横山峠と言う馴染みのない場所を訪ねてきました。
全体像を知ったかぶりで書いてみます。
「能勢街道」について、大阪府史明治36年復刻版に一等縦貫線として「池田町に至り…猪名川の東に沿ひて大字古江より兵庫県川辺郡に入る。」とあります。オーサライズされたものはこれが最初ではないもののここから始めるのが分かり易いでしょう。それ以前となると『五機内誌』の間道「吉野嶺」辺りの記述になると思いますが、その時代により道筋や呼び名が変わるのが常です。能勢町史であったと思うが、「丹州街道」の説明中に、「嘉永五(1852)年横山峠回避の新道開通」の一文があり、この新道以前を探したい。
手元にある明治19年測図の地図と、現在の地理院地図を比べて、明治時代の道が残るかどうか見ていきます。
『今昔マップ on the web』明治44年の地図はこちら、以後「明治の地図」と表現する。これには両岸とも川沿いの道が描かれ、左岸に能勢街道、右岸は篠山街道とありますがこれ以外の道です。
尚、注意しておきたいのは『川西の歴史散歩』の、川西市東多田2の道標の説明に、「元位置は現在地より東方八百㍍の横山峠に北面してあった。」とあり、これ等は明らかに、今から向かう地点とは異なる。即ち横山峠複数存在も有り得る点である。
今日は、近世の猪名川沿いの道が無かった頃の道を探すべく、横山峠を越えた道筋を探るのが目的です。当時、猪名川の右岸(西)の道も無かったと思われ、今では考えられない経路で北に向かっていたようですが、その川西市側は旧道がまだよく残っている様に思うが、これから行く池田市側左岸側(東)のお話です。
先ず、出発点の道標を見ておきましょう。古江橋の北詰東側には「古江町の道標」二基があります。明治24年のものは妙見山しか案内しないが、安永三(1774)年の銘を持つ方は「左、多田院并ゆもと」とあります。この道を探しに行きます。
北やや西よりに向かう道は、現在国道173に飲み込まれており、楽しくないので直接には向かいません。
一度北東の妙見道側に進む事にします。610mで四辻になり、妙見道は直進ですが、ここを左折(西)し、旧能勢道に向かいます。四辻から420mで三ツ辻に突当りますが、この南東部に小祠とその北側に道標?(多分橋の欄干)があります。
祠左の石が示す「能勢街道」が南北の道だとして、北に向かう道を進みます。辻の南西部から用水が顔を出し、変に曲がった道はこれを越える為の橋が有った為であろう。石の背に「札場橋」とある。
150mで舗装路が途切れ、170mの廃屋状の家の前辺りからは雑草に覆われた道となり山に向かいます。
帰りに、今日は持って来なかったスティク代わりに、枯れた竹を折り即席杖を作ります。何せ道跡が見えません。突きまくりながら下ります。
仕方なく、下からの探査は諦め上から回り込む事にしました。グーグルマップを見ると、西国道173から登る道があるが、登り口は何時も見ているのでこれを止め、東の古い妙見道へ出て市営住宅前の道標に従い能勢への道を進む事にして、前述の東山町952辻迄戻ります。ここを左折(北)します。
120m先の三ツ辻は左(北西)山側に登り、道なりに進みます。急な登りが始まります。途中左手(西)に古江保育所の入口が有り、その石垣に案内図があります。
案内板から60mの三ツ辻正面に久しぶりの道標です。チョット見題目碑に見えるのですが、道標になっています。但し現状ではその役目も果たせないでしょう。何故なら道から見えないのです。確認の為見ておきましょう。
今から、この左、多田道(能勢)方面に向かいます。明治の地図ではこの道が聯路として描かれ、この道筋の峠が横山峠であったともできる。こちらは以前に行ったことがあるので大体の様子は分かります。頂上東に横山霊園があり、此処を抜けて川西側の鼓が滝2丁目に出ると「東多田2の道標(横山峠の道しるべ)」がありそれが「右、池田」と案内していたので来た所です。『川西市の歴史散歩』は「元、横山峠にあった」とするが、この辺りより北東600m程の地点を示す様で別物ではないか。それを明確にする為に来たのです。
左明治19年測図の地図では「字横山」とありかなり広い地域を示すものであれば複数の峠が有ったとして不思議ではないが、主要道路で一ヶ所にしたい。どうでしょう。
古江町551の道標の指示に従い左の道を採ると、道は北から東に向かい多田横山霊園で車は行止りになります。墓地は明治の地図にも載っていて、道はその西脇を北の川西市鼓が滝2丁目に続いています。霊園の名称にもある様に、ここが横山峠であったかもしれません。今日は西に向かいます。
グーグルマップに史蹟マークと共に「横山峠」(池田市古江町1-350辺り)が見えます。横山霊園からそちら(西)方面に進みます。
グーグルマップの「横山峠」を見に行きます。これをそのまま旧横山峠であったとすると。
帰宅後、この記事を書くに当たって明治19年測図の地図をもう一度見直すと、古江の北から北西に尾根筋を上がり、史蹟印の横山峠辺りを通って、北西に尾根筋を下る、点線二本が見えます。地図記号には無いと思うのですが何となく消えた道を表すようにもみえます。これがお目当ての道なら、A点に出る谷筋道以外に、尾根筋道のルートも有ったと出来る。
地図の縮尺が大きく分かり難いのですが、峠から南に下っていくと、旧道跡らしき地点が二ヶ所あります。上から古江町1-230民家東の三ツ辻、二点目古江町1-83民家東の屈曲点。面倒なので、B点、C点とします。
進入地点の南東にトンネルにも見える空間が有りましたが藪が邪魔をしておりこれを止め、先に訪れた池の引き返し点方向を目指し、東の疎林中を進むことにする。
林の間を進み、2,30m程進むと崖状になり、南に向きを変え下ると、目の下に樋状の道らしきものが有ります、踏み跡も無く降りると上がるのに苦労しそうで行かなかった。
それに沿って北西に戻るように登ると、元の進入口に着いてしまった。即ち強引に藪を掻き分けて入れば良かったと思われます。
多分切通しは南に下り、東に向きを変え、先に述べた②辻に出ると思う。上から見ただけの写真を載せて置きます。
以上三地点が候補になりますが、現地理院地図にある、池の西を通過し尾根の直前で切れている道A点経由が、旧道的な雰囲気が一番であり、B点経由が明治19年測図の点線道に近く、C地点経由が現地理院地図で上部に繋がる唯一の道と出来そうである。近世の旧道としては空の池迄はトレース出来たので、残る尾根に至る道が未踏査として残るとしておきます。地図上では100m程の距離と思われます。
自転車マークとA点、②とB点、①とC点、が繋がっていたと思う。近世、明治中頃、明治後期、等と想像しています。当然現代は川沿いの国道。時代と共に横山峠は東から西に移動し、現国道では峠で無くなったの様に感じる。
現国道173の東側歩道から南を見る。左上に上り東折れするとB点へ。歩道を見る限り今も残る横山峠である。
この後、能勢街道と、旧妙見道が尾根筋で繋がっていなかったかを探る為、尾根筋を東に引き返します。