亀岡街道と吹田の道標(千里丘道標)
2.高濱神社
この日の集合場所は「高濱神社本殿前」13:00出発です。解散は16:00JR千里が丘駅の予定とあれば、そんなにキツクは無い行程でもありどこの道標を見るかもほぼ察しが付くでしょう。
私の期待は一つ、高濱神社の南東にある「南高浜町2の蓮光寺地蔵道標」が見れるのでは無いかです。
受け付けは12:45からでしたが、12:30にそれらしい方を見つけたので、開き始めた資料等を用意するのももどかしく、名前を告げ、今日の行動予定表を頂きルートを確認すると、残念ながら入っていません。
3.何時も通りの蓮光寺
実は早めに着いたので、一人で蓮光寺に行き、何時ものように門が閉まっているのは確認しました。この寺には檀家さんがいないのでしょうか。
ガッカリはしましたが、もう一つのテーマに「道標の拓本」と有りましたのでそれを楽しみにします。
4.ツアーの始まり
では、主な点を拾い出して行きます。参加人員は30名、三班に分け、地域ボランティアの方が説明をするとの事、博物館の学芸員の方はそれをサポートするだけの様であります。
此処で又、ガッカリ。何故かと言えばボランティアの方には悪いのですが、地域のエピソードなどはよくご存じで、説明なども問題なくされるのですが、実体験の部分があまり無いのです。これは資格認定の試験等には属さない点と思われ、仕方ない事でしょう。これは多かれ少なかれ学芸員の方にも当てはまる様で、事、道標に関しては、既存の資料以上のものは無かったように思いました。それはそうでしょう道標を専門とする学芸員など聞いたことがありません。私としては近くにお住まいの方が、「昔は辻の此方にこの向きに置かれていた、工事の時に折れてしまった」の様な情報が欲しいのであります。
グチはこれぐらいにして早速出発です、神社を南に出て、吹田の渡し跡に向かいます。
信号待ちの間に、学芸員の方に「蓮光寺の道標」に関してお聞きすると、昔は開いていたようですが、今は見れないと思います。との事で地蔵光背部の下部に道案内がある事は確かとの事でした。やはり案内には入っていませんでした。さてドウスルカナ-。
渡しは二本の川の何方にあったのか、二度渡ったのか等の質問が有ったようです。摂津名所図会には淀川支流の神崎川の吹田村、新庄村間とあり、現在の様に二本は無かったと思われます。天保国絵図では幅一丁四十間(100間)とし安威川は此処より上で合流していたようです。案内板には堤間230間と有り川岸も含めての事でしょう。
5.拓本
写真撮影はOKとの事であったので、一通り拓本の写真を撮り終えました。カラーを脱色しコントラスト等手を加えています。
参加者が次の道標に向かって歩き出します。それを狙って、人の入り込まない写真を急いで撮り、走って追いつきます。後続グループはまだ追いついて来ないようです。説明が長引いているのでしょうか。
7.六地蔵道標
二つ目「南高浜町3の六地蔵道標」です。これに関しては新しい知見がありました。案内に有る「帝釋天王」は現在幼稚園に成っているそうです。名前を聞き漏らしてしまったのですが、「片山村」を頼りに調べてみましょう。現片山町ではないが、朝日が丘町に市立片山幼稚園、藤が丘町に藤が丘幼稚園があり、位置的に前者ではないかと思うが確証はありません。国会図書館『摂津名所図会』巻六13コマにも載るが位置は分かりません。廃仏毀釈で無くなったのでしょうが、少し南西に離れた王林寺に聖徳太子作の帝釈天像が移されたとする記事をwebで見た事がある。図会に有る本尊の恵心僧都作の「阿弥陀如仏座像」は何処へ行ったのでしょう。
尚、この道標は移設、追刻が有り、現辻の北側からの移設と説明されていましたが、建立当初の位置については語られなかった。
六地蔵は字名かと思う。浜屋敷のだんじり説明にも「六地蔵だんじり」とあった。元は六地蔵が置かれていたのであろう。
