、ケーブル、リフトが廃止になった今、どのルートが参道として残るか楽しみでもあります。大正の頃に持てはやされたと思う新滝道は2018年頃は土砂崩れで通行禁止であったと記憶する様に、近世の道としては適さなかったと思われる。これと同じで初谷渓谷の道も適さないでしょう。やはり残るのは尾根筋道でアップダウンや距離を考えると、上杉尾根コースが残るように思う。今回結論した「旧妙見道」は復活しないか。
21.おまけ
帰りに依った二点。不明の神の石碑群には常夜灯もあった。少し登りにかかった道の西側の大きな題目石碑は「大正」の作でこの頃はもうこの道が主であり、今日訪ねた「旧妙見道」は使われなかったのでしょう。
今昔マップ明治の地図でも現一の鳥居から吉川を通り黒川に続く道が聯路以上として描かれており、国道477号の旧道とした。昭和36年地図でも現国道は見えず、それ以前は国道であったと思われる。
22.参考
この記事を書くに当たり、webをウロウロしていると、豊能町HPに吉川村古地図(町指定文化財)が見え、まさにこの辺りの元禄元年(1688年)十二月の様子が描かれていました。残念ながら妙見山が書かれておらず、当然「妙見道」もありません。よく似た経路を「長尾太道」とし、裏書では「長尾大道」とあった。直接リンクをしませんが、是非見て頂きたい。「豊能町吉川村古地図」で検索して下さい。
この解説中に「慈薗寺(現池田市吉田町の慈恩寺)跡に石燈籠の遺構がある」としているので絵図に有る「ミなきり尾」とある道(黒色境界線と重なる)が現止々呂美IC南から分岐して西に登る府道116号に近い道と思われる。が現在は箕面市の流通センターのような新開地として削られ、埋められし、旧妙見道には繋がっていない。
尚、絵図に、野間口、野間、黒川が載るのに、妙見山、妙見道が無いのは、元禄の頃は有名で無かった為でしょう。
今日は、近世中頃の「長尾太道」の探査であったのかもしれない。