古文書のお勉強中に、旧村名と場所を調べていると、伊丹市内には「旧地名の案内板」が設置されている事が分かりました。
これは見に行かなければなりません。ついでに「道標」が健在で有るかを確認しておきましょう。では出発。
その前に、予備調査の結果、30基以上の案内板が市内全域にある様です。この内、数件は以前から見覚えがあり、写真も撮ったりしているが、改めて記録する事にします。
ソースはwebの伊丹市文化財ボランティアの会の「旧地名の案内板」ですが、なんとも味気の無い表です。このシンプルさが好きですが、位置情報がありません。土地勘のある人なら、すぐに分かる場所なのでしょう。34基としています。
【後日の結果では、35基あり、「荒牧南」がもれており、「昆陽東」が「昆陽池東」と記載されているようです。】
さて、どの様な順番で回りましょう。街道ではないので少し、見当を付け難い。東部、南部、西部、北部と時計回りにしましょう。
伊丹市の東部には猪名川が流れており、これを渡る道は三本しかありません。これを考慮すると、東部を回った後、渡る橋は「神津大橋」しかないでしょう。北から、「下河原」これは何度も見ており探す必要はない。次に「桑津」「森本」「岩屋」の順などとして出かける。
が、途中で、この逆を行けば、「下河原」から、西国街道(R171)を軍行橋で渡れば、伊丹市を南西に突っ切れてベターなのではと気付き、岩屋へ向う。
次は、北の森本へ、森本C、南側の加茂神社、東の児童公園を探すも見つからず。これも諦め次へ。
桑津は心当たりが有ります。プラネタリウムの近辺か、西の桑津神社辺りで見たような気がします。
伊丹市はお金持ちなのですね、プラネタリウムを持つ市は、大阪、明石、以外知りません。金持ちと言えば、芦屋、西宮、豊中、箕面、宝塚等が挙がると思うのですが、各市が文教都市等と謳うものの、実態を見るとお金の使い方から見ると「伊丹」が一番なのではないか。
これは、地理的な条件もさる事ながら、歴史的な政治形態などが影響しているかも知れない。今回の調査の発端でも有ります、「郷町」、「酒造業の繁栄」がもたらすものではないでしょうか。そうなれば、西宮等も同様で有って欲しいのだが、西宮のお勉強会に参加していた時の話では、「市は文教に金をシブリがち」と聞いていました。
猪名川左岸堤防に出て、飛行機見物。原田の千里川堤防のビュースポットは有名になりましたが、東・南風の吹くときに、こちら側から着陸する光景はまだ余り知られていないようです。特に仁川上空辺りから右小回りで着陸する大型機には千里川には無い、ダイナミックさを感じます。写真を撮るのは難しいですよ。
西国街道、猪名川は「かちわたり」(軍行橋)となります。残念ながら舟で渡たることは出来ません。武庫川の様に渡し跡も残っていないようです。
旧西国街道に気を取られ過ぎて、福知山線の宝剣堂踏切を越えてから気が付きました。この後「北村」へ行くなら旧西国街道を北に外れなければなりません。それなら、R171を直進する方が近い。
仕方がないので、今の別名JR宝塚線を渡り、二つ目の三ツ辻を北の北村集落へ向います。分かり易い道なら、「辻の碑」がある四辻迄進み、北折れすれば一本道でいけますが、勝手知ったる村中を進みました。
そうそう、「北河原」があります。旧西国街道を西に進むのは後にして、多田街道を南へ進みます。私の考えでは旧多田街道は、水車小屋を過ぎて、県道13号(産業道路)を西に越えて進むとしているのですが、超えずに、産業道路を南に進み、「北本町3町目交差点」で左(東)折れし、駄六川を政木橋で越え、川左岸を南に進みます。
更に南下して、「北本町1の道標」を確認しに行きます。
この後は、旧西国街道に復帰するのですが、余りに南に外れ過ぎたので、「辻の碑」迄戻るのを止め、最短距離で大鹿に向かう事にします。細かな経路は複雑すぎるので此処では書きませんが、要点だけを拾い出しておきます。
