中央区大師道の丁石
2023/3/27 作成。
参考程度に
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始めに
長く放っておいた「大師道」の丁石を全て見てきました。道標調査時に下部と上部の数基は見ていたが途中は投げ出したままにしていました。何せ22丁もあるらしいので、時間が掛るのは必至であり、行先も道標の様に無く面白くない(本当はしんどい)から後回しになりました。1日では回り切れず、別の用件も出てきて延3日掛かりました。
地図上で3,477m(高低差319m)、22丁(4丁が重複し23基)で割ると158m間隔となり、丁石が不足状態。
大師道の丁石を明治の地図に書き込んだもの。
又、幾つか新しい知見も得られたので合わせて載せておきます。
一つは、立像に(十)八丁とある石は、丁石でなく道標であろうこと。もう一つは丁石の建立年代がかなり古い物が混じっていた点、更に道標が三基見つかった事である。詳細は後程とし、参詣の体で順番に見ていきましょう。尚、丁石の詳細については「大師道丁石一覧」を参照下さい。
18丁の道標
北に向け歩きます。130m程先の右手(東)、民家の北側に空地がありその北端に崖を背にして小さな祠があります。前面の格子戸には鍵が掛けられ中が見難いですが是非のぞきましょう。
残念な事にまだ難関があります。赤い前垂れが厳重に案内を隠します。毎度のことながらガッカリし去ることになりますが、確認出来た範囲では立像型の道標であろうと思われ、正面(南)に多分「是より(再度山へ)/(十)八丁/(為、或いは施主…)丘代」とあり、左面には建立年と思われる「宝暦(1751~1762年)」が見える気がします。
是非とも固定式の鍵のかかる賽銭箱にし、裾の短い前垂れにされることを祈り、且つ今日の安全も欲張って祈り後にしました。通りがかりの方に聞くと以前は鍵がなくよく盗難にあい仕方なくとの事で、運よくお手入れの時に当れば見せて頂けるかもとの事でしたが、5回ほどは来ているが一度も出会えずにいます。
何故22丁の次に18丁なのでしょうか。少し先走りますが21丁がこの先に有り、間に18が有るのはおかしく、移設されたものでしょうか。この問いに関して私なりの答えを載せておきます。『攝津名所圖會』寛政8-10 (1796-1798)年出版に大龍寺の説明に「宇治野村上方十八町にあり、坂路壹町毎に標石を建る…」とある事を見れば、当時大龍寺を案内するには「十八丁」が決まり文句であり、丁石の様に距離をピタリと合わせる必要は無かったとしたい。但し、明治の地図からするとこの地点では無く60m程北の三ツ辻(山手大学4号館北の細道が川を越えた)辺りからの移設と考えています。
20丁
東上には女子校が有る様で、学生さんがよく通ります。どのように見えているか気になる所ですが、関わりたくないと思っているでしょう。が年配の登山者は違います。21丁から140mの右側(東)の新しい「20丁」を写真に撮っていると、「何をされているのですか?」と優しい問いかけです。趣味で見て回っていますと答えると、この石は「学校関係者の方が再建された」ような事を教えて頂いた。何時の事かは分からないようでしたが石を見る限り昭和の後半以降と思われます。
新しい丁石には2種類が有る様で、正面に額縁の様な枠を設け文字面をワザと粗く仕上げたものと、正面がツルツルのものに分ける事が出来ます。何方が古いかは区別出来ませんが、前者の方が値段は高い様に思います。
この20丁は「高い」方の仕上げで、以降、額縁型と呼ぶ。
17丁
この17丁丁石は大正五年製の一連(十三基)の特徴を持ち、施主が完全に見えるものである。住所と姓名が書かれており「神戸布引町四丁目、和田美子、再度(講員)」とあり、前述の19丁もこれと同じと思われる。この町名は現在でも中央区にあり、神戸市デジタルアーカイブの大正四年「神戸市古今対照地図」で見ると現在と同じと思われ、三ノ宮駅北のフラワーロード東側の非常に狭い地域に限定できる。同姓の石が複数ある事から一家或いは親族の手によるものであろう。尚、住所、氏名、紀年、講名の四つ全てを持つものは「一丁」丁石のみである。
ここで山から下りてこられた方々が「これはよく見るが何ですか?」と、丁石の概要を説明し此処に「…美子」とありますと言うと、「なるほどそう言われれば、そうとしか見えない。」と一しきり談笑しました。この様な石は「何時も見ていても興味の対象にはならない」と思うと共に、残りの距離が1丁毎に減り目的地に近付く事を喜ぶ程険しい参道では無い為かもと考える。
16丁
17丁東、路地突当りの歌碑の様な石をチラ見し次を目指します。大きく西に曲がり100m程で又北に向きます。150m程の間隔に成りますが16丁丁石が有るはず?。下調べでは「民家の陰」と分かっていたので見逃しません。廃屋ではないと思うが、右手(東)崖下に南に崩れかけたトタン塀を屋根代わりに、これが幸いして綺麗な16丁丁石が建っています。
