中央区大師道の丁石

2023/3/27 作成。

参考程度
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始めに

長く放っておいた「大師道」の丁石を全て見てきました。道標調査時に下部と上部の数基は見ていたが途中は投げ出したままにしていました。何せ22丁もあるらしいので、時間が掛るのは必至であり、行先も道標の様に無く面白くない(本当はしんどい)から後回しになりました。1日では回り切れず、別の用件も出てきて延3日掛かりました。
 地図上で3,477m(高低差319m)、22丁(4丁が重複し23基)で割ると158m間隔となり、丁石が不足状態。

大師道の丁石を明治の地図に書き込んだもの。

又、幾つか新しい知見も得られたので合わせて載せておきます。
一つは、立像に(十)八丁とある石は、丁石でなく道標であろうこと。もう一つは丁石の建立年代がかなり古い物が混じっていた点、更に道標が三基見つかった事である。詳細は後程とし、参詣の体で順番に見ていきましょう。尚、丁石の詳細については「大師道丁石一覧」を参照下さい。

大師道の金属標、辻北東部

起点

今日の出発点とした、公園南西の金属製標識「大師道(再度谷)/猩々池を経て再度公園/左矢印」とあります。
背後には道標と22丁(2.4㎞)丁石が有りますが、地理院地図の平面距離は3,477m地点となり1㎞以上足りず、実際の距離はこれより長くなります。
 覚悟して歩きましょう。途中ダム堰堤を越える部分は少しキツイですが山歩きをされている人は物足りないかもしれません。時々、部活の高校生が挨拶を交わしながら走り抜けたりもします。

手前に22丁

22丁を北西に見る

22丁

出発は振り返りから。
22丁丁石には「大正五(1916)年」と書かれていて、この道筋にある4種類の系統の内で2番目に古いが一番数多い丁石の先頭であると思われます。右横の「諏訪山町3の道標」が無ければ多分北東面には「施主(和田…)」とあるでしょう。邪魔にはなるでしょうが離して建ててほしいですね。 

北東面は施主まで

18丁の道標を北西に見る

道標上部、右肩左に「是…」

18丁の道標

北に向け歩きます。130m程先の右手(東)、民家の北側に空地がありその北端に崖を背にして小さな祠があります。前面の格子戸には鍵が掛けられ中が見難いですが是非のぞきましょう。
残念な事にまだ難関があります。赤い前垂れが厳重に案内を隠します。毎度のことながらガッカリし去ることになりますが、確認出来た範囲では立像型の道標であろうと思われ、正面(南)に多分「是より再度山へ)/(十)八丁/(為、或いは施主…)丘代」とあり、左面には建立年と思われる「宝暦(1751~1762年)」が見える気がします。
 是非とも固定式の鍵のかかる賽銭箱にし、裾の短い前垂れにされることを祈り、且つ今日の安全も欲張って祈り後にしました。通りがかりの方に聞くと以前は鍵がなくよく盗難にあい仕方なくとの事で、運よくお手入れの時に当れば見せて頂けるかもとの事でしたが、5回ほどは来ているが一度も出会えずにいます。

前垂の下に「八丁」

何故22丁の次に18丁なのでしょうか。少し先走りますが21丁がこの先に有り、間に18が有るのはおかしく、移設されたものでしょうか。この問いに関して私なりの答えを載せておきます。『攝津名所圖會』寛政8-10 (1796-1798)年出版に大龍寺の説明に「宇治野村上方十八町にあり、坂路壹町毎に標石を建る…」とある事を見れば、当時大龍寺を案内するには「十八丁」が決まり文句であり、丁石の様に距離をピタリと合わせる必要は無かったとしたい。但し、明治の地図からするとこの地点では無く60m程北の三ツ辻(山手大学4号館北の細道が川を越えた)辺りからの移設と考えています。

21丁の祠?