この道標を北に見て「左、多田、久代」に従い産業道路を東消防署前交差点で横断し、市立北中学の北を過ぎ、大鹿1丁目の変則四つ辻(南北は旧有馬街道)に突当ります。これを右折(北西)して250mで、大鹿交流センターの四辻に出ます。ここに道標と旧地名案内板がある事を知っています。
が、その前に「杖竹古跡の妙宣寺の道標」、「妙宣寺の寺標」の確認です。大鹿交流Cの辻からの行き方は、何度行っても書けません。伊丹市大鹿4丁目36の妙宣寺の南西端、あるいは「竹塚」を目安にナビ等をご使用下さい。(本当は東の「春日丘西」市バス停北の五つ辻から行っている為)
次の旧地名案内場を目指します。道標ではなく「大覚大僧正杖竹古跡」を右手にして南に進みます。40mでT字路に突当り、右(南西)折し100m進むと右手に古塚が見え、そこから30mで、旧有馬街道の四辻に出ます。右手には趣のある木の門があり民家と思われるが、勝手口ではなさそう。この四辻を左(南東)に折れると40m程で大鹿交流Cが左手にあります。
ここから、旧西国街道を、西に下ります。実際の道もわずかですが坂を下っている。県道332(五号橋線)を越えると千僧になります。事前の調査では、旧街道沿いに案内板は設置されていないように思え、一本南の道を中心に周囲を探し回るが、見つかりません。天神社前や、旧家前など、西国街道に関する案内板は有るも、旧地名案内板は見つかりません。結構大きなものであり、分かり易いと思うのですが。
諦めます。
「昆陽」で旧西国街道を10m外れたので、元に戻り、太宰府へではないが「西下向」再開。先の辻から140m、「昆陽」ならぬ、「稲野」小学校の校門が右手(北)にあります。伊丹市には「昆陽里」小学校もあるので注意が必要ですし、阪急稲野駅から稲野小学校はウンと離れています。どのような経緯で命名されたのかは知りません。
道標を南西に見る。奥、西宮方面へ
「昆陽1丁目の道標」は無事でした。学校敷地内と思われるので無くなることは無いでしょう。当然移設されたものです。
ここで、旧西国街道を北に離れます。現在では県道334(伊丹寺本線)に「札場の辻」バス停が有りますが、道路元標から見るとここが札場の辻であったと思われます。それなら札場の辻を北折れ、となります。尚、北への道は有馬街道間道などと言われているようです。
道標を北東に見る。左、神社鳥居
「道路元標」の辻で、北に旧西国街道を離れます。150m進むと「東天神社」の鳥居にぶち当たり、右手民家壁際に道標があります。「昆陽4東天神社前の道標」としたものですが、これも無事でした。
旧道探索ではないので、札場の辻には戻らず、神社の西を抜け、現R171西国街道の「昆陽交差点」に出て、北側に渡ります。S電工と言う大きな工場入口前から西に進みます。交差点から600m弱で西天神社入口になり、多分ここから旧西国街道に復帰するものと思われます。
さて、ここから旧道のトレースが難しいのですが、幽霊屋敷のような市場を抜け、寺本郵便局北側を過ぎて、郵便局から50mの三ツ辻(寺本4-53-3)を右(北西)に折れ、80mの三ツ辻に墓(昆陽寺霊園)の入口が西に有ります。尚、旧西国街道は郵便局前の道を道なりに進み、「寺本4丁目交差点」でR171を南に渡る道筋です。
道標を南西に見る。立木向うが昆陽寺
「寺本2丁目の大師道道標」、昆陽寺墓地内にある道標です。「大師道」とあるだけで方向は示していません。又、「大師道」がどの道であるかも、現状では不明ですが、道標として扱ってしまった。私の勝手な想像では、甲山神呪寺への道を指すとするのが妥当かとした。
無事を確かめ、案内板に戻ります。ここからは次の「寺本の旧地名案内板」はすぐ近くです。墓の入口に戻り、来た道を北西に進みます。
この後、伊丹市南部域へ回るのですが、すぐ近所の二基の道標を確認しておきます。後で考えてみると「寺本3」「寺本2」の順が良いのですが、何故か先に「寺本2」へ行ってしまった。「寺本の旧地名」案内板から、南へ220m、昆陽井に架かる橋の左手前(辻の北東部)、一見三ツ辻に見える民家の塀の前に道標があります。
