東淀川南江口の道標
5.南江口3ー15の道標
各面の写真と、読み取った文字を書いて置きます。
状況だけを書いて置きます。この道標を東淀川区南江口3ー10ー15の民家北側の門扉前の三ツ辻南部(突当り)に現状の上面を北東面させて置かれていた。読み下しは
(北東面)
「左、大坂道」
(北西面)
「左、京道・わたし」
(南東面)
「右、京道・わたし」
(南西面)
「安政三年丙辰八月三日」
となり、下記の元位置に立てれば、三面とも行先が上手く示され、且つ一番目立たない面に紀年銘が来るよう設置できると思います。
6.元位置は近くに
「今昔マップ on the web」の明治の地図が、安政時の道をどの程度表しているか分かりませんが他に頼るものも無く、これを信じましょう。
明治の地図で想定出来る辻(実は、卍の記号で見えない)が神社の鳥居記号の北に続き、渡しへの道として良い様に見えます。卍からは南西村中への道も見え筋違いの四辻であったかも知れません。この村中への道は今も残り、道標元位置から8m東寄りに有ります。
私の手元にある明治17~23年の地図では四辻に描かれているが多分縮尺の関係でそう見えていると思う、現在の民家の位置を見ても路地をワザワザ筋違いに付け替える事は無いと思う(筋違い四辻とは、┻┳この様な感じを言います。)ので、微視的に北への三ツ辻地点とします。
ここで、一言。近世の道標に有っては、村中を通過する道は最短であっても案内はしません。何故ならモメ事を極力避ける為の方策なのです。村中へは「在所」とか「のみち」等とし、目的地へは今で言うバイパス道を指し示します。依って上記の筋違い四辻で村中を通って大坂を案内する事はあり得ません。
7.大坂への道筋
渡しを北から越えて大坂に向かう道筋を追ってみます。道標の北東面を正面から見て「左、大坂」に向かい8m東寄りの路地を通り過ぎると大きく南方向に向きを変え、江口村を抜け淀川右岸堤防の道に出て、「辻堂(ツイドウ)とある村から西に向きを変え大桐村に進みます。
今なら道標地点から「右(西)」に向かい府道16号(大阪高槻線)に案内するのではと考えるかも知れませんが、当時その道は有りません。道標建立以前になりますが「中島大水道」が作られた事を見ても分る様に、この辺りは低地で道を作るのに適さなかったのでしょう。
8.大桐村の道標へ
9.菅原の道標へ
10.『大阪の街道と道標』のミス
参考書としている『大阪の街道と道標』武藤善一郎著では、「江口街道」の項でこの道標№595を「今はなくなった」として紹介されているが、紀年銘の月日に誤りがあるようです。又、街道名は多分『大阪府史』明治36年刊に載る名前で、近世には用いる事は無かったと思う。
12.終りに
紀年銘の安政三年(丙辰)八月三日は西暦1856年9月1日(月曜日)となる。安政二年十月二日に江戸で「安政の大地震」、道標建立の安政三年七月二十一日に「ハリス下田来航」、同年八月五日に総領事として玉泉寺に入る、同八月二十五日に「江戸大風災」で台風による死者過去最大で10万人、安政五年には「安政の大獄」があった等、騒然な時代であったようだが、日々の暮らしに必要なものは堅実に作られていたのでしょう。