道標を北に渡り旧道の雰囲気が残る道は東に向きを変えメロード通りに出て北折れします。旧亀岡街道はJRにより分断されており高浜町9丁目の交差点から東に折れて末広町の手前を北に折れ、目俵体育館辺りを通って天道へ続いていたようですが、今日は高浜町9丁目の交差点を北に直進します。(メロード通りとは、線路北側にメロード…と言う高層ビルが有るのでこれに因む愛称か)
10.天道道標
府道14号を北に越すと旧道らしい屈曲が出てきます。府道交差点から120mで左(西)から私説「津門中道」が合流し、その先を道なりに60m進むと四辻に成り、左前方(北)に民家の塀の前。こんな所で止ります。察しはついていたのです。博物館の「天道道標」の元位置でしょう。
13.市場池公園道標
市場池に向かい歩きますが、疲れてきたためか、ダラダラ歩きです。次の道標も明治の作であまり興味が湧かないことも一因です。
道標に有る「亀岡街道」「小野原街道」等は明治の頃に為政者(府)が付けた名前のようで、近世の道標が案内する地名とは異なるものです。この例で言えば「京都方面」も「吹田市内方面」も「亀岡街道」となり案内にならないのです。そこで別に行先を「右、京都」「左、吹田」等と刻んでいます。お役人さんが新しい街道名を浸透させたかったのか、府の管轄を示したかった為でしょうか。
14.山田市場2道標
さて、次は期待が高まります。何せ個人宅に置かれた道標になると思います。以前偶然にご主人にお会いして見せて頂いた事は有るのですが、石との久々の再会と成るのでしょうか。
門扉が開放されており、庭も整理されて道標が見易くなっていました。有難うございます。写真を撮り直しておきます。
この後、吹田と摂津市の市境と成る亀岡街道を、「投げ出し墓」「しかばね谷」と空恐ろしい民話を聞きつつ進むと、本日の最終目的地となる「」に到達します。ここは旧道が現府道14号に合流する点ですが、摂津市千里丘1丁目になります。ここから先旧道は現府道に飲み込まれてしまいます。
15.摂津市千里丘1道標
摂津市市域ですが「吹田町あんない人」の方が解説してくれます。昭和30(1955)年頃に掘り出し放置されていたものを土地の方が保管し、現在再設置されたとの事、元位置はNTTマンホールの側と有るので、元の辻南部に建っていたのでしょう。「摂津市千里丘1の道標」です。
難読文字が有る事は分かっているのですが、どう説明されるか楽しみです。
東面、「左、満し田、江口」の右下三文字で、中央の「堂」だけは明確です。レジメにもあるとおりの、「行先「江口」と関連付け「君堂□」ではないか」とし、「此の為後世の追刻と考えられる。」との説明を、「どこかで見た事が有るナ-」と受け流していた。
時間も遅くなり日も陰っていたので、「ではここで解散します」の声を聴いた後に、LEDランプを取り出し三文字を照らし出すと、今日はヤケによく見えます。後から来た他の二つのグループの迷惑にもなったかも知れませんが、「光を当てるとよく見えるネ」の通り何だか読めそうな気がします。
参加者が全員解散した後、再度撮影です。読み取れたとし結果を載せて置きます。
「乙堂忠」とあります。詳細は「摂津市千里丘1の道標」を参照して下さい。行先不明の追刻ではなく、施主又は筆者の名前と思われます。この時、姓・名とするか雅号の様な名とするか、僧侶の名などと出来そうです。くずし字でなく、今で言う楷書で書かれています。
16.天道道標へ戻る
さて、「天道道標」の元位置へ取って返します。
残っています。残っています。でもシッカリ埋っており、東側の石の5㎝程しか見えません。右側は「正」の下部「止」と出来そうですが、正面はレジメにある「道」の上部「ソ」では無く、「寺」の上部即ち「土」の上部に見えるのですが如何でしょう。博物館の上部と合わせ、ここに残る右側を中間部、左側石を下部とすると繋がりそうです。
暗くなった、元位置の写真を撮って家路に着きます。
誰もいなくなった元位置を北西に見る。
17.終りに
当初目的の蓮光寺道標が見れなかったのは残念であったが、吹田市市域でない千里丘1の東面が読み取れて、満足でした。道標は曇りか薄暮が最適であると改めて気付かされた一日でした。黎明はどうかって?、その時間は行動範囲外です。