2024年の締めくくりに茨木市の竜王山にある「八大龍王宮」への丁石を確かめに行きました。
麓の道標、丁石については幾つか見ていたのですが、山上への丁石となるとキツクなりそうで捨てておきました。今回覚悟を決めて探しに行きます。事前に何基かは残っている事がweb上で確認出来たので、予めグーグルマイマップを作成しておき、現地で見つけ次第現在地点をマークし、後で確定する事にして出発しました。
【丁石詳細については「茨木市竜王山丁石一覧」を参照下さい。】
参道は三方向から有る様で、各参道を全て登るには1日では不可能と思い、忍頂寺寿命院から上り、八大龍王宮に到着後、山頂に出て北東に下る車作への二丁丁石を確認し、すぐに山頂へ引き返し龍王宮に戻ります。龍王宮からは西へ下り「忍頂寺バス停」に出る経路としました。
寿命院から八大龍王宮への道を「南参道」、頂上を越え車作へを「北東参道」、八大龍王宮から忍頂寺バス停へ下る道を「西参道」と勝手に命名しています。尚、展望台からほぼ南へ真っすぐ下り板谷に出る道は無視、後に分る北の下音羽への道は地図にありません。
寿命院迄の道に、八大龍王宮を案内する道標等が有るので、これも再確認する事とし、清坂街道を北上する事にしました。西国街道からの分岐点、茨木市中河原町10の四ツ辻からの出発です。辻の北西部には「中河原町10の道標」が建っていますが、この明治の道標には龍王宮の案内はありません。
山手台の北の入口を過ぎ350m進むと三ツ辻(実は変形四辻)になり、西側からの府道1号線と合流しています。これを直進しないで旧道を楽しみましょう。写真撮り忘れ。
変則四つ辻とした交差点の北西部、即ち10m西に北に折れる細い道がありこれが旧道でしょう。これを北に進むと坂を登りながら、先に来た府道114号と合流し府道1号となったバイパスを、橋で越え100m程で、再び府道1号線と交叉しますが、道なりにこれを横切ります。この辻には信号がありません。もし1号線の新しい道を下って行くと、道標を見逃すことになります。
大岩の集落中を1号の交差点から進む事、350m。この道を選んだことを悔やむ登りの後、少し平らな部分に三ツ辻が現われます。ここに見るべき道標が有ります。この石は何度か見に来た事があるのですが、今日のテーマでは是非確認しておかねばならないものです。石は複数ありますがその内の一基「大岩の道標2/2」を確認しましょう。
この道標に従い、右の道(清坂街道)に進むと道は下り始め、250m程で新しい府道1号線と合流する「大岩」の交差点となります。上部には安威ダム方面から新名神千提寺ICに続く(これも府道1号線らしい)道が立体交差して、道路の行先案内が分かり難くいですが、大きな交差点を府道1号北へ進みます。170m下って右(東)に大岩自治会館があれば正解です。
一度下った後、イヨイヨ登りにかかりますが、千堤寺天満宮の鳥居(キリシタン遺物資料館の案内がある)前三ツ辻があります。以前ここで何かを探しまくった記憶が有るのですが何であったか思い出せません。一応写真を撮って登りに備える事にします。
新名神を潜り、その下から約400m、大きく西に廻り込むカーブを過ぎた地点に、「忍頂寺198の道標」が有るのですが、まことに見つけにくい石です。知っていても通り過ぎてしまうほどの位置に建っています。三ツ辻の奥の更に一段高い部分で、府道からは大きな木の陰になる所に移設された為でしょう。死角になるのは新道(現府道)を進んできたためと思われますが、明治の地図でもこの道が「清坂街道」として達路以上として描かれています。一見三ツ辻に見える場所ですが、道標の西下の道から南を見ると細い道が府道を横切って下っており、50m程下に鳥居が建っています。これを見るとこの細い道が明治以前の道ではないかと想像できます。
清坂街道からの参詣道入口として相応しい地点に見え、丁石の起点と考えても良さそうであるが、どうでしょう。後はほぼ一直線に進む。
辻北東部にある道標南面には「是ヨリ十一丁/八大龍王山」、北面に「大正三年十月 吹田新田信者中」とあります。
この案内に従って府道1号(清坂街道)を離れ北に向かいます。一気に勾配が増します。北に330m登ると道は東に向きを変え、北西から折り返してきた府道1号に再び交差する変形四辻に出ます。これを横断して左(北)に細い道を真っすぐ60m登ると、右(東)民家の脇に二基の道標が有ります。