道標を東に見る。
「寺本2丁目の妙見道標」、無事では有りましたが、折損を免れる為かいつの間にかプロテクターが装着されていました。時々見かける手法ですが、見難いだけでなく痛々しい、何か別の方法が無かったのでしょうか。
もう一基、忘れていたので戻ります。ここからなら、橋を南に越えて、昆陽井沿いの道を北西に進むと風情があって良いでしょう。
道標を東に見る。
昆陽井も右岸と言うのでしょうか、流れを上って90mで橋に出ます。橋の北東部に道標があります。
「寺本3丁目地蔵堂前道標」、こちらは何事も無く安心しました。元々の位置のままか移設されたかはよく分かりませんが、「左、池田・妙見」がどの道を指したか興味あるあ所です。現状で、この西面の案内通りに進むと、多分小学校のプールにぶち当たってしまう。明治の地図には見えない道である。
もう一基、南に道標があるので見に行きます。「寺本2」の道標迄戻り、南へ進みます。「寺本2」道標からはクランク状に道なりに110mで、現R171に突当ります。グーグルマップで見ると県道333(寺本川西線)と有りました。
R171を歩道橋(徒歩のみ可)で渡ります。越えて50m、南へ進むと三ツ辻に突当ります。この東西の道が旧西國街道になります。辻の北西部に道標が建ちます。
道標を東に見る。
「寺本1丁目158の道標」です。西国街道の西宮方面から来た人や、南の立花村方面から北上してきた人に、中山寺、妙見(多分、北)を案内する道標と思われます。妙見が、能勢の妙見山を案内するかは不確定ですが、この道の延長上の「大野2立江地蔵の道標」にも同じ表現があります。現在の川西市加茂まではほぼ直線状の最短の道を示しているようです。
伊丹市域、西国街道の西端に来たので、ここからは南部へと回り込む事にしましょう。
【ケアレスミス】この時「寺本東・昆陽南五町目の旧地名」案内板には気付いていません。通り過ぎてしまいます。
南野北の旧地名案内板へ向います。
分かり易い道は摂陽小学校西の道意線を南下し、新幹線側道を東に向かえば良いが、最短距離を行こうとしました。
摂陽小学校南西の交差点から、真っすぐ南東に向かう昆陽井沿いの道が有ります。井は暗渠になってしまい見えませんが一直線に流れているようです。640mで市道野間梅木線との交差点に出ます。この市道は2車線歩道付の結構広い道で尚且つ斜めに横断するので大きな交差点と感じるが名前は付いていないようです。
交差点を越えて40mの三ツ辻を右(南西)折れしなければならないが行き過ぎて、20m先を右折してしまい、袋小路へ入ってしまう。仕方なく本来の辻に戻り南西に折れる。
道なりに南に方向を変える道を260m進むと道は無くなるように見えますが、構わず20m程直進すると新幹線の側道に出ます。側道を東に120m進むと笹原中学校校門の東に旧地名案内板が建ちます。
御願塚村の旧地名案内板へ向います。この案内板は知っているので探す必要はありません。新幹線北側側道をひたすら進む事、丁度1000mの左(北)に市民課南分室が有ります。入口左(西)に建っています。
オット、その、伊丹郷町の旧地名案内板が残っています。阪急伊丹駅へ向います。
分室から東へ200m阪急伊丹線の踏切を渡り、線路東沿いの道を、1.4㎞北に進むと、阪急伊丹駅前になります。駅の東の歩道者信号を東に渡り、東商店街中を120m真っすぐ進むと、三軒寺前広場の端に突当ります。数段の階段を登り、広場中央のやや東寄り南側、パチンコ屋さんの北側に案内板があります。
ここで時間が来てしまいました。
一日目は失敗だった言えるでしょう。仕方なく、例の如く、エクセルに一覧を作成し、大雑把な位置を書き込み、フィールドノートを作成します。
これを基に、マイマップを作成し、移動する事にしました。
