宝塚

信徒館南の展望台から南を望む。常夜燈道標に成っている。

宝塚ってステキですね

宝塚と聞けば、第一に思い浮かぶのは歌劇の町でしょうか、私は「ファミリーランド」ですが。 それはさておき、結構広い市で阪急の宝塚駅を中心に考えた場合は、東の川西市境の雲雀ヶ丘までも5km以上あり、南仁川まで4km、北は上佐曽利の中心部でさえ15km程か、北端に至っては更に2~3kmあろうかと思う。西の小林山中の塩尾寺、宝塚西高辺りはよく知りません。
宝塚の地名は新しく今の中心地は近世には川辺郡安場村と武庫郡川面村辺りと思われます。
それでは、南東部を東西に走る「巡礼道」から見てみよう。

巡礼道とは。
西国三十三箇所を廻る道筋から名付けられたものと思う。この辺りでは茨木市の総持寺、箕面市の勝尾寺、宝塚市の中山寺、番外とされる三田市の花山院がそれらであると思うが、この他、満願寺、売布神社、清荒神、もありこれらを長尾山系の山際に沿って結んでおり、このように命名されたのであろう。道筋は阪急宝塚線沿いと考えてください。巡礼の旅をどのように廻ったかよく知らないが、市域の東から進む事にしよう。

中央、小浜資料館の道標

ほぼ知る人のない道標ハイキング道からもはずれる

丹波道との辻

川西能勢口方面からR176を西に来てJR川西池田を過ぎ、右(北)から阪急電車車庫への引き込み線が高架で国道をまたぐ地点から宝塚市平井となるようです。高架をくぐってすぐの四辻「平井車庫前」を南北に通る道が「丹波道」です。誰が注目する道でもないのですが、南に行けば「小浜資料館2/4(中央)の道標」の元位置、北に行けば知る人はほぼいない「長尾山最明寺滝東の道標」が有り、少なくとも伊丹から丹波に続く近世には重要な道であったでしょう。

巡礼道は「平井車庫前」四辻から240mの三ツ辻を右(北より)に分かれます。阪急宝塚線を越えて左(西、車不可)に折れて20m坂を上った右手(北側)に民家があり、東側民家との間に巾1m程の道が通っています。その西側民家の駐車場に二基の道標が有り、明治の「平井2の道標」と、もう一基は多分地面に埋没していると思われます。左線路沿いの道が巡礼道と思われますが、右の1m幅の道も公道では無いでしょうか、抜けていくと「大宝寺門前地蔵台座の道標」の南から最明寺滝へのハイキングとなり楽しい道ですが、今は進みません。

阪急沿いに、巡礼道を進みます。線路のすぐ北側ですが、線路より高くアップダウンが少しあります。山本駅の北側を通り抜け最明寺川を越えると三叉路に突当ります。正面に「木接太夫碑」が見えますが、入口右手前に小さな「木接太夫碑前の道標」が有ります。「右、中山」とあり巡礼道は右に違いないでしょう。西に巡礼街道の解説板があります。

山本村内では四基の道標が連続します。それほど曲がっているという事です。東から順に

130m西に進み
西向き撮影、写真左端

同じ辻5m西に
カーブミラーの右下

北に20m電柱下
左下は、左記道標

西へ80m
西向き撮影、写真左

地蔵堂北の道標で三ツ辻を北に折れ、正面の小さな橋は「松尾神社」へとなり中山寺には行けない。綺麗な神社ですが時間が無ければ橋を渡らず左(西)に川沿いに進みます。ここにも案内が欲しい所です。道なりに少しづつ登っていきますと右手の駐車場(グランド)かを過ぎると、440mで車が頻繁に通る四辻に出ます。右斜め前が正念寺の山門となっています。この山門の左に一基と境内の地蔵立像の台石が道標であろうとされている。

正念寺山門南横

「右ハ山本常念佛寺之道」
「左ハ中山道是ヨリ五丁アリ」とある。

本堂前の少し西側

立像下部台石の東()面に
「左中山是よ里(六丁)」とあるらしい
実距離は地図上で10丁(1.1km)ある。

正念寺を出て西に向かいます。200m右手に天満神社、天神川を渡り寺から400mに又、自動車の多く通過する四辻が有ります。よく見ると五ツ辻の右手前(北西部)に植込みが有り題目が書かれた大きな石の西側に半分ほどの大きさの道標があります。南の妙玄寺から元位置に移設したらしいが、復元時に向きを誤ったようで、左に90度回す必要があると思う。今のままでは中山寺は五月台にある事になりそうです。

道標(左)を北向きに望む

五ツ辻を南に望む
巡礼道は左(東)から
右(西)、中山寺へ

「まっすぐ(北)」進むと中山五月台になり、近世では山越えして若宮か鳥脇に出たかもしれないが、中山寺には行けない。奥ノ院も無理と思います。

中山寺へ

上の中筋の五つ辻の道標を西へ700m西国二十四番札所中山寺山門前に到着です。駅の東で線路側に向かわず、北の山側に進む道が旧道であると思いますが、駅前から廻る方が土産物屋さんがあり楽しいかも知れません。
山門南には道標が二基並びます。山門を北に入ってすぐ東側の華蔵院境内にも「永正十四(1517)年」「天和三(1684)年」二つの紀年を持つ道標があり、その他にも信徒館前、梅林内と飽きる事が無い。又、これに奥ノ院までの丁石を加えるとここだけで1日は暮れてしまいそうです。

