大阪にあって、学校に保存されている道標がそこそこあります。土地柄か学校に立ち入る事が難しく思われ、永く敬遠しておりました。
が、ここへ来て、意を決して訪ねる事にしました。
捨てる神有れば、拾う神もある様で、南門まで来た時、校庭開放で使われている方に偶然お会い出来、一員として参加させて頂きました。
校舎の北側、プールの西側の一画に半円状に空地が設けられ、その境界線を石で区切る中、幾つかが石碑になっており、一種の結界を作り出していました。石造物には東から順に①②・・・と名付けられているようで、お目当ては④となっていました。
私は勝手に「8.大阪市福島区鷺洲5の道標」としています。
非常に保存状態も良く、解説板まで建てられており、学習の教材にもなっているいるのでしょう。道では邪魔になるからここに持ってきた、のでは無さそうです。
基部が少し出ているように置かれているのも、よく考えられていると思う。
他に橋の欄干(親柱)もあり、大坂らしいと思います。
行先で読み難いのは変体仮名で書かれている部分だけです。
「者」をくずして「む」のテンが無いような書き方になり、これが「は」になります。ここでは「湊はし」「湊橋」、同じく濁点をつけて「ざこば」「雑喉場」となるでしょう。
行き先の説明は無くても大丈夫だとおもいますが、湊橋はグーグルマップに「西区土佐堀3丁目4−2」中之島の西端、土佐堀川に今も架かる橋。
「ざこば」は同じく「雑喉場魚市場跡碑」が「西区江之子島1-8江之子島公園内」にあるとしている。
解説板の内容を挙げておきます。
鷺洲(浦江)の橋の親柱と道標
大正時代末までこのあたりは鷺洲町浦江といいました。
田んぼや畑に菜の花が咲く農村地帯で、聖天川をはじめ水路(井路川)
に取り囲まれ、まるで校歌に歌われる「たみのしま」のようでした。
当時の川に架かっていた橋の親柱や道標の一部が残っており、現在
ここ鷺洲小学校の校庭に移設し、保存されています。
「正面右より」
①鷺島橋(⑤と同じ橋)
②豊中橋(名前の由来は豊田家と里中という地名から)
③とよなかはし
④道標「右尼ヶ崎 西ノ宮兵庫」(注)
⑤さぎしまはし 「大正十三年一月架設」
⑥さぎしまはし (中公園南側で発見)
(注)④山名碑といわれ、区内に数カ所あります。
右側「すぐ(直ぐ)「湊はし ざこば(雑喉場) 左大坂御城
八けんや(八軒屋)いせ(伊勢)」 左面「すぐ尼ケ崎 西ノ宮」
裏面「やまな米磯 慶応元丑年五月 世話人何某」
令和四年三月
福島区歴史研究会・鷺洲連合町会・鷺洲小学校PTA
一つ問題提起をしておきます。
左2枚の写真の字と、3枚目(南東)の字の刻み方が違う様な感じがするが、墨が入っている為であろうか。筆跡で見ると左2枚は同じ、1枚目と3枚目の「すぐ」はよく似ている気がする。
4枚目にある「世話人 何某」は多分施主になる「やまな米磯」とは別村(当地)の人と思われるが、この部分以外は施主が書いたと思われる。ただ同じ文字がなく私の知識では判定には使えない。
施主「やまな」「米磯」とする石造物の比較については下記、又は「梅香3の社標」を参照下さい。
この道標の多分施主と思われる人物がお目当ての一つです。
写真では分かり難いのですが、北東面に建設した年月と共に「やまな米磯」とあります。過去に「山名」(屋号と思われる)、「米磯」或いは「礒兵衛」とある道標や石碑を見ており、これらにある年号年月日が建設年にしては旧すぎるものがあり、問題となっていました。これを解決するカギとなる道標ではないかと思っていました。
答えとして、当道標は紛れもなく建設年月日であり、「やまな(山名)米磯」が世襲的な名前でない限り、他の同名の石も、ここにある「慶応元年」の前後に建てられたものと推測できる。
「やまな」を集めてみました。
