高槻市内の西国街道を島本町から茨木市に向けて下ります。市街地までは府道67号線になるでしょう。高槻市神内(こうない)2丁目北の大きな交差点から、高槻市土室(はむろ)町までとします。
高槻市では『高槻まちかど遺産』や『高槻まちかどの石造物』などの刊行物や、金属製案内板の設置などがありこの方面に力を入れられている事が想像できます。高槻市内は広く道標の宝庫でもありますが、西国街道沿いは開発も進み多くは残っていないものと思います。他の部分は別項にします。
神内の三ツ辻交差点を右(南西)に入ります。220mで東海道線をくぐり、1080m地点の右(北)側に梶原一里塚跡のお堂があり、南側に力士碑が立ちます。一里塚は『山崎通分間延絵図(やまさきどうぶんけんのべえず)』の井尻村、梶原(かじはら)村の間に描かれているものと思います。一里塚跡から520m右(北)側に「畑山(はたけやま)神社」があり、神社から300mで非常に高い高架の下をくぐり、神内2の三ツ辻から1.5㎞で檜尾(ひお)川の檜尾川橋を越え、JRの引き込み線の西端を過ぎてすぐの2.7㎞地点、別所新町6-11辺りに成ろうか、三ツ辻の右手前(北東部)の民家の角に、折れてはいたが立っていた道標があった。
2014年5月には存在したが2018年には無くなっていた。「(左北山本山)寺近道」とする大正四年作の道標であったようです。
腑に落ちない道標だったのですが、さておき「本山寺丁石一覧」も参照してみてください。
別所新町6-11の辻から150mの筋違い四辻を南に分かれると八丁畷筋から城内への道となり「京口町の道標」に続くが今日は寄り道せずに、180mで府道79号の高架をくぐり(府道67号はここで北に西国街道と分かれる)、次の四辻(別所新町1)で240mになります。この辻の手前右手(北東部)に「別所新町1の道標」があります。道の南側は「磐手杜(いわてもり)神社御旅所」となっていますが昭和40年頃までは池であったと思います。
「従是四丁北/花之井 」と名所を案内するものである。能因法師のうたを「あしびきの 山下水に 影見れば/眉しろたへに 我老にけり」としたがどうでしょう。現在ある花の井(山下水)から、当道標までは、明治の地図で見ても、現在の道と同じと思われ、490m程度になる。案内が北面にあり、道に面していないのはどうしてでしょう。
剥落がひどくそう長くは残らないでしょう。
別所新町1から80m西の次の四辻迄進みます。辻の手前左手(南東部)に「古曽部町2の能因法師(のういんほうし)墳への道標」が立ちます。その後ろには小さな祠もあります。
右図は国立博物館デジタルアーカイブの「山崎通分間延絵図」(安満村、別所村)あたりの図で、左端に「花井碑」と「道印石」が描かれています。新町池の北西部に位置することから、「花井碑」が上記「別所新町1の道標」と出来るかもしれない。
この辻から北に最短ルートを採っても、450m(4丁)となり、「三町餘(余)」が合わないが、東の辻からではここより遠くなる。よってこの辻にあったものとして良いと思う。
再建者が三名書かれているが、その内の一人「五十嵐」について、『高槻の道しるべ』は、古曽部(こそべ)焼窯元三代の「五十嵐信平」としている。「元治元年甲子五月再建」の銘より、1864年三代目の信平が40歳の時になるらしい。
東面の歌の読み下しを「敷島の深き教えの跡訪えばここ渡るふしの道よりぞ入る」としましたがどうでしょう。非常に綺麗な道標です。
古曽部町2からは西へ630m進み次の道標になりますが、「能因法師墳の道標」から90mで旧西国街道は大きく広げられ、旧道の面影は一切ありません。途中、左手に関西大学、右手に高槻病院があります。前道標から630m地点の四辻手前の左側(南東部)歩道の奥の植込み中に「白梅町4の道標」が立ちます。左手(南)に折れるとJR高槻駅北口のロータリーに出る辻です。
元位置はJR高槻駅北側の目立つ位置であったとされます。大正の道標で「本山寺/西北二里」としている。道案内よりも、どちらかといへば看板替わりのようとすれば失礼になるでしょうか。非常に大きな石です。
尚、本山(ほんざん)寺への丁石は別項にまとめてあります。参照下さい。
白梅町4の道標の四辻を対角線(北西)に渡り、北側歩道を60m西へ、車道寄りに天神町1の道標が立ちます。
道標かどうか微妙なところであるが一応載せた。「廣智禅(寺)」とあり「明和四丁亥歳孟秋」と紀年(1767年)が刻まれるきれいな石である。2014年と比べ、付近の様子はすっかり変わっていた。