2日目です。阪急の伊丹駅からは、駅の南の高架下を通る、県道55号西台中央線に出て西へ約300mで、五合橋線(県道332号)の行基町交差点になります。
今日も幸先が良くありません。案内板から南へ230m進むと広い道、市道美鈴町南本町線に出ます。多分始めての信号機のある四辻です。これを右(西)折れし、後は一本道。180m進むと奇妙な形の交差点になります。「ψ」字状と言えますが、上部を細い道が貫いています。道の両側(南北)に大きな木があり、ベンチの置かれた市バスの停留所もあるので、見落とすことは無いでしょう。
次は事前の調べでは南鈴原となっています。ここからの道順は説明出来ません。兎に角、路地を右往左往しながら南へ向った。住所と経緯度を書いておきます。何とかそこにたどり着いてください。
夾竹桃が邪魔をしており、枝を払いつつ撮ると、背景の映り込みが多くなってしまい。このような結果になってしまった。
次の南野はすぐ近くです。公園南の道を、西に進みます。(西としましたが、実際は南西の様です。)130mで県道142号(道意線)を越え直進、公園から300mで新幹線の下に出ます。南に高架下を潜ると、南東角が公園になっています。複雑な交差点の形状ですが、東浦公園の西側とすれば、分かると思います。ただし、道路からは案内板は見えず、公園南西側の入口から入り込み、振返らないと見えない。
次に野間を目指します。ところが野間の案内板に記憶違いがあって、野間公園の南へ行ってしまいました。公園を一周し探すも見つかりません。マイマップを見て初めてカン違いに気が付き、野間の集落中に戻ります。依って実際の経路は書きません。
後日、分かり易く行くなら、とする経路を書いておきます。
東浦公園南西口から南東へ160m、少し広い道に突当り右(南西)折する。南の郵便局を左に見て200mで県道336号(東富松御願塚線)に突当り、これを右(西)に進む。県道を700m弱で道意線との「野間交差点」
これを真っすぐ西に越し、350mの道北側に案内板が建ちます。(案内板東70mの交差点でバス道は北西に道なりにカーブするがこちらに行かないよう注意がいる。)
さて野間案内板のカン違いの元になった、「野間北」を目指します。今となっては、公園の中に見た案内板は「北野間」で有った事が分かった。
野間の案内板のすぐ東から北に折れ、前述のバス道に合流しすぐに北に離れて、新幹線の下にでます。右(東)に伊丹野間郵便局がある交差点です。案内板から310mになります。
これを北に越へ右(東)折して新幹線沿いに60m進み、高架下からやや北よりに外れる細い道に入ります。外れた地点から東へ200m細い四辻を左(北)折し50mで一本松公園が左手(西)に出てきます。公園北側の西よりに道に向いて建っています。
この次、堀池もすぐ近所です、間違って堀池の墓地に入ってしまったが、用を済ませて何食わぬ顔で出てきました。
正しく進むなら、公園の北口から東へ、道意線を横切り150mの四辻を北に折れる。折れた右手(東)は、墓地です。これに沿って北へ120m進むと公園南東端の四辻になります。南から入り中央藤棚の手前に、西を向いて案内板が建ちます。
次の案内板を目指す為、上記で説明した一本道に出たいと思います。
公園南口から西に70mの道意線み出て、右(北)折し、350mで摂陽小学校南西角の交差点になります。昨日も通りました。ここを南東から北西にかけ直線の細い道が上記の道です。
この交差点から北西に細い道へ進みます。交差点から220m進むと今は道なりに左に曲がり西に向きます。(北西への井の流れ沿いの道も残ってはいる。)西に向きを変えてから150mの四辻の南西部が大きな公園になっています。昆陽南公園とあります。この辻を南折れして50m進むと、公園の東口になります。入口の左手(南側)に、案内板が建ちます。
市域南部の最後を目指します。案内板から南へ60m松崎中学校の北を西に折れます。道なりに西へ350m、南西に古そうな細道が分岐しているので、これに進入。
