東淀川南江口の道標

1.始めに

東淀川区南江口3丁目に道標があると聞き、見つけられなかったものと即座に判断し駆け付ける事にした。第二江口町会館は何度か通っているのですが、中を覗くことは無かった。毎度のことながら迂闊である。
 空模様もうまく曇り空であったが、途中晴れたり曇ったりであるが暑さは相当なものでした。この日グーグルマップの「ナビ」を使ってみる事にして出かけましたが、右左折時に信号待ち時間節約のため、道の反対側に先に渡ると案内がややこしくなる事がわかりました。少し頼りなさも感じますが、始めての場所には使っていきたいと思います。

摂津市側から江口を南西に見る。右煙突の施設東端辺りが渡し跡か

会館を東に見る

2.江口橋方面から

それはさておき、東淀川区南江口3ー15ー60は東淀川区第498号線(同上マップより)が北西から来て南東、更に南に曲がるカーブの少し手前の北側になります。神崎川江口橋南詰から堤防沿いに東へ100mの三ツ辻を南東に分岐する道が498号線の様です。第二会館西150mに教徳寺があり、この前を過ぎて北側(左手)でもあります。会館の手前20mに北(左)へ分岐する細い路地が有り、これが渡しへの道であったと想像します。因みにこの路地を北に進むと神崎川左岸沿いの東淀川区第9201号にでますが、こちらからアプローチすると南への分岐点(辻)が分かり難いでしょう。

正門前から北を見る

3.第二江口町会館は無人か

会館の大きな門は施錠されていました。入る為に近所の方にお聞きしようと思うのだが、誰も通り合わせません。庭内西端に寝かされた道標が見えています。通用門を見ると開いていたので声を掛けつつ中に入ったが無人の様です。怒られたら謝りましょう。

同上、アップにするが見えない

4.倒置された道標

道標は玄関の左手前に置かれた物置の南側、ブロック塀に沿って上部を北東に向けて置かれていました。上面・右面はそのまま(草刈りが要る)でも見えますが、左面が見えない。余り大きくないので傷が着かないように注意してコロがしました。これにより、元の下面までもが見えるようになり、紀年銘が刻まれている事も分りました。万々歳です。帰りにはこれまた傷を付けずに元に戻しておきました。

5.南江口3ー15の道標

各面の写真と、読み取った文字を書いて置きます。

道標左(南東)面

道標上(北東)

道標(北西)面

道標裏(南西)面上部

会館前より道標元位置を北西に見る。中央折畳黒門扉の向うとした。右電柱2本目が渡しへの道。
手前左に、村中への路地。

私の手元の地図では元位置候補は四辻に描かれる。

状況だけを書いて置きます。この道標を東淀川区南江口3ー10ー15の民家北側の門扉前の三ツ辻南部(突当り)に現状の上面を北東面させて置かれていた。読み下しは

(北東面)
「左、大坂道」
(北西面)
「左、京道・わたし」
(南東面)
「右、京道・わたし」
(南西面)
「安政三年丙辰八月三日」

 となり、下記の元位置に立てれば、三面とも行先が上手くされ、且つ一番目立たないに紀年銘が来るよう設置できると思います。

6.元位置は近くに

 「今昔マップ on the web」の明治の地図が、安政時の道をどの程度表しているか分かりませんが他に頼るものも無く、これを信じましょう。
 明治の地図で想定出来る辻(実は、卍の記号で見えない)が神社の鳥居記号の北に続き、渡しへの道として良い様に見えます。卍からは南西村中への道も見え筋違いの四辻であったかも知れません。この村中への道は今も残り、道標元位置から8m東寄りに有ります。
 私の手元にある明治17~23年の地図では四辻に描かれているが多分縮尺の関係でそう見えていると思う、現在の民家の位置を見ても路地をワザワザ筋違いに付け替える事は無いと思う(筋違い四辻とは、┻┳この様な感じを言います。)ので、微視的に北への三ツ辻地点とします。