左2枚は当道標、「やまな米磯」、米磯の読み方は分かりません。
3枚目「福島区海老江6の道標」は漢字で「山名米磯」とあり同名と思われる。
4枚目「梅香3の社標」も「山名米磯」。
この二基の石は筆跡もよく似るが、当道標の「米」は見ずらく同一人物が書いたかは不明である。
さて、ここで問題となる石「福島区玉川1の道標」を見てみましょう。願主は同じく「山名」ですが、名前が「礒兵衛」となっており「米磯」ではありません。「礒」は「磯」と同字であるらしく、読みとしては「いそべえ」かも知れないが、別人としなければならないでしょう。ただ同じ「山名」(屋号か)を持つので、縁者だとし、建設年の推定に利用できると思います。
当道標の「慶応元(乙丑)年」は西暦1865年になり、この石の「天文元(壬辰)年は、ユリウス暦、グレゴリオ暦共に1562年となり300年もの隔たりがあり、建設年としては使えないでしょう。
同じ「礒兵衛」の名で「八坂神社境内のゑみすのみや社標」があり、これには「永久三乙未年(1115年)」とし、これも建設年とは思えず、礒兵衛さんは「古いもの好き」の人であったようだ。
関係者の方にお礼を述べ、次の西区にある、九条北小学校に向かいます。
安治川を越える必要があります。渡しを利用すべく、最短距離を進みます。
が、方向感覚が狂ってしまい、西に向っていたようです。玉川方面に南下しているつもりでしたが、海老江交差点に来て初めて道の選択が間違っている事に気付きます。仕方なく南に折れ野田阪神へでます。新なにわ筋(府道29号)に進まないよう気を付けて、玉川4交差点を目指します。環状線に沿って西九条迄進みますが、この辺りは土地勘がありません。駅の手前で広い道は環状線を潜って曲がっています。グーグルマップで確認します。直進し、阪神なんば線を越えて、すぐ左(南)折すると安治川の右岸に突当るようです。阪神を潜ると広い片側2車線の広い道に出会いますが、車の数は極端に少ないようです。南に向かい、安治川に達すると、これを渡れるのは、今でも、人と自転車のみです。渡しではなく地下道(トンネル)になっています。今回で二回目になります。
渡しならぬトンネルをエレベータに乗り出て、すぐ南の交差点に「源兵衛渡」とありました。では、いま通ったトンネルは「源兵衛トンネル」と呼ぶべきでしょうか。エレベーターを出ると「安治川トンネル(南)」と面白くもない札があった。
ここで再びグーグルマップ参照。目的地、九条北小学校は近いのですが、見えません。交差点を越えて二本目あたりの路地を右に入ると学校が見えました。取り敢えず学校を一周します。ここで又、方向を間違えています。川を南に越へ右折したから西を向いていると思っています。現実には南に向け進入していたようです。すぐ右手に正門が現われ、インターホンが有りますが、取敢えず一周するつもりで先に進みます。突当りに門が見え、開いています。何とこちらも、校庭利用者の方がおられ、入っても良いとの事。
詳細については「西区九条南4の道標」を参照頂くとするが、紀年銘をチェックしていると、事前の情報と少し違います。「再建」がありません。下部が隠れているようです。お掃除セットの出番です。各面の下部を掃除すると、文字が現われてきました。でも西面「再」迄しか読めません。他の面の「道」も下部は埋もれています。もう10㎝浅くしてあれば読めたと思うが、学校でもあり掘り返す事はできません。鷺洲小学校の道標を、見習ってほしかった。
左は、明治17測量の地図ですが、この地図にさへ北西への道は見えない。
古絵図は、大阪市立図書館デジタルアーカイブ『増脩改正摂州大阪地図全 (大阪古地図集成 第11図)、文化3年(1806)』を参照下さい。