止めとけば良かった。後の祭り。どこをどう回ったか覚えていません。
が、ブロック塀に「山田三丁目11」と緑の札が掛かる三ツ辻に出ました。左手奥、田圃越しに怪しいものが見えました。お母さんが二人立ち話しているのも見えます。南に突当り、東に折れると、南側に山田会館があり、入口右(西)に案内板が有りました。結果的に袋小路で1,2度折り返したものの、最短コースを来たようです。
さて、見つからないかも知れない、昆陽東を探してみよう。
山田の集落をどう抜けたか、東に戻り、摂陽小学校の南から通つた事のない道で堀池集落を抜けようとして、迷子になった事は書けません。県道142号(米谷昆陽尼崎線)の昆陽泉町交差点に出たとしてください。
この交差点から東(阪急伊丹駅方面)へ140m進んだ道の右(南)側に、よつばセンターがあります。名古屋発祥のK珈琲店の東隣りになります。
さてこの後、見当も付いていない千僧です。千僧公民館を手掛かりに一帯を隈なく探すが。
千僧の旧地名案内板は今日も見つからず。それらしい広場(千僧(Ⅱ)児童遊園地)には、掲示板のみが空しく立つ。この掲示板に貼っていたのであろうか。写真は割愛します。この後藤ノ木にワープします。
藤ノ木は平成14年の住居表示で出来たとし、それまでは天津の小字であったらしい。「天津藤ノ木」なにか美しい響きに感じられます。
藤ノ木案内板から、北に戻り、東へ向い、猪名川右岸堤防の道に出て少し南下し、桑津橋を東に渡り、としたいのですが、堤防横の道に歩道が無く頻繁に車が通るので止めます。そこで、JR東の道に戻り、Eモールの北西で県道を潜り、東折れして、桑津橋に行きます。
桑津橋を渡り、左岸堤防上の散歩道を延々と1.2㎞、南に進みます。途中神津大橋(つり橋)の東詰めを車をぬって渡るので、注意が要りますが、それを除くと、散歩、ランニング、通勤、通学と多くの人に交じって歩くことになります。
堤防階段を下に下りる目安があります。「春日神社」とする棒杭が立っているので誤る事はないでしょう。階段下は「K」字型の辻で、東に多分旧堤防の名残の上に、小祠が見えます。北方向となる狭い道が、神社への参道と思われ、70m程先の右手(東)に石造物があります。
口酒井、近世には「酒井村」、明治6年に「口酒井村」、昭和22年伊丹市。酒井村への入口を示すかは不明。姫路市の北にあった「酒井村」との重複を避けて明治政府がつけたものか。『伊丹古絵図集成』には、西部の中州が「古酒井」とある。
下部に「当村絵図の写」(推定文政初年(1818))とする古絵図も添えられており、豪華な石碑です。
これで、千僧を除き、東部、南部、が終わったと思われます。
2日目も完了せず、市域が小さいとナメテいたようです。
3日目です。今日は件数も少なくなり、余裕で出かける事にします。千僧は交通の便が良くありません。阪急かJRを使うかとしても、共にバスに乗り伊丹市役所を目指すしかないでしょう。市役所の東側になります。
千僧村絵図、旧地名図、今池の写真が載っており、市役所が近い事も有り、特別な意匠としたのでしょう。が、旧地名は分かり難い。村絵図は有り難いが、地名を読取るのは?どうでしょう。読めない時は『伊丹古絵図集成、本編』を見て下さい。
次は昆陽寺へいきます。この遊歩道を北に進み、西に曲がり、市役所北側のR171へ出ます。市役所前交差点を北西側に渡れば、1.3㎞で昆陽寺山門前になります。
この後は、北部に向かいます。池尻を目指し昨日通ったばかりの、花里小学校の東側を今日は北上します。後で地図を見ると小学校西側を通ると近い事に気が付きました。西側は尼宝線のイメージが強すぎて避けてしまったようです。
慶長13(1608)年に埋められた、昆陽池(二池あった)の下池の尻にあった為に名付けられたとある。ただ慶長10年の国絵図には「小屋ノ池」は一つだけ描かれ、その西に「池尻村」が見える。
