お手本としている『神戸の道標』に「播州阿閇本庄は加古郡播磨町本庄である。」とあり、私の「中央区下山手通8の道標」の解説中にも「Webを検索したところ、播磨町西野添3丁目8の無量寿院に、寛延三(1750)年の『魚介類供養塔』に施主として東本庄村の魚問屋の梅谷七右衛門の名前がある様でこれ等も今後の調査としたい。」と書いておいた為、何時かは調査しなければならなかったのです。
尚、「阿閇」は「アエ」と読むらしい。
参考とした、webの記事「無量寿院に、『魚介類供養塔』が有る」に誤りがありました。
多分無量寿院に、『魚介類供養塔』はありません。代わりに「梅谷」の銘が入った、『宝篋印塔』と『三界萬霊地蔵尊』の二基の石造物が有りました。『魚介類供養塔』は別の場所にあるようですが確認は出来ていません。ただ上記二基にも同氏の名が建立年と共にあり、目的は一応果たせました。
神戸市中央区元町駅の北にある「中央区下山手通8の道標」に「梅谷氏」と銘があり、これに関連して播州無量寿院に同氏の建てた石造物が有るとの事で気に留めていた。近くに行くことが有ったので、訪ねてみた結果を報告します。先ずはその道標の写真。
無量寿院(加古郡播磨町西野添3-8-16)へは、神戸方面から車で行くと、国道250号(明姫幹線)田中交差点を北東(右)折れし、細い道を240mの四辻で北西(左)折れし、100mでT字路に突当ります。突当りすぐ左(南)の西側が駐車場です。これを知らずに右折(北東)したのが災いし、周辺をウロウロし、北西側から通用門を潜るような事でした。山門は寺の南西側からが正解でしょう。
境内の北東部が本堂と思われますが、その手前右側に、幾つかの石造物がならびます。一番南端に『三界萬霊地蔵尊』が建ち、北横に『宝篋印塔』が並んでいます。地蔵の左後に解説板が建っています。webの記事を信じていた為『魚介類供養塔』を探すのですが見つかりません。仕方なく地蔵と宝筐印塔を写真に収めて帰りました。
現場では殆ど読めなかったのですが、帰って写真を見ると、何方にも「梅谷」が写っていました。同時に建てたものでは無い事が紀年銘で分かります。一方には姓・名があるが、地蔵には名が有りません。この二基が同一人物かも厳密には分かりません。同じことが「中央区下山手通8の道標」についても言えます。
解説板の写真と内容を書き起こしておきます。
三界萬霊地蔵尊(町指定文化財)
三界萬霊地蔵尊は、寛保三年(1743)に東本庄村庄屋
梅谷七右衛門清政が、亡き妻の追善供養のために無量寿院境
内に建立した石造の地蔵尊です。
七右衛門清政は、十八歳の若さで東本庄村の庄屋を継ぎ、
新田開発によって村の困窮を救いました。その後、魚問屋を
開業し、その財を活用して地域の神社や寺を再興し、地域の
困窮者に生活支援するなど感謝されました。
この地蔵尊は、石造地蔵尊としては他にあまり例をみない
足を崩した半跏趺坐に特色がみられます。特に如意輪観音に
見られるような右手の掌を直接頰につけたものは、さらに例
をみることが少ないもので、台座正面に「三界萬霊」と刻ま
れています。三千世界のあらゆる霊の救済者として普及し、
地神との結合がすすみ、土地に根づいたとされ、さらに、子
どもの難を救うとされます。
梅谷七右衛門清政が妻の死を悼み、死後の冥福を祈って造
った大きな石仏は、二八0年の歳月を経て今なお無量壽院に
あり、夫婦の絆を今に伝える貴重な文化遺産です。
令和五年三月
播磨町教育委員会
『魚類成仏の塔』を播磨町役場のホームページから見ておきましょう。要旨をまとめると。『塔は本荘中央公会堂の裏、高さ325㎝」「塔身に梵字、基壇に「妙経一石一字納塔中」「魚類成仏の塔」「寛延三庚午卯月吉祥日」「施主問屋梅谷」とある。』
『この供養塔の建立は、梅谷家文書『愚胸記』より、梅谷七右衛門清政と推測されていたが、阪神大震災時の倒壊により銅銘板が発見され、施主が梅谷七右衛門清政である事が判明した。』
となります。
神戸の道標とこの寺の二基の石造物の村名に注目してみましょう。
神戸の道標には「播州阿閇本庄」とあり、播磨町の地蔵に「東本庄邑」、石塔には、「本庄村」とあります。
天保国絵図に阿閇村は無く、東本庄村、西本庄村があります。
阿閇村は1889年(明治22年)4月1日 町村制の施行により出来たとwikiに有ります。
行政的な呼び名にこだわるなら、明治22年以降の建立となるが、見た目ではそれほど新しくはみえません。
『今昔マップ on the web』明治の地図には「阿閇村」がみられます。
播磨の国風土記には「阿閇津」「阿閇村」が有る様で場所を示すものであれば、江戸時代はおろか、それ以前としても良くなるでしょう。村名は道標建設時期の決定的要因とはできないでしょう。
『神戸の道標』
「阿閇本庄」
さて、ここで当道標と同一人物であったかを検証する方法はどうすれば良いのであろうか。『愚胸記』に当り関連記述を探るが次の一手であるが、播磨町立図書館には現代語訳版があるようです。
他に、筆跡を比べてみましょう。
結論は、分かりません。
取敢えず、寛保三年(1743)、東本庄村庄屋梅谷七右衛門清政より後、とは出来るのではないか。