21丁

残念な気分を残しつつ、60m進み上述の三ツ辻、十八丁から210m(約2丁)の左手(西)谷側に、失礼ですが犬小屋風の祠があり「二十一丁」と白い札が架かっています。屈みこみ前垂を上げるも、丁数は確認できません。信じる事にしますが、大正五年製のものと思われます。
 山道を歩くより、低いアングルで写真を撮る方が辛い事を思い知らされます。

21丁?南東面

20丁を北に見る

20丁

東上には女子校が有る様で、学生さんがよく通ります。どのように見えているか気になる所ですが、関わりたくないと思っているでしょう。が年配の登山者は違います。21丁から140mの右側(東)の新しい「20丁」を写真に撮っていると、「何をされているのですか?」と優しい問いかけです。趣味で見て回っていますと答えると、この石は「学校関係者の方が再建された」ような事を教えて頂いた。何時の事かは分からないようでしたが石を見る限り昭和の後半以降と思われます。
 新しい丁石には2種類が有る様で、正面に額縁の様な枠を設け文字面をワザと粗く仕上げたものと、正面がツツルのものに分ける事が出来ます。何方が古いかは区別出来ませんが、前者の方が値段は高い様に思います。
 この20丁は「高い」方の仕上げで、以降、額縁型と呼ぶ。

同、南西面

19丁を北東に見る

19丁

20丁から丁度、1丁(109m)の距離の谷側(西)の少し広くなった所に19丁丁石が建ちます。左にはGoogle mapで「…病院諏訪山寮」とある建物があります。これは大正五年製と思われます。「丁」の字の上部だけが残る程埋められていますが、施主の住所が読み取れる始めての石です。17丁と同じと思われるのでそちらを参照下さい。

19丁南面

18丁、本来、この時点で気づくべきだが、通り越してしまった。

戻っても、ネットの裏は気づか無かったりするかも。

18丁

19丁から120m進んで右に大きく廻り込んだ右側(東)崖の落石防止ネットの内側、と書いていますが実は気づかずに通り過ぎていました。少し行き過ぎてもうあるはずだがと振り返ってウロウロした結果見つけられたものです。

18丁北西面

周りの笹やシダを抜いていると話しかけてこられた方があり、その方の奥さんがこの前垂れを作られたようで、ネットの隙間から潜り込み付けられたと聞くが、私はそこまで根性が出来ておりません。新しいパターンの最初の丁石ですが、全貌を見ずに後にしました。丁石の場所の目標は対岸(右岸・西岸)の五本松稲荷へ渡る廃橋が架かる地点です。

左に丁石、正面に廃橋、右に稲荷

17丁を北に見る

18丁から120mの少し開けた場所になります。大きく川が蛇行しており開放的な感じがするものと思われます。地図ではコの字型に道が付き右辺の上部近く、左手に川が流れ、右(東)側の崖との間に民家が数軒建つ北端にポツンと建っていました。丁石北は民家が有ったようですが取り壊されて工事中の様な状態でした。

17丁を南東に見る

17丁西面、大正5年製

同南面、施主の下右に住所、左が姓名

17丁

この17丁丁石は大正五年製の一連(十三基)の特徴を持ち、施主が完全に見えるものである。住所と姓名が書かれており「神戸布引町四丁目、和田美子、再度(講員)」とあり、前述の19丁もこれと同じと思われる。この町名は現在でも中央区にあり、神戸市デジタルアーカイブの大正四年「神戸市古今対照地図」で見ると現在と同じと思われ、三ノ宮駅北のフラワーロード東側の非常に狭い地域に限定できる。同姓の石が複数ある事から一家或いは親族の手によるものであろう。尚、住所、氏名、紀年、講名の四つ全てを持つものは「一丁」丁石のみである。

ここで山から下りてこられた方々が「これはよく見るが何ですか?」と、丁石の概要を説明し此処に「…美子」とありますと言うと、「なるほどそう言われれば、そうとしか見えない。」と一しきり談笑しました。この様な石は「何時も見ていても興味の対象にはならない」と思うと共に、残りの距離が1丁毎に減り目的地に近付く事を喜ぶ程険しい参道では無い為かもと考える。

16丁を北に見る

同、近寄る

16丁

17丁東、路地突当りの歌碑の様な石をチラ見し次を目指します。大きく西に曲がり100m程で又北に向きます。150m程の間隔に成りますが16丁丁石が有るはず?。下調べでは「民家の陰」と分かっていたので見逃しません。廃屋ではないと思うが、右手(東)崖下に南に崩れかけたトタン塀を屋根代わりに、これが幸いして綺麗な16丁丁石が建っています。