16丁丁石、保存には良いのだが如何せん東面と北面が読めない。東面は何とか体(頭)を入れて見るが何も無く、北面は書かれていそうな気がするがほとんど見えず、南面の施主により、大正5年製の仲間とした。こちらは「愛子」さんとある。「美子」さんとは御姉妹でしょうか。
14丁
山荘も茶店も寄らず、トイレのみ済ませ、稲荷橋を渡り再び左岸(東)を進みます。橋迄は舗装道が続きますがここからようやく山道となります。橋の東詰めと少し山側に登って下る辺りの二ヶ所でハイキング道が合流する様ですが未調査です。15丁から120m程川原に下った道の右手(東)に14丁丁石が建ちます。西には小さな木橋が架かり山荘の方に続いているようです。
14丁は15丁と丁数を除きほぼ同じです。丁石は本来このパターンで中間部分を統一するのですが、この二基と18丁をこの仲間としても三基しかないのは、不足分だけを立て直したものであろう。この時従来の意匠に囚われず作成したことが分かる。多分昭和も後半以降かと思う。
14丁の東の石垣に標高141.0mと書かれた石板が埋め込まれていた。
13丁
70m先に橋が架かり、正面に再度第2砂防ダムが見えます。多分旧参詣道は左岸を進むと思うが、砂防ダムで行止りであろう。橋を西に渡り、ジグザグに登り堰堤の西の一番高い辺り(地図上14丁から210m)を北向きに進んでいると正面に13丁丁石が見える。堰堤の手前になります。九十九折れになった道は階段でなく舗装された道で、高度を稼ぐ分距離は長くなっています。依って1丁(109m)の2倍程となり、丁石の機能は果たせません。多分元位置から遠くない所で設置に支障のない場所に移設したものと思われます。この時点で参道のお飾りと成ってしまうのは仕方ないでしょう。
13丁を過ぎると少し下ります。堰堤際に道を付ける事が出来ず、少し高い部分に付けた為でしょう。これも距離が長くなる理由です。「せっかく登ったのに!」と言いたいのは疲れてきたからです。
大きく西へ
この先は再度谷川に西から流れ込む支流が有る為、現在の道は大きく西に回り込み支流を渡った後東にに戻り再び再度谷川の本流に沿って北上する為、距離が著しく伸びている。元本流への流れ込み地点辺りに有ったものを単純に西にスライドさせた様な位置に11丁が置かれたと想像する。
中間点
22丁を出発点とするならここが中間点となり、現在の地図上距離1747m/3477m=0.50と中間点に相応しい。何か不審に思われないでしょうか?。参道距離が増えているにも関わらず真中が変わらないという事は、前後の距離を1丁にするのでは無く、全体を再配置したように感じます。
8丁
9丁を過ぎると道は再度谷川に沿って大きく西に曲がり、川には北側から二本の支流が流れ込んでいて左岸の方が谷が広く感じられる。西への道は「再度山登山道第四橋」に至り、本流を北に渡ると正面に8丁丁石が建つ。地図上ではこの間173mとしたのですが、この記事を書こうとしてメモの歩測での距離を見ると換算値で80m(歩数は足の短さがバレルので書きません)しかない。この後の8丁までが多すぎるので書き間違えたと思う。更に念のためにGoogle mapのハードコピー(スクリーンショット)も此処だけ撮り忘れるという失態。
8丁丁石は新しい丁石の内、額縁型に分類できる。施主には黒い墨が入れられ、クッキリと残る事から建設時のままとするなら、30年以前には遡らないかも知れない。
7丁
8丁からは諭鶴羽砂防ダム上部に出る為、川の流れとは逆に一度東に登り、折り返して山腹を北に向かいます。丁石のすぐ上部を通過するのですが身を乗り出しても石は見えません。北に曲がり階段が終わると堰堤上部に出ると、竣工が昭和29年3月の標識があります。8丁からは160m地点の左側(西)の少し広くなって部分に7丁丁石が建っています。堰堤からは丁度1丁(109m)の距離になります。
7丁丁石も8丁と同じ系統で額縁付き型である。此方の施主の墨は薄くなっている。8丁と同時の作と思われるので、8丁の墨は後日の可能性が高い。が機械彫りの文字を考えると昭和後期辺りと思う。
7丁丁石の手前で北西から沢が合流しており、地形図ではどちらが再度谷川か分からなかった。取り敢えず猩々池に繋がる方を主流とします。参道もこれ沿いに進みます。
5丁か
6丁を出て40m程で左岸(東)に小橋を渡り、右手(南東)に小さな石が有ります。赤い前垂れが着けられていたので分かりました。高さが30㎝で座像しか見えませんが、「施」と「大正」が読み取れ、その他の雰囲気からも丁石と思われる。よってこれを5丁丁石としました。
初日終了
残念ながら、一日目はここで時間切れとなり帰ることにしました。
二日目、開始