右端が奥ノ院
信徒館西は「十八丁」とする

言い忘れましたが、ここまでは「中山寺」を案内する道標を追いかけていましたが、山門前の東側の道標は「右 菩提寺 花山院道 五里半」「清水江通りぬけち可道あり」と次の巡礼地を示しています。この案内を見る限り、三十三所巡りは「逆打ち」し二十五番札所の清水寺(加東市)の前に番外の花山院(三田市)を訪ねることが多かったのでしょう。
右の写真は左端に「清水江通りぬけち…」と小さく見える。花山院へが先になるので大きく中央に書かれていると思います。

巡礼街道を少し。
明治44年の地図には「順禮街道」と川西市寺畑の西から中山寺の東にかけて二ヶ所に書かれていますが、昭和7年地図には表現されていない。宝塚市のhPには同市に入って中山寺迄と、これより西は清荒神への道に色を付けるだけで明確には表現されていない。此処では総持寺から勝尾寺、中山寺、花山院、清水寺をつなぐ、近世の道を勝手に想像して呼んでいるだけである。近世には道全体に名前を付け「XX街道」と表現することは考えにくく、道標の「XX道」は「XX」への最適コースを示していたのでしょう。

2023年9月、追記
記載漏れ道標一基と、山門前東側の道標の東面歌の読み下しに関して追加しました。別項としています。

西、清荒神から六軒茶屋へ

中山寺を西に進みます。山門から40mでY字路になります。多分左(南ヨリ)が巡礼街道と思います。ここと、分かれてすぐ駐車場の西に「中山寺遙拝所」なる看板が有りその横に大正以降の道標があります。Y字路を右(北ヨリ)に進むと160m先に三ツ辻があり、奥ノ院へはこれを右折(北)するのですが、辻北西角が市杵島姫神社に成っています。境内東端に西宮市苦楽園五番町辺りから持ってきたと思われる道標があります。Y字路のどちらを進んでも先で同じ道に成り西に進みます。大きな菰(コモ)池の南を過ぎ南西角四ツ辻の西30mに三ツ辻が有ります。北へは売布神社への近道です。(古くは清荒神への近道でもあった。)
この三ツ辻北西部に二基と北に分かれてすぐ西へ曲がる左側に一基の道標があり、いずれも清荒神を案内している。売布神社は人気がないのか案合いにありません。ただし、今この道標を信じ北折れすると、清荒神には道なりでは行けず、売布小学校に入り込んでしまいます。その時は構内中庭にある二基の道標を見学していきましょう。昭和42年地図では池の南を通り近道であったようだ。

奥が池西の三ツ辻
手前は四辻、左駅へ

西、売布神社鳥居へ

菰池西の三基の道標の中で施主に「なだ 若林嘉兵衛」とするものがあるが、この人が建てたと思われる道標が市内に五基もあるが他市には見られないようで、よくある、自分の所から参詣地まで順に案内するためのものでは無さそうで、少しまとめてみた私の出した結論では宣伝の上手方ではないかと思うのですが。

渡り廊下を介右(北)を見る。
手前が小(嘉兵衛の)道標

反対に南を見る。
大道標に「左、中山」

今では少し外れるが。
道に迷った体で小学校の道標を見てみましょう。正門を入って右の体育館西側を北に入り、正面の長い校舎に突当り左(西)に曲がり渡り廊下を越えた北側の水盤の手前に二基並んで建ちます。いずれも移設されたのでしょうが、学校建設にともない近くから持ってきたと思います。

売布神社のひけらかし。
売布神社の本社右に「賣布神社」と記した石標があり「元文元丙辰(1736)歳十二月日 布社石碑之覚 摂州河辺郡米谷村」なる資料に建築の経緯が書かれており、宝塚図書館の『源右衛門蔵』22号で見ることが出来ます。この中には有名な「大岡越前守」が見えたり、五畿内志で有名な「並河誠所」が并川五市郎として登場するなど、歴史好きにはたまらないと思います。米谷村の住民にとっては慣れ親しんだ「貴布祢」が変えられたり、大坂西横堀の石屋まで受取りに行かされるなど随分迷惑であったものかも知れない。又「右は当村氏神御本社但シ南向拝殿之前壱丈弐尺(3.6m)除ケ、…重テ所替等不仕、…」と細かく指図した通り、現在もその距離に置かれている。

売布神社石標(右端)

やや左の植木中
左(西)清荒神へ

清荒神へは学校正門を出て左へ登り学校の北から中国縦貫を越えても良いが、ここは売布神社をお参り(80段ほど登る)した後、南へ参道を下り巡礼街道に戻るとします。突当ったら右(西)に進みます。中国縦貫をくぐった140m地点に四辻があり、北西部には大きなお屋敷(橋本関雪別邸)があります。これを直進し150m進むと筋違いの四辻に突当ります。右(北)手は一段高く大きな墓地になっています。巡礼道は筋違い四辻を西に進むのですが、この辻の北5m程の左手石垣の上のカイヅカイブキに埋る道標があるが、ほぼ見