16丁丁石、保存には良いのだが如何せん東面と北面が読めない。東面は何とか体(頭)を入れて見るが何も無く、北面は書かれていそうな気がするがほとんど見えず、南面の施主により、大正5年製の仲間とした。こちらは「愛子」さんとある。「美子」さんとは御姉妹でしょうか。

16丁西面

15丁を北に見る

左は稲荷橋

15丁

16丁から60m程のひよこ橋で再度谷川を越え、ここで初めて右岸(西)を進みます。16丁から150mで15丁丁石が右手(東)柵前に建ちます。正面にはトイレが見え、左上灯籠茶屋に上る分岐があります。

15丁は最も新しい部類の内の簡素な方に属すると思われ、南面の施主には個人名でなく「再度山杖観音」とあります。この祠が西上の再度山荘の南に有る様です。

15丁西面

右岸より14丁を北東に見る

14丁を北西に見る

14丁

山荘も茶店も寄らず、トイレのみ済ませ、稲荷橋を渡り再び左岸(東)を進みます。橋迄は舗装道が続きますがここからようやく山道となります。橋の東詰めと少し山側に登って下る辺りの二ヶ所でハイキング道が合流する様ですが未調査です。15丁から120m程川原に下った道の右手(東)に14丁丁石が建ちます。西には小さな木橋が架かり山荘の方に続いているようです。
 14丁は15丁と丁数を除きほぼ同じです。丁石は本来このパターンで中間部分を統一するのですが、この二基と18丁をこの仲間としても三基しかないのは、不足分だけを立て直したものであろう。この時従来の意匠に囚われず作成したことが分かる。多分昭和も後半以降かと思う。

14丁の東の石垣に標高141.0mと書かれた石板が埋め込まれていた。

14丁東面

いよいよ山道

13丁下の現参道から左岸の廃道を見る、北は第2砂防ダム

13丁を北に見る

13丁

70m先に橋が架かり、正面に再度第2砂防ダムが見えます。多分旧参詣道は左岸を進むと思うが、砂防ダムで行止りであろう。橋を西に渡り、ジグザグに登り堰堤の西の一番高い辺り(地図上14丁から210m)を北向きに進んでいると正面に13丁丁石が見える。堰堤の手前になります。九十九折れになった道は階段でなく舗装された道で、高度を稼ぐ分距離は長くなっています。依って1丁(109m)の2倍程となり、丁石の機能は果たせません。多分元位置から遠くない所で設置に支障のない場所に移設したものと思われます。この時点で参道のお飾りと成ってしまうのは仕方ないでしょう。

13丁を過ぎると少し下ります。堰堤際に道を付ける事が出来ず、少し高い部分に付けた為でしょう。これも距離が長くなる理由です。「せっかく登ったのに!」と言いたいのは疲れてきたからです。

13丁を北西に見る

東面は大正5年製作の特徴

多々部堰堤への登り、右の橋は行止り

12丁

一度川近くまで下ると、中途半端な階段の登り道となり、山寄の石垣の基礎部のスロープ部分を歩く方が楽と思われます。前には高い堰堤があり、右手(東)には橋を渡り旧左岸道に続いている道が分岐している。但し「行止り」の札が立ち調査はしていません。

12丁を北に見る、後方は「一休亭」とあったが休業中か

堰堤上部迄登るとまるで門の様になっており、銘板を見ると「多々部堰堤」とあります。先のダム下の橋には「たたべはし」と有ったので同じ読みでしょう。門の様な堰堤を過ぎて20m程、13丁からは180mの右側(東)手摺の切れた地点に12丁が断崖を背にして西向きに建ちます。古い丁石では有り得ない位置に置かれています。これは山側の石垣に細工を加える労力を省くためと考えられる。

12丁は新しい額縁付き型

大きく西へ

この先は再度谷川に西から流れ込む支流が有る為、現在の道は大きく西に回り込み支流を渡った後東にに戻り再び再度谷川の本流に沿って北上する為、距離が著しく伸びている。元本流への流れ込み地点辺りに有ったものを単純に西にスライドさせた様な位置に11丁が置かれたと想像する。