後日、5丁丁石?の後からスタートです。此処迄の道筋は前回と同じとし、スマホで位置修正を加えたGoogle マイマップを出した上で、該当丁石の前に立ち現在地表示を使って誤差を確認してきました。G.mapはオフライン状態ですが現在地は表示できる様です。どのようなプログラムか見てみたい(ワカランけど)。写真を撮るよりは手間が掛からないけど、アンドロイドのスクリーンショットのボタン(電源+音量小)が上手く押せないので結構時間がかかります。登山用の記録アプリを使うべきなのかもしれないが、会員登録が必要みたいで使いません。
4丁丁石は明らかに今までの丁石(大正五年製、多分昭和製の二種)とは異なる様式です。つまり、尖頭型頭頂(ピラミッド状)になっています。南面の座像も小さく石も古い様にみえます。北面の汚れを取っていると紀年らしく「…和六十二…」と見えたので「昭和62年」か古く見えるなと思いつつ、写真を撮る為照明を工夫していると何んと、「明和六」年「十二月」と読むべきことが分かり納得しました。1769年の年末という事は250年も前のものです。何故か「年」が無い。
こうなると、寛政八(1796)年の『攝津名所圖會』を参照するしかありません。「坂路一丁毎に標石を建てる」とされたその標石(丁石)の一つに間違いないでしょう。著者「秋里籬嶌」が見た?石だと思うと嬉しくなります。
但しこの位置に有ったかどうかは疑問で、少なくともセメントが使われ始めて以降に移設された証拠が南面下部に残されている。この石のすぐ上にある「猩々池」の建設が「文化13(1817)年」と説明板にあり当時の地形とは著しく変わっていると思われ、この大工事に耐え、その後の工事も乗り切って残っています。現在地は川筋から東へ40m程離れています。
猩々池
一休み代わりに、猩々池の周りの写真を載せておきます。
つまらぬやり取りを書いてしまいましたが、この辺りに「坂路18丁…」の一つのヒントが隠されているのかも知れません。「シランけど」
終点
1丁丁石は大正五年製系統の締めくくりの丁石になります。目標到達点(0丁)にはそれらしい石は存在しないようです。
常々、丁石は最初と最後が変わっていると言っていますが、ここの丁石にあっては、「大正五年」が22丁と1丁に書かれている点がそれだとしています。ただ5丁?丁石にも「大正」がありこの点が気になっています。
1丁から、0丁地点、大龍寺の写真をもう一度載せておきます。
以上で「大師道」丁石は終了です。余裕があったので以前の道標の確認と共に奥ノ院へ行きました。
仁王門北の道標
この後、丁石でなく道標とすべきものが有り、前回なぜ見えなかったか反省しきりです。
「大龍寺仁王門北の道標」と名前を付けましたが、大きすぎるのと、ゴチャゴチャと書かれた文字が、逆に案内を目立たなくしており、寄附の金額や名前が興を削ぎます。昭和九年の大師遠忌に因む建立と分かります。
今回この石の案内先にある以前に取り上げた「大龍寺の道標」の案内先が「おかしい」のではとする疑問の解決に一役果たすかも知れない。結論だけを言いますと、「大龍寺の道標」が案内する「大師みち」は参道や本堂を示すものでは無く、奥ノ院を示しているとすれば矛盾しないことになります。
本堂前の道標
奥ノ院は後にして、取り敢えず本堂へ向います。もう一度0丁に大正五年の石碑が無い事も確認する為もあります。丁石の締めとなる石はやはり見つかりません。本道へ進みました。
本道の右側に「本堂前の道標」が建っています。墨が綺麗に入っており新しいものと思っていましたが、今日裏面を見ると、「大正十一年」とあり取り上げる事にしました。(私の採択基準としては昭和25(1950)年頃迄)
更に右横に矢印で奥の院を案内する石があるが、百万円とあり昭和も後半と見て無視します。
奥ノ院の道標
本堂前道標に戻り、東(右)へ歩測しながら進みます。歩測で230m、地理院地図でも230mで本堂境内に出ます。2丁有った事になり、丁石としては不可ですが、道標ならいいでしょう。短く表現するのは何時もの事としましょう。
奥ノ院右(東)横に「大龍寺奥ノ院の道標」が有りました。「右一丁…亀石」と有り、大正15年の銘があり、取り上げました。亀石までの距離を確認したいのですが時間がないのでここで止めました。
奥ノ院西参詣道
奥ノ院への西側からの参道をチェックする為、西に降ります。『攝津名所圖會』の本堂西に有る「子安」に出る道を探します。結果、見つかりません。西への道は何度も折り返しを重ね、一度、現再度越に合流した後すぐに分かれ、鐘楼下(地図上320m)「大龍寺の道標」に出た後、階段を上がれば本堂、下れば「大龍寺仁王門北の道標」に着き、名所図会とは一致しないようです。尚、再度越に合流する直前をショートカットすると上に書いた、「権倉稲荷大明神」に出ることが出来そうだが、危ないので止めた。このルートなら70m程短くなりそうであるがやはり2丁は越える。
以上