二基の内南側の「忍頂寺249の道標2/2」は「是ヨリ龍王山 八丁」とあり、文久三年、阿波の国の遠藤直左ヱ(門)が建てたものと分ります。下って来て見える北面に「右、大坂…」「左、柳谷…」とあり道案内が主と思われるが、この石の北にある八丁丁石より古いと思われ、近世の丁石の起点の石と出来なくもない。
二基の道標以外にも小さな石燈籠の様なものもあり、何か不思議な地点です。
二基の道標を過ぎると、
前方20mの左側に石段が見え、西側に軍人の碑があり、更に西横に「忍頂寺240の道標」と名付けた、南面「八丁、大阪島之内千年町/魚油商奥田彦次郎」とする丁石があり、これが今日追いかける丁石の最初と言えるでしょう。
丁石の前置きが長くなりましたが、この八丁丁石から参道と見なして探索開始です。自動車の通れる道は階段の右横を北東に行きますが、今日の参道は、この階段を登るとすべきでしょうか。「忍頂寺240の道標」では距離を合わせる為、色々なルートを考えていますが、参拝を第一に考え、それに相応しい道を選んで歩くことにします。
八丁の南面
墓地内を参道が突っ切るとは考え難いので、境内の南端に戻り、八丁から階段を上がって、「忍頂寺」と額の架かる山門のすぐ上を、歩測の起点とする事にしました。遠回りして辿り着いた地点の事です。帰りに山門から八丁丁石迄の歩測を足すことにすれば、八丁丁石を起点として距離を求める事が出来るでしょう。(忘れないか心配ですが。)
登り始めてすぐに、歩数を確認する為に数取器を見ようとして立ち止った地点の右手、二つに折れた石が眼に停まります。土や落ち葉を払いのけると「六丁」と見えるではないか。7丁はどうした。歩測は120歩(138m)となっています。八丁を起点にしていなかった事を悔やむばかりです。山門までを50mと予想して190m(1.7丁)とすれば、やや短いと思う。寺境内南や神社境内の平坦部が多かったとしましょう。この後の丁石は一応この石から1丁毎に探すとしましょう。この道の様子では経路を選択する必要は無く見落としだけを注意すれば良さそうです。
後日気が付いたのですが、神社経由の経路が間違っており、寿命院西を通るのが正解で、その間に七丁が置かれている可能性が残る。もう一点は、八丁丁石から階段を登らず、北西への坂道が参道であったとした時、この経路上にあるかも知れない。こちらも調査を忘れていた。この二点目は自身が可能性大としていたのに大失敗である。第2の道は以前通った記憶があるが、丁石には注意していなかった。
掃除を終え、写真、文字読み取り、サイズの記録を終え、現在位置を確認する為、予め予想地点をマークして置いたグーグルマイマップを呼び出すと、何時もの青丸が出ません。振り回したり位置を変えたりするも、一向に現在地点は掴めないようです。一応ログ代わりに自分でこの辺りと思う地点をマークし、スクリーンショットを残しておきます。登山用アプリを使った方が良いのでしょうか迷うところです。
参道は北東にほぼ一直線に登ります。概ね尾根筋ですが最初は西側が谷側、5丁辺りから右(東)側が谷になる様です。丁石の基本として山側に建てる事が流出を防ぐことに繋がります。当然「丁」面は登る方向に正対しています。
197歩(226m)、五丁が北に見えます。距離が近すぎます。大きな岩の前に立っており、損傷はなさそうです。背面を撮るために岩に登ります。
八丁に続き完形の石で、見掛け上同時に建てられたものと出来そうです。経年変化もあまり感じられることなく、文字も綺麗に読めます。年代の手掛かりになりそうな住所、施主名を念入りに写真に撮っておきます。「大阪玉造」と有ります。ものの本によると「大阪」と書くものは明治以降とする、と大間違いがありますが、町名にあっては時代ごとの変遷が分かり、重要な手掛かりになる事があります。残念ながら「玉造」は近世から現在まで玉造のままです。
グーグルマップはここでも役に立ちません。一応スクリーンショットは撮っておきます。
248歩(285m)、なんだか怪しい石が倒れています。五丁からは余りにも近すぎますが、残された下部に「…栄組」とあり、上の文字は「御」ではないかと思う。講の名前の様に思われます。住所に当たる部分の最後が「山」と読め、これと併せて施主部とすれば、今までの丁石と同じ仲間として良さそうに思う。順番的には「四丁」となるでしょう。