再度第五橋南詰より11丁を北に見る

11丁を北に見る

11丁

12丁から一休亭の前を通り北へ60mで西に曲がり20mで小さな橋になり、これを北に折れ10m、都合100m弱再度第五橋の北詰の突当りに小さな祠に覆われて11丁丁石がある。
 11丁は大正五年製のタイプで、施主も前出の「愛子」さんである。この後にも出て来る名前で合計4基にもなる。

西面は「再度講員」

11丁、南面と東面

中間点

22丁、始点 3,447m

11丁、中間点 1,747m

0丁、終点 0m

22丁を出発点とするならここが中間点となり、現在の地図上距離1747m/3477m=0.50と中間点に相応しい。何か不審に思われないでしょうか?。参道距離が増えているにも関わらず真中が変わらないという事は、前後の距離を1丁にするのでは無く、全体を再配置したように感じます。

10丁を見て、右の本流左岸に渡る

10丁丁石左の支流に有る堰堤の板には標高190.3mとある。丁石は185m程度になるか。

10丁

11丁からは東へ戻り本流の沢の西岸(右岸)を北に進む。130m地点で小さな沢が北西から流れ込む所を本流の左岸に渡る橋があり、この手前の左(西)に10丁が南面して建つ。

丁は新しい額縁型

中地蔵を東に見る、残距離1,530m(14丁)

左岸道へ

10丁を後にして左岸に戻ると旧参道はズット左岸であった様に感じる。80mの右(東)側に古びたお堂が建ち「再度山中地蔵」とあり、参道からは「無縁萬霊塔」と書いた石碑が見えます。「中地蔵」の「中」が中間ではと気になり記しておきます。

9丁を北に見る。高さは48㎝しかない。

9丁

10丁から200m、この地点では又右岸に道が着いています。その右側(東、川より)にほとんど埋もれて「九」だけが見える石が有ります。9丁丁石とします。南面の「施主」や北面の「再」、座像の様式から大正五年製の一基と思われます。埋もれてとしたが、折れて下部が無いかも知れない。
 10丁から以降の石は、1.5~2丁の間隔で立っており、丁石の機能は果たさない。

9丁、西面

同、南面

8丁を北西に見る

8丁を北東に見る

8丁

9丁を過ぎると道は再度谷川に沿って大きく西に曲がり、川には北側から二本の支流が流れ込んでいて左岸の方が谷が広く感じられる。西への道は「再度山登山道第四橋」に至り、本流を北に渡ると正面に8丁丁石が建つ。地図上ではこの間173mとしたのですが、この記事を書こうとしてメモの歩測での距離を見ると換算値で80m(歩数は足の短さがバレルので書きません)しかない。この後の8丁までが多すぎるので書き間違えたと思う。更に念のためにGoogle mapのハードコピー(スクリーンショット)も此処だけ撮り忘れるという失態。

8丁丁石は新しい丁石の内、額縁型に分類できる。施主には黒い墨が入れられ、クッキリと残る事から建設時のままとするなら、30年以前には遡らないかも知れない。

8丁東面

施主には黒い墨が残る

8丁上の諭鶴羽ダムを西に見る

7丁を北西に見る。ダムから1丁の距離

7丁

8丁からは諭鶴羽砂防ダム上部に出る為、川の流れとは逆に一度東に登り、折り返して山腹を北に向かいます。丁石のすぐ上部を通過するのですが身を乗り出しても石は見えません。北に曲がり階段が終わると堰堤上部に出ると、竣工が昭和29年3月の標識があります。8丁からは160m地点の左側(西)の少し広くなって部分に7丁丁石が建っています。堰堤からは丁度1丁(109m)の距離になります。

7丁丁石も8丁と同じ系統で額縁付き型である。此方の施主の墨は薄くなっている。8丁と同時の作と思われるので、8丁の墨は後日の可能性が高い。が機械彫りの文字を考えると昭和後期辺りと思う。