この後調子に乗り「都島区網島9太閤園内の道標」を探しに行ったが、工事中でした。
尚、学校はまだ幾つかあり継続の予定です。
2025年7月26日(土)、一回目に気を良くして3校目を目指しました。
都島区内代(うちんだい)小学校です。都島なら京街道でしょう。とお思いでしょうが、今日は毛馬橋で大川を渡り、内代を目指します。ここに「大阪市都島区内代町3の道標」が有るはずです。途中野江に続く旧道を通りたかったが良く分らず、最短の道を進んでしまい、内代小学校の西の公園の北側へ出てしまいました。
外からは、南面、東面、西面が確認可能です。北面とサイズは諦めなければなりません。
今日は調子が悪そうですが、一応この後場所だけでも確認するために出発します。
少し離れますが、鶴見区諸口の茨田(まった)中学校です。内代といい、茨田といい、大坂難読地名巡りでしょうか。その後は放出(はなてん)方面に向かいます。難読=難攻に成らなければ良いのですが。
この辺りは全くと言ってよいほど土地勘が有りません。マイマップに登録しているので、ナビに従えば良いのでしょうが、そうすると頭に地図が残らないのです。出来るだけ地図を見て、最短で進む事にします。が幹線道路は避けたいです。真っすぐ東に進み、花博公園へ入りましょう。
交差点すぐ西に目的地、茨田中学校が見えます。道路に面して通用口(北門か)が見えます。こちらも空振り。正門(東門)は工事中で入れそうもない。グルリと一周するが校内を窺える事も出来ず。写真を撮るのも忘れました。
次も同じく鶴見区内ですが、寝屋川を越さなければなりません。以前に来た時も難儀した覚えがあります。多分この辺りは摂津の国ではないと思います。
目印となるものが何もない交差点、南西角が鶴見区今津中4丁目1-14となる四辻を右(西)に曲がれとナビが言います。西折れ後50mの左(南)手に通用口がありました。今津小学校の入口でしょう。開きっぱなしで人が居られたので聞いてみると、今日は盆踊りとのこと、道標があるかお聞きすると、「知らない、見た事が無い、入って探したら」の言葉に甘えて、校内を東端から探していきます。プール前から南東端へ、南塀際を小屋を避けつつ西へ、体育館にぶち当たり北に、校舎に突当るとそこの入口西に、堂々たる石が建っていました。校舎から体育館に渡る屋根付きの廊下があり、柱が邪魔をしますが、遠目でも道標である事は十分に分かります。走って向かいます。
植込みとして一段高く造られた土盛に建てられており、夕日の照り返しが南面を染め、何か不思議な感じがします。一応南面を正面として、見ていきましょう。
現南面、「左/寶山寺、角ノ堂、中垣内、/大龍寺、星田妙見宮/みち」とあります。「角ノ堂」の「ノ」が小さく「角堂」に見えますが、今の「住道(すみのどう)」に違いないと納得してしまう。宝山寺は生駒で名高いが、他の地名はあまり知らない。チョット調べてみましょう。
先ず、「中垣内」、どうも「なかがいと」と読むらしく、大東市に中垣内がある。阪奈道路の登り口になる様で、奈良への途中の村と思われる。「大龍寺」、私の知っている神戸市の再度山大龍寺ではないでしょう。wikiを見ると、「東大阪市にある黄檗宗の寺院」とありグーグルマップでは「東大阪市日下町8丁目3-57、瑞雲山大龍寺」とある。同じく「星田妙見宮」は、「交野市星田9丁目60-1」とあり、ここからは北東となる。
依って、星田妙見宮は疑問も残るが東の生駒山方面に向う道を示していると出来る。
当道標が元「徳庵橋」南詰に建っていたとされ、上記の行先を満足する為には、「?」に、現在の向きを180度回して置かれていたとすると納得できる。
?は何処でしょう。
答えは「鶴見区今津中4の道標」に書いています。
今津小学校は満足でしたが、その他は残念であった。
この次に期待しよう。