293歩(336m)、上部が折れて横に転がる三丁丁石が右手(東側)にあります。下部は地面に立った状態で、補修の為の継用の鉄筋が刺さったままになっています。上部の底を覗くとほぞ穴があり間違いなく継がれて建っていた時期がある事が分かります。断面を見ると、間が無くなってはおらず、積み重ねると元の石になりそうです。
施主は「海老江、御膳講中」とあり大阪市福島区の海老江と思われます。年代決定の手掛かりにはなり難い。
356歩(408m)、九十九折れが続く中、上部に車道が見える位置です。左へ折返しの右手(東)に西面を参道に向け、二丁丁石が立ちます。
完形で建っていると思われ、頭頂部の写真も載せて置きます。
さて施主にある住所?と名前ですが、「大阪ざこば(「ば」は変体仮名)、伊丹源」とあり、雑喉場で商売をされていた「伊丹源」と言うお店と解釈しました。「ざこば」が「1931年(昭和6年)に中央卸売市場の開場によりその歴史を閉じた」とある大阪市のHPを信ずると、この丁石の最も遅い建設時期を限定出来る事になるが、どうでしょう。
二丁丁石を後にすると、すぐに現在の自動車道(西参道の延長)と合流します。合流点の少し下には登山者向けの駐車場のようなものがあり、これから先宝池寺前の駐車場までも舗装路が続いている。よって南参道も合流後はこの舗装路となってしまいます。
合流後振返る、左側が南参道(今来た道)、右、舗装路を西参道とする
「右、荒瀧」としています。よく見ると舗装路からいきなり下る道が見えます。地理院地図に載る道であろうと納得する。修行場への案内でしょう。
嬉しさを抑えつつも、何時もながらの道標記録ルーティンに入ります。
丁石からは目的がずれますが、少しだけ載せて置きます。詳しくは「茨木市忍頂寺龍王宮参道中の道標」を参照下さい。
下部に「大黒講」とあり施主でしょうが住所がありません。少し気になるところです。折れた跡が有りますが綺麗に修復されています。
405歩(465m)、一丁丁石が左側手摺の間に建っています。この辺りは自動車の為に舗装されており、人にとっては非常に歩きにくい、この為か鉄製の手摺が設けられている。
一丁の注目点は施主の住所でしょう。「大阪内北浜五町目(浜は別字)」とあり、この町名は現在存在しません。建設年を絞り込む手掛かりになりそうです。珍しく三行に書かれている内の二行目「つる屋丁(了?)」は住所とはせず「出崎鶴吉」さんの屋号として「つる屋亭」あるいは「つる屋寮」等と解釈した。つる(鶴)つながりです。
又「出崎」の「出」は「山」に「々」と書かれていて、別体らしいが見た事がありませんでした。珍名さんでしょうか。
尚、丁数の書かれた面が登る方向に正対している事、手摺が切れて設置されている事、により移設されていないと思いたいが、参道を拡幅する場合山側を切り崩すのが一般的でその場合移設は避けられないでしょう。但しほぼ元位置に置かれているとして良いなら、この後の1丁(109m)は目的地にピタリと一致すると想像する。
帰宅後の調べなのですが、webの「大阪古地図集成デジタルアーカイブ」地図から、近世の町名は「キタハマ2丁メ」迄しかなく、大阪市HP『大阪市中央区の町名の説明』の記述では「明治5(1872)年3月17日に各町をもって北浜一~五丁目となった。」とあり、「内」については大川沿いの川沿いが「外」遠い(南)側の筋を「内」としている。町名ではないがより場所が特定しやすい表現である。よって明確な答えは見つけられていませんが明治5年以降の建設と出来るでしょう。二丁丁石と合わせれば「1872(明治5)年~1931(昭和6)年」と出来そうですが、もう少し大阪の図書館へ調べに行く必要がありそうです。
487歩(559m)、目的地点(0丁)に相応しそうな地点として、参道右手に「八大龍王宮、宝池寺」 の大きな寺標石があり、これは昭和のもの、その後ろに道を挟み門柱の様な二基の尖頭型石柱があります。石柱には紀年銘が「大正四年…久保種次郎」とあるものの「奉納」としか書かれていません。何れも、南参道の丁石との関連は見つけられません。
池の周りを写真に撮り、宝池寺前に戻り、愛宕山…八丁丁石を右(北東)に折れます。横には「竜王山山頂、あと5分」の木柱もあります。尚、先の「八丁」は京の愛宕山ではなく「巖屋、穴佛、負嫁巖」を案内しているようです。