7丁丁石の手前で北西から沢が合流しており、地形図ではどちらが再度谷川か分からなかった。取り敢えず猩々池に繋がる方を主流とします。参道もこれ沿いに進みます。

7丁、東面

北面、墨は無いか、薄い。

橋手前から北西を見る

右岸の6丁を北に見る

6丁

7丁から左岸をほぼ直線的に北に向かいます。140mに橋が架かり右岸に渡り、10mの右手(東)、柵の外側に6丁丁石と思われる小さな石が南面して建っている。木製風に加工されたコンクリート柵の陰になっていて非常に見難い。位置といい、向きといい、移設の安易さが気になります。又、背が51㎝と低い事から「六」より下は折れて失われていると思いますが六丁としました。

6丁丁石は、施主等から大正五年製の仲間です。

6丁?、南面

東面、「…主 神戸…」と読める

5丁か

6丁を出て40m程で左岸(東)に小橋を渡り、右手(南東)に小さな石が有ります。赤い前垂れが着けられていたので分かりました。高さが30㎝で座像しか見えませんが、「施」と「大正」が読み取れ、その他の雰囲気からも丁石と思われる。よってこれを5丁丁石としました。

小橋南から5丁?を北東に見る。右柵の後方、木の左に見える赤いもの

橋を渡って南東を見る。左端に5丁?

更に近づき、西面に座像

5丁丁石と断定する事は難しいが、位置的に問題は無く、大正製の一基とする。
 位置が左岸にあり、且つ、橋の袂でなく旧道跡を挟んだ如くに見える所に深く埋る事から、これが余り動いていない可能性がある。

西面下部、文字見えず

北面、「大正」

初日終了

残念ながら、一日目はここで時間切れとなり帰ることにしました。

二日目、開始

後日、5丁丁石?の後からスタートです。此処迄の道筋は前回と同じとし、スマホで位置修正を加えたGoogle マイマップを出した上で、該当丁石の前に立ち現在地表示を使って誤差を確認してきました。G.mapはオフライン状態ですが現在地は表示できる様です。どのようなプログラムか見てみたい(ワカランけど)。写真を撮るよりは手間が掛からないけど、アンドロイドのスクリーンショットのボタン(電源+音量小)が上手く押せないので結構時間がかかります。登山用の記録アプリを使うべきなのかもしれないが、会員登録が必要みたいで使いません。

5丁?の南下護岸中の標高257.1mの石標

今日はチョット余裕が有るからか、5丁丁石?の下、左岸石積み中の「標高257.1m」石板に気づきました。地図を見ると260mの等高線があり一致しています。22丁丁石が標高50mと思われるので、210m登った事になります。残り5丁で110mの勘定になるで今までよりもきつくなるのでしょう。

4丁を北東に見る

旧4丁

5丁丁石?から山裾を廻り込んでやや東に進み北に向きを変えた80m辺りの左手(西)に、4丁丁石が建ちます。50m程先には猩々池に登る階段が見え、少し怖気づくが、この丁石はそれを忘れさせます。

4丁を北に見る、上は猩々池の池堤

4丁を南西に見る、川筋は西に離れる

4丁丁石は明らかに今までの丁石(大正五年製、多分昭和製の二種)とは異なる様式です。つまり、尖頭型頭頂(ピラミッド状)になっています。南面の座像も小さく石も古い様にみえます。北面の汚れを取っていると紀年らしく「…和六十二…」と見えたので「昭和62年」か古く見えるなと思いつつ、写真を撮る為照明を工夫していると何んと、「明和六」年「十二月」と読むべきことが分かり納得しました。1769年の年末という事は250年も前のものです。何故か「年」が無い。
 こうなると、寛政八(1796)『攝津名所圖會』を参照するしかありません。「坂路一丁毎に標石を建てる」とされたその標石(丁石)の一つに間違いないでしょう。著者「秋里籬嶌」が見た?石だと思うと嬉しくなります。
 但しこの位置に有ったかどうかは疑問で、少なくともセメントが使われ始めて以降に移設された証拠が南面下部に残されている。この石のすぐ上にある「猩々池」の建設が「文化13(1817)年」と説明板にあり当時の地形とは著しく変わっていると思われ、この大工事に耐え、その後の工事も乗り切って残っています。現在地は川筋から東へ40m程離れています。