廣智(こうち)禅寺は『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』(1798年)に山裾(現府道67号)からすぐに階段を登り寺となるように見え、西国街道に直接つながる道が無かったと思える。一段階段を登った所には石碑らしきものが描かれ、この石だとすれば道標では無くなる。下のボタンから参照して下さい。 尚、現在建つ階段の寺標石は昭和58年7月のものです。
天神町1の道標から西国街道を西へ150mの大きな四辻を西に渡りきると、辻の北西部(芥川町2丁目24-1)に新しい石が立ちます。南面に「霊松寺道」、東面「祈、交通安全…」とあり寺への道標と出来ますが、これはつい最近のもので特にとりあげません。
これの元となる道標があり、今は霊松寺(れいしょうじ)門前に移設されたのではないかと思っています。それを見に行きます。
新しい石から北に200mの五つ辻(新しい「…笠松地蔵尊」石が立つ)を北西の細い道に進み、40mの右手(北側)に寺に登る参道入口があります。これを50m登ると山門左手(西側)にその道標が立っています。
元は芥川(あくたがわ)二丁目の西国街道沿いとしましたが、現在は新しい石標が建っており、古いものがここ霊松寺山門南西前に移設されたと考えました。南面「靈松寺道」、東面「すく、そうし寺道」、西面「春く、京みち」とあり主目的は西国街道から「霊松寺」を案内したものだったのでしょう。今では他の二面のきれいな案内が役にたっておらず残念な気がしますが、こわれたり無くなったりする心配はなさそうです。
霊松寺も『摂津名所図会』にあります。下のボタンから参照して下さい。
下のボタンから参照できる『山崎通分間延絵図では北から来た道が西へ曲がる左側(東)と右側(西)に一里塚らしきものが対で見える。
一里塚で道は西に向きを変えます。ここから460m右手(北側)に地蔵堂があり西前に一見すると道標風の常夜灯が立ちます。
『高槻の道しるべ』に載っているので、とり上げました。まるで道標のような形をしていますが、道案内は一切ありません。又、殿町となっていますが今の住所では芥川町4丁目と思われます。南面に「愛宕山献燈」とあり、火袋もあり常夜灯である。火伏信仰に関連するものでしょう。『高槻まちかど遺産』には「真上村には4つの愛宕講があった」とし京都の愛宕山としている。服部図書館の東や、真上2丁目9の七つ辻の南西部にも常夜灯があるらしいが、後者の近い方でも700m程北なので寄り道はしません。
常夜灯から西に10m坂を上れは大きな四辻に出て、左手前(南東部)に、よく見かける笠が付いた常夜灯があります。
金毘羅大權現の常夜燈である。竿部が異常に細い気がする。
一般的に「従是道(法)六十三里半」を道標とするには遠すぎる(250㎞)感じがするが、金毘羅信仰とあればやむを得ないのでしょう。『高槻まちかど遺産』では、「芥川宿絵図」から元は道の北側に立っていたとし、大坂から渡海、又は倉敷から渡海とするが、大坂へ行くにも、陸路か船行かは明確でない。
金毘羅山常夜灯から西へ40m、芥川左岸(東)の堤防上、一応辻と見なして南東部に地蔵堂と西前に道標が立つ。芥川橋東詰め南部としても良いでしょう。
「神峰山寺毘沙門天道/此所芥川登り口是より四十丁」とあるように参詣道の案内である。近接移設としました。
加峰山に関して一連の石があり、参詣道も一本ではないようです。「神峯山寺本堂、堂内東長押上小壁に掲げる奉納額」として別項にまとめましたのでそちらを参照下さい。
『山崎通分間延絵図』には芥川に橋が架かっている様子が描かれている。川巾二十間(36m)とあるように見えます。今の橋は50m程でしょう。
地藏堂の道標から西へ道なりに1.2㎞道が南西に向きを変え始めた筋違い四辻の右手角(北西部)に三基の道標が立ちます。一基は民家ブロック塀の一部に取り込まれ、手前に自然石の道標が一基、目立つ位置に一番新しく大きなものが一基これは道標とすぐ分かります。高槻市の案内板も足元に見えます。
三基の道標から西国街道を西へ進みます。240mで女瀬川を渡り、西から合流する氷室川の北側に沿って進み480m地点で、巡礼橋バス停のある府道115号を横切ります。960m地点の氷室町三丁目3の三ツ辻ではやや左へ進み、40m先の三ツ辻は右(西)にとります(S字状に進む)。1.2㎞地点のやや広い道の信号(宮田町2丁目40)を渡れば、1.3㎞で高槻市西端の土室町49となります。
川の名前は分かりませんが多分境界線ではないかと思います。『山崎通分間延絵図』では「摂州/嶋上郡、嶋下郡/境」と書かれている地点かと思います。
青線は文中の経路と異なることがあります。
2021年9月25日 作成