下りは西参道を調べるつもりで、あまり時間を採る訳にはいきません。展望台手前の北東への分岐(竜王山自然歩道穴仏方面)がある辻を写真に撮っていると、夫婦で登山中の方が登って来られた。これ幸いと「途中二丁丁石を見かけませんでしたか」とお聞きしたところ「分かりません」との事、それより道がキツイとアドバイスをいただきました。
取敢えず、展望と遅い昼食を取る為、南に向かいます。望遠の写真を一点だけ載せて置きますが、足元には最近開かれた流通センターの様な建物が見え、安威ダムは見えない様だが、その西側である事が確認出来ます。その右手前には24丁の道標があるのですが木が邪魔をしてみえません。すぐに「穴仏」への分岐に戻ります。
施主を見た時に、何か見覚えがあるな、と思いつつも読下しに自信がなく書き留めるだけでした。特に住所が読取りにくく、名前も「ウタ」としてしまった。
帰宅後整理してみると、「大阪曽根崎」「渡辺フク」と分りました。
この施主によく似たものが、この後に見る、西参道八丁丁石にあります。それには「大阪曽根崎」「渡辺ヱ…」とあり後述します。
566歩(649m)、西参道参拝入口(八丁)が足元に見える地点に来ました。登りからすると鳥居の上(東)5m程でしょうか、二基の参道標石が立っています。「下の二基」としておきましょう。既に上の二基は見ています。
表記の内容は「上の二基」と全く同一です。異なっている点は、こちらの方が「くずし字」が多い。住所の「大阪」が縦書きになっている。高さは埋り具合で変わらざるを得ないが、巾、奥行き、頭頂部の形状や高さも同じで、同時に建てられた事は疑いない。
さて、いよいよ、今日の最終到達点(本来なら西参道登り口)に着きました。
参道階段に近い小さい方から見ていきましょう。これは今日見て来た多くの丁石と同類のものと思われます。意匠や大きさなどから純然たる丁石として良いでしょう。
下部を見ると、施主が有りますが一部埋っています。又、今日撮った写真は横着をした為よく見えないので古い写真を使いますが、「渡辺ヱ」までは読めます。先に西参道「六丁」で見た「渡辺フク」さんと苗字が同じです。住所も同じ「大阪曽根崎」とあり身内の方と見ることが出来ます。「フク」さんから想像し女性とみて「ヱイ」さん等はどうでしょう。名前が隠れているのは、前の道路が改修され徐々に高くなったものの、丁石は嵩上げされなかった為と思う。
「忍頂寺133の道標1/2」としていますが、実質は道標の定義から外れ丁石とすべきでした。お詫びします。
右(南)隣にある大きな石は、「昭和三年御大典記念」と明確に刻まれ、時代の風紀や、大きさも含め居丈高な感じがして好きになれないのですが、目的地が明確に書かれています。「本社マデ」としており、神社が0丁になる。但し、鳥居地点等を示す場合もあるが、八大龍王宮には無かったように思う。純然たる丁石では無さそうなので大まかな数字を書いているのかも知れない。
隣の八丁丁石は埋り具合等も含め、この石以前からあり、その八丁を採った、とも見える。とすればこの道標より丁石が古いとできる。
以上で本日の予定は終了しました。
後日に出した結論を書いておきます。
南参道と西参道に残る、蒲鉾型角柱の丁石は、八大龍王宮への残距離を示す丁石であるが、現在の参道にあっては実距離より間隔が短くなっている。これは当初の参道より距離が短くなった為とする。尚、建設時期は明治5(1872)年から昭和3(1928)年の間と出来るが、十一丁道標が大正3(1914)年に建てられており、これも大正天皇の御大典に八丁丁石を基に建てたと想像すると、これ以前に建てられていたのではないか。施主の多くが大阪のようで、個人となると魚関係や勝手な思いだが、水商売の方など信仰篤い市井の人と見受けられ、御大典の折等に共鳴しない気質と考える。
【参考】手許の明治22年測量の地図に、丁石を配置してみた。残念ながら南参道の屈曲は確認出来なかった。西参道に関しては小径さえも見えないが、代わって北の下音羽からと、南の板谷垣内からの道が描かれている。『今昔マップ on the web』大正11年測図のものでもほぼ同様に見えます。
詳細は、「茨木市竜王山丁石一覧」を参照下さい。