4丁南面、下部にセメント

同、東面、「明和六」

新4丁を北に見る、階段を上がり切り正面

4丁

4丁から猩々池の南堤防を階段で折返しながら登り70m、池南西部の広い四辻に出ます。東西の道は車が通れる林道かと思うが未調査です。広い辻の北東部が広場になっており、休憩用のベンチが置かれ、その西側にこれまた4丁丁石が有ります。銘等から大正五年製の仲間である事が分かります。下に明和六年の4丁が残っているのに同じ4丁を建てたと言う所が一つのミソです。

新4丁、南面

大正五年丁石を南に見る

丁石の再建に当っては遺失を補完する為でなく、参道付替えにより距離が変わる、位置が変わる事に起因する時、従来の丁石を残したままにし、新しく建立することは普通である。この丁石が大正五年製と思われる事から、新参道は池も避けなければならないし、この上部で旧来(明和)の道より長くなったと考えれば納得いくでしょう。但し、現在(2023)では大正五年当時の位置には無く移設である事は距離が一致しない事から明白である。0丁(目的地)からここまで740m(約7丁)もある。

東面、住所、氏名より大正五年製

猩々池

一休み代わりに、猩々池の周りの写真を載せておきます。

丁石後ろに猩々池、左に説明板

説明板拡大

池北端の「猩猩池碑」と左、解説板

3丁を北に見る、参道は右舗装路直進

新4丁丁石から北(池の西側)へ進みます、参詣道というより自動車道です。池北端の奥の「猩猩池碑」を過ぎ左岸に渡り、Cafe辺りまで続きますが、その手前、4丁から210m地点に資材置き場への進入口があり三ツ辻になっています。この北部に3丁丁石が建ちます。

3丁を北西に見る

旧3丁

3丁丁石は尖頭型でした。期待が高まります。

泥を落とし北東面を照らすと、4丁丁石と瓜二つの紀年銘が有りました。先に結果を書きますが、大正五年製の3丁丁石は見つけられなかった。この旧3丁丁石があった為、作る必要が無かったのかも知れません。しかし現在の位置では2丁丁石迄240mもあり、上下どちらからも遠すぎ、両者の中間あたりに持ってきただけの様に感じる。

3丁北東面、「明和六十二月」とある

3丁南東面

左、大龍寺0.5㎞、再度公園
右、大龍寺0.6㎞、善助茶屋

大師道18丁のヒント

3丁丁石から北東に舗装道を進みます。60m右手(東)に現在の木製風道標があり、舗装路を指して「善助茶屋0.3㎞、大龍寺0.5㎞」、右の細い階段道を指して「大龍寺0.6㎞」とあります。さて何方が参道でしょう?。

左、舗装道が2丁への道で正解です。右へ行くと大龍寺へは100mも遠回りになりますよ、でも300mに茶屋があるけどネ。300mは3丁弱になります。茶屋は大龍寺の境内ですか?。

つまらぬやり取りを書いてしまいましたが、この辺りに「坂路18丁…」の一つのヒントが隠されているのかも知れません。「シランけど」

2丁を北に見る

2丁右は道であったか

2丁

2丁丁石を見る為、舗装道を進みます。小さな橋で右岸に渡り、資材置き場入口、Cafe、鯰学舎?を過ぎると、地道になり参道の雰囲気になります。今までの様に谷筋でなく尾根筋に向かう様に見えます。
 3丁から240mで右(東)に迂回しすぐに西に折れる少し急な地点にぶつかります。迂回せずに直登しても良さそうに道らしきも見え、その左手(西)崖の途中に2丁丁石が建ちます。

2丁丁石は大正五年製のタイプです。

2丁南面

東面、施主の住所、氏名

1丁を北に見る、上は駐車場、左は再度越から修法ヶ原へ

1丁

2丁を見て、下側に戻り、右の階段を登ることにする。此処から上は尾根筋で明るい雰囲気になる。2丁から180mで北に石段、左に緩い道が分岐する三ツ辻となり、正面石段の右端に1丁丁石が建ちます。

1丁、北東(左)面、大正

1丁、北西(正)面

1丁、南西(右)面、施主

終点

1丁丁石は大正五年製系統の締めくくりの丁石になります。目標到達点(0丁)にはそれらしい石は存在しないようです。
 常々、丁石は最初と最後が変わっていると言っていますが、ここの丁石にあっては、「大正五年」が22丁と1丁に書かれている点がそれだとしています。ただ5丁?丁石にも「大正」がありこの点が気になっています。