次の西野村は、池尻村の北隣の村です。
西野はコンパクトであるが、それでも現在の丁数に比べると旧字は細かく分かれている。一時期新田中野村に属した為か近世の字名に見えないものもある。
次の中野は、中野村の集落中には在りません。事前に「市立老人福祉施設 サンシティホール」西側にあると分かっていました。老人ホームとばかり思っていましたが違うようです。西野村の案内板から、道なりに東へ410mで尼宝線「櫻台小学校前」交差点に出ます。これを真っすぐ突っ切り、250mの天王寺川の橋を渡り、すぐに右折します。
天王寺川左岸、遊歩道80mに、川に向かい建っています。中野を代表するには余り相応しくないような位置だと思うが、千僧などと同じ感覚でしょうか。
次は鴻池です。天王寺川沿いの道を通った事が無いので、これを進んでみる事にした。明治の地図では堤防上の道は一部しか描かれておらず、旧道としては意味が無いと思いますが、今は進む事ができそうです。天王寺中学校の南まで来てしまいました。天王寺川中の東を回り、「鴻池交差点:から旧有馬街道に入り、鴻池第二公園で村中への道に直進し、4車線の新しい県道142号(米谷昆陽尼崎線)を北に越すと目的地はすぐです。
為に、中野の二基の道標確認を忘れてしまいました。つい最近確認を済ませているので、それで良しとします。「明治二十一年中野東三丁目道標」と「弘化三年中野北一丁目常夜燈型道標」です。
前述のようにウロウロしながら行った為、分かり難い経路になっています。
分かり易い経路を書いておくので、この記事通りに回られるなら此方を採って下さい。
「中野の旧地名案内板」から北に天王寺川左岸(東岸)を忠実に進みます。1.1㎞進むと県道142号(米谷昆陽尼崎線)片側2車線の広い道に出て横断できなくなります。これを右折(北東)に270m進むと信号機があり左折(北)する事が出来ます。交差点名は出ていませんが、東100m先に大きな「鴻池字三刈」交差点が見えます。この交差点を北に渡り、旧集落中を110m進むと筋違い四辻に突当り、これを東(右)に折れ、30mの南側に、鴻池Cが有ります。入口の左手(東)に案内板が建ちます。
旧地名案内板の最北端まで来ましたが、確認しておきたい道標が少し西に有ります。
「荒牧三丁目の道標」は無事でした。
道標ではないが、境界石二基を見ておきます。南に下り、西mで神社の入口に突当ります。
鳥居を北に潜りやや西より、二基が建ちます。
「荒牧3の尼崎藩領碑」ともに無事でした。
次は荻野です。一苦労しましたが、見つかりました。「荻野西」とあります。ウロウロした道のりは書きません。素直に行けたとしたら、中国自動車道の側道多分R176を東に進み、天神川の右岸直前で脇道に入り、堤防上の道に上ります。堤防上を770m南に進むと、荻野橋の西詰に出ます。この荻野橋の手前30mを折り返す様に北に下り、その後、道なりに西に進みます。下りきると三ツ辻になっていますが道なりに西へゆるく曲がりながら続く道へ進みます。三ツ辻から190mの左手(南)が荻野(Ⅰ)児童遊園地(公園)の入口となります。この先50mでドン着きの三ツ辻となります。
荻野はもう一つあるようです。次は心当たりがあります。天神川の荻野橋まで引き返します。案内板から橋の西詰まで260mです。
橋を東に渡り自走車道を北に80m下ると、変則四つ辻になり、これを右(南)折し、50mで荻野公園北端に着きます。公園の端を右(南西)、荻野Cとの間を5m進んだ左(公園)側に案内板が建ちます。
次の大野へは、先の荻野橋から下りて東に続く道に戻るのが良いと思うが、案内板から東に進んでみる事にします。この四辻から150m進むとT字路に突当ります。左右(南北)の道は記憶にある道でバス道であったと思う。この道から東に抜ける経路は少ないはずで、北(左)に折れ、80mの四辻に進み、これを東(右)に折れ、大野へのバス道を進みます。東折れしてすぐに小さな水路脇に市バスの荻野停留所があり、大野への道と安心します。四辻から道なりに390m、変則四辻に出ます。バス道は斜め右(南東)の道ですが、これに行かず、細い道を直進し80mの是また変則四つ辻の南西部に大野Cがあります。右(南)に折れ、大野Cの東前に案内板が建っています。