ここで、一言。近世の道標に有っては、村中を通過する道は最短であっても案内はしません。何故ならモメ事を極力避ける為の方策なのです。村中へは「在所」とか「のみち」等とし、目的地へは今で言うバイパス道を指し示します。依って上記の筋違い四辻で村中を通って大坂を案内する事はあり得ません。

7.大坂への道筋

筋違い四辻から東、大坂道方面を見る。左は第二会館

第二会館東から南を見る。奥の木は江口の君堂(寂光寺)を過ぎ淀川右岸へ出て大坂へ

渡しを北から越えて大坂に向かう道筋を追ってみます。道標の北東面を正面から見て「左、大坂」に向かい8m東寄りの路地を通り過ぎると大きく南方向に向きを変え、江口村を抜け淀川右岸堤防の道に出て、「辻堂(ツイドウ)とある村から西に向きを変え大桐村に進みます。
 今なら道標地点から「右(西)」に向かい府道16号(大阪高槻線)に案内するのではと考えるかも知れませんが、当時その道は有りません。道標建立以前になりますが「中島大水道」が作られた事を見ても分る様に、この辺りは低地で道を作るのに適さなかったのでしょう。

8.大桐村の道標へ

大桐3の道標を南西に見る。大坂へは10m先を右折し、20m先を左折(西折れ)。

大桐3道標北西面

淀川右岸道を大桐5丁目で分れた後は、複雑な経路で南西に向かいますが、大桐中学校の西を通り、「大桐3の道標」、「大桐3-9の道標」を経由して、現府道16号とは異なる道筋を進みます。

左奥の大桐3道標から来て突当った三ツ辻を北東に見る。大坂へは左へ(道標向面に「右、大坂」)

大桐3-9の道標を北西に見る。大坂へは10m先の三ツ辻を左折

旧道ファンにはタマラない道です。明治の大阪府史が「江口街道」とする道を上手く辿る必要があるのです。

内環大桐2交差点の一本東の辻で府道16号に吸収された旧道は、大桐2交差点の西90mの交差点で16号から分かれ西へと進み、鯨橋として名高い瑞光寺の参道と合流し南西行(東淀川区644号)すれば、菅原で再び16号と交差します。これを横切り南に向かう(東淀川1499号)と淀川右岸堤防下の菅原1-の道標」、「同1-4の道標行き着きます。ここから長柄へ渡ればもう「大坂」となるでしょう。

9.菅原の道標へ

菅原の道標二基(右が1-3)を南西に見る。右奥、長柄橋へ

菅原1-4道標の西面、「同…江口」は左(北)を示して良し。

菅原1-3道標を北東に見る。左奥江口へ、

菅原1-3道標。今では案内方向がおかしいが、北東面に「左、江口」とある。

10.『大阪の街道と道標』のミス

参考書としている『大阪の街道と道標』武藤善一郎著では、「江口街道」の項でこの道標№595を「今はなくなった」として紹介されているが、紀年銘の月日に誤りがあるようです。又、街道名は多分『大阪府史』明治36年刊に載る名前で、近世には用いる事は無かったと思う。

大桐3道標北西面下部

11.大桐3の道標、思い付き

余談ですが、上記「大桐3の道標」で北西面「左、江口済(わた)し、より右」と読み下せなかったは、この道標により道筋が確定できたことにより、現在の地蔵祠より5m南西の辻にあったとし、そこから20m北東の三ツ辻を南東に右折れする案内であるとするなら、には「十間(18m)」と書かれているかも知れない。

12.終りに

紀年銘の安政三年(丙辰)八月三日は西暦1856年9月1日(月曜日)となる。安政二年十月二日に江戸で「安政の大地震」、道標建立の安政三年七月二十一日に「ハリス下田来航」、同年八月五日に総領事として玉泉寺に入る、同八月二十五日に「江戸大風災」で台風による死者過去最大で10万人、安政五年には「安政の大獄」があった等、騒然な時代であったようだが、日々の暮らしに必要なものは堅実に作られていたのでしょう。