1丁から、0丁地点、大龍寺の写真をもう一度載せておきます。

1丁から50m地点、仁王門

1丁から109m、0丁地点

1丁から150m、本堂

以上で「大師道」丁石は終了です。余裕があったので以前の道標の確認と共に奥ノ院へ行きました。

仁王門北の道標

この後、丁石でなく道標とすべきものが有り、前回なぜ見えなかったか反省しきりです。

仁王門をくぐり北西を見ると鳥居の右に大きな石がある

1丁から階段を登り50mで仁王門になり、これをくぐるとすぐに左(西)に分岐する道があり、鳥居が沢山続きます。この分岐点の北西部に大きな道標が有りました。前回も二度程この前を通っているのに見過ごした様であきれますが、今日は工事中でかえって気が付いたものと思う。

右奥、本堂へ

左指差しは道標の要件

弘法大師ハ奥ノ院に奉安

「大龍寺仁王門北の道標」と名前を付けましたが、大きすぎるのと、ゴチャゴチャと書かれた文字が、逆に案内を目立たなくしており、寄附の金額や名前が興を削ぎます。昭和九年の大師遠忌に因む建立と分かります。
 今回この石の案内先にある以前に取り上げた「大龍寺の道標」の案内先が「おかしい」のではとする疑問の解決に一役果たすかも知れない。結論だけを言いますと、「大龍寺の道標」が案内する「大師みち」は参道や本堂を示すものでは無く、奥ノ院を示しているとすれば矛盾しないことになります。

大正11年の道標

本堂前の道標

奥ノ院は後にして、取り敢えず本堂へ向います。もう一度0丁に大正五年の石碑が無い事も確認する為もあります。丁石の締めとなる石はやはり見つかりません。本道へ進みました。
 本道の右側に「本堂前の道標」が建っています。墨が綺麗に入っており新しいものと思っていましたが、今日裏面を見ると、「大正十一年」とあり取り上げる事にしました。(私の採択基準としては昭和25(1950)年頃迄)
 更に右横に矢印で奥の院を案内する石があるが、百万円とあり昭和も後半と見て無視します。

無視した道標

奥院へは「子安」の西から登ると見え、東側にはなさそう

本堂西からの奥ノ院道か、左図の「いなり」

案内に従い右(東)へ向いますが、その前に『攝津名所圖會』に描かれる「子安」横の道を探します。(鐘楼下の上に述べた「大龍寺の道標」から西に登る道は後述する)本堂すぐ西を探した結果、「権倉稲荷大明神」の鳥居の南に道らしきものが有り、登る事は出来るが、下りは無理そうなので止めました。これは左図の「いなり」横の道に思える。

奥ノ院の道標

本堂前道標に戻り、東(右)へ歩測しながら進みます。歩測で230m、地理院地図でも230mで本堂境内に出ます。2丁有った事になり、丁石としては不可ですが、道標ならいいでしょう。短く表現するのは何時もの事としましょう。

奥ノ院を北に見る
右(東)横に道標

奥ノ院右(東)横に「大龍寺奥ノ院の道標」が有りました。「右一丁…亀石」と有り、大正15年の銘があり、取り上げました。亀石までの距離を確認したいのですが時間がないのでここで止めました。

観光用か

奥ノ院西参道の下り口

左(西)ブロック二段が稲荷横の道らしき部分、上部石祠に続くか

奥ノ院西参詣道

奥ノ院への西側からの参道をチェックする為、西に降ります。『攝津名所圖會』の本堂西に有る「子安」に出る道を探します。結果、見つかりません。西への道は何度も折り返しを重ね、一度、現再度越に合流した後すぐに分かれ、鐘楼下(地図上320m)「大龍寺の道標」に出た後、階段を上がれば本堂、下れば「大龍寺仁王門北の道標」に着き、名所図会とは一致しないようです。尚、再度越に合流する直前をショートカットすると上に書いた「権倉稲荷大明神」に出ることが出来そうだが、危ないので止めた。このルートなら70m程短くなりそうであるがやはり2丁は越える。

再度越との合流点を南東に見る

大龍寺の道標を北に見る

以上