東野は少し手こずるように思い、先に「大野2立江地蔵の道標」の安否を確認します。
大野C前の道(県道333号、寺本川西線)を南に一直線です。案内板から360mの道の西側(右手)に、南を向いた小さな祠があります。この中に祀られています。
地蔵道標を北東に見る
「右 妙見」とだけあるシンプルな案内ですが、前垂れが幾重にもガードし、なかなか見るのが難しい道標です。私の意見では、祀る様なものでなく、単なる道案内として、もっと目につくようにして欲しい。
無事でした。祠に入っているものはまず大丈夫でしょう。下のセメント土台にも「右、妙見」とあります。
さて、東野村中を探します。一番怪しいのは、この道標の東にある消防倉庫と神社境内です。何度も捜すが見つかりません。仕方なく集落内をくまなく探すことにしました。1丁目から8丁目迄探したが見つかりません。ほぼ全ての道を通ったと思います。アキラメました。
以上、「旧地名の案内板」はほぼ全て見ることが出来ましたが、これに載っていないものもあるかも知れません。
全字名が押さえられたかどうか、今後の作業とします。
梅雨の曇り空に期待したが、梅雨明けのような天気が災いし、写真が上手く撮れなかった。無償の画像編集ツールに頼る事になるでしょう。
東野を除き、旧地名案内板は終りとしたが、その後手掛かりがあったのと、安否未確認に漏れがある事が分かり、追記します。
道標を北西に見る
東野で、個人宅にある道標も道路から確認出来ました。
これを含めこの後五基は名称のみ揚げます。場所等は詳細を参照して下さい。
尼崎市杜若寺道標を北に見る。
右門柱の右、木の下に隠れる
もう一件、現在は尼崎市域となりますが、元位置の推定から伊丹とした伊丹市寛政五年東有岡道標、これも杜若寺境内で、無事でした。
更に、その後、確認したものを挙げておきます。
松ケ丘の地蔵菩薩道標を南に見る
偶然、地蔵保存会の方がおられたのでお聞きすると。元は昆陽池の畔に建っていたそうだが、公園整備や道路拡張等でここに移って来たとの事。上部の地蔵と下部の石の材質が異なるように見えるので、これも聞いてみたが分からないとの事。「行基菩薩道」は昆陽寺への案内として問題ないでしょうと言われていた。
中野北2丁目常夜灯道標を南に見る
上記道標の「左、小濱」を進むと、明治の地図では「新田中野」集落の北端素戔嗚神社に突当ります。
ここで、道は西に折れ、神社を迂回して進むのですが、鳥居を背に振返って見ると右角に石燈籠が建ちます。これが道標となっており、「左、小濱」を案内しています。無事でした。
最後に、旧伊丹市立博物館に収蔵されていた道標が数点あるのですが、これの安否確認が出来ません。博物館は無くなり、ミュージアムと名前ばかりがカッコ良い小さな建物に移設されたようですが、展示スペースからは外され、目にする事は出来なくなりました。
過去には、博物館バックヤード見学会が年に一度あり、展示されていない道標も見る機会があったのだが、ミュージアム職員さんにお聞きすると、収蔵庫の見学は出来ませんとの事でした。
おそらく、「道標」の企画展などは考えられないので、今後目にする事は出来ないでしょう。せめて収蔵品紹介のデジタルアーカイブ等に期待するしかありません。残念。
ログ(行動記録)を書くのが目的ではなく、旧字名を抽出するのが第一ですが、取敢えずこの記事を先に完成させました。
字名集計と、国絵図村名との対比など完成しましたら、ここからリンク(参照)出来る様にしたいと思います。
伊丹市回遊も、当記事作成も予定の2倍以上掛かってしまった。あー暑かった。