大阪の学校を回って見ようとしているさなか、尼崎も気になりだした。尼崎を巡り始めたのは随分昔の事で、それ以降、PCも2度更新しており、資料が上手く引き継げていない事が判明した。
即ち、参考としたテキストが一部しか残っていない事が分かりました。PC以外の綴じた紙類も、チョットしたミス(川に落ちて濡れた)で読めなくなったママです。多くが染料系の安物プリンターで出力した為です。顔料系であったらどうかは知りませんが。ゴワゴワになっても読めればいいのですが、私のものは虹のようになり、消えています。
『尼崎の道標を訪ねて歩く』がメインであった。
必要と思われる所をメモリます。
その後、昭和も戦前までは含めるとしたので、今となっては載せる必要が有るのですが、前述の如く資料が見つかりません。
再度訪問しましょう。実は何年も前に写真だけは撮った覚えがあるのですが、PCのフォルダーにコピーしなかったと思われる。最近も撮っており、草が多く難儀した記憶があり、今回はどうでしょう。
やはりダメでした。私有地では無いと思うが、JRの構内の可能性も有り、勝手に草を刈る事も出来ません。少し搔き分けて写真を撮るだけにしました。今後定期的に見に来る事にします。河原の土手の草刈りならある程度予測はつくのですが。
暫定の記事を挙げておきますが、この道標の特徴は、進むべき先を方位で書いている点です。これは地形の概念と、当地での方位が分かる人にのみ有効で、道案内としては、本来「下」なのですが、設置前に辻の状況が良く分らない場合には有効な手段です。施主の名前が入っているようですが、土地の方ではないかもしれません。
殆ど収穫なく退散。
ついでに、綺麗な写真が無かったように思い、「久々知1広済寺門前の道標」も訪ねました。
少し詳しく書きます。直交ではない四辻の北西部に建ち、南東面が一番見易い面になります。これを正面とすると、正面上部に庇状の出っ張りを設け、空間を少し取り、「近松門左衛門墓所」としている。これだけを見ると名所碑に見えるが、左下に小さい字ではあるが、「従是左廣済寺」(これよりひだり廣済寺)と「左」を案内している。右面(北東面)は同じく「近松門左衛門墓…」とし、左下に「従是右廣済寺」(これよりみぎ廣済寺)としている。現在の辻にあっては正しく西方向の「廣済寺」を案内する道標として機能する。
元の記事に「上部に削り残しを付けた角柱風、(サンダーやカッターを使用したように見える。)」等と悪口を書いていましたが、機械処理した形跡は確認出来ませんでした。他に、現南西面に角形のほぞ穴が開いており、鉄柱が嵌め込まれていたようなサビ色が残っています。又、東陵(角)下部は面取りされた様に見えます。これと、明治の地図にある、当時は三ツ辻であった、のすぐ西を流れる川又は井を考えると、これに架かる橋の欄干であったかも知れない。この時東詰め北側の柱として設置されていれば、ほぼ現状と同じ位置であったと想像できる。
こう考えると、現状の不思議な形態もそれらしく思える。昭和9年発行地図では橋が描かれているかも知れない。
思わぬ発見に喜んでいると、何んと足元にマンホールがあるではないか。今も暗渠として川が残っているかも知れない。
と、すぐ近くに、女子高校生か二人が、スマホを手にして何かを待っている。マンホールの蓋を見ると「落第忍者乱太郎」に出て来る誰かの絵が描かれている。これの写真を撮りに来たようです。webのAIによると「忍術学園長先生、大川平次渦正(おおかわ へいじ うずまさ)の年齢は、少なくとも70歳以上です。」と変わらぬ爺様に声は掛けにくいのでしょう、急いで場所を譲ります。写真を撮ったらすぐに移動すると思っていたが、一向にその気配なし。仕方なく近所の辻を探索して戻ってくる事にしました。
後で調べたところ、「久々知兵助」「五年い組、A型、魚座、頭が良くて成績優秀。豆腐に詳しく豆腐料理が大好物。得意な武器は五寸ほどの鉄の棒に輪の付いた寸鉄。」とあった。
廣済寺が久々知集落の北の外れであり、マンホールは名前に合わせて設置してあるものと思われる。これは道標巡りより面白いかも知れません。因みに西の須佐男神社鳥居前には、乱太郎を巡る自転車を道路に止めないよう、「ふれがき」が有りました。
後日、近松公園南東の上記石を、道標にすべきと分かり、再度訪問しました。ここに続きとして書きます。
道標の各面の撮影と記載文字の判読、サイズを計測、方向の確認。何時ものパターンをこなします。
帰宅後、内容を確認し、元位置の考察になった時、南西面にあるほぞ穴が気になり、何かに流用されたと思った。よくあるのは境界石に使われ横桁を通すために穴が掘られたとされる。ただこの場合反対側にも穴が開いている、無い所を見ると終端に使ったものであろう。
次に明治の地図を用いて、案内に相応しい辻をさがします。広済寺を案内して、案内が欲しい地点を探すが、決定打が在りません。ツラツラと地図を見ていると、当位置は三ツ辻で四辻になっていない。南へは道でなく川或いは農業用の井が流れるだけである。
川、・・・
川なら橋が架かっていても良い、橋の欄干なら、穴が開いていても不思議ではない。川が有ったか確認する必要があるが、前日マンホールの蓋が有るのは知っている。写真を良く見直すと、マンホールだけでなく、何か不自然な切れ込みが作られている。
何んとなく答えが見えてきました。
後は、証拠をそろえましょう。旧い写真等があれば良いのですが。尼崎のデジタルアーカイブには無さそうです。
近世の物かは不確実であるが、明治の地図『今昔マップ on the web』で当地を見ると、東から来た「有馬道」と北から来た道が出会う三ツ辻(昭和7年以降は四辻)で、有馬道はここから真西でなく少し南西に向きを変え進む。この辻の西側に川が北西から南に流れている。と読み取った。
これからは勝手な妄想です。道路整備により川が邪魔になり、川を暗渠とした。マンホールを開けると、旧い流れが今も確認出来る。公園の整備で周囲を土塀囲みとしたが、外側には石で囲った土盛を付ける事にした。その石垣の一部を切れ込んだように加工し、川の跡を表現した。或はマンホールの設置位置を川の中央にした為、作業用空間を作る必要があった。
この川には橋が架かり、親柱(欄干の端)は石で出来ており、この石が当石で、道標の役目を果たしていた。橋なので親柱は四本あったが、これはその内の北東部の1本である。よって横桁(手摺、梁?)を通す穴は、南西部だけで良い。北西面は通行人からは見えないので加工する必要はない。東と北から来た人に見える面は南東面と北東面になります。東から来て辻を越え欄干に正対すると「左」が広済寺になり、北から辻に入る直前に親柱を目にすると「右」が寺になり、橋を渡り南西に向う事になります。
これで、全ての状況が説明出来たと思う。次にほぞ穴近辺に残る、錆び痕の様なものについて、近世の作であれば、鉄柱を使わず、木としたであろう。そうすると錆びる事はありません。鉄の赤さびが残るとすれば、明治以降ではないかと思う。但し改造による交換なども可能性はある。
依って今回、独立した道標とし、「広済寺門前の道標」に付記していたのを止め、追加する事にした。橋の欄干に案内を書いたものは珍しいと思う。「神戸市兵庫区東山町4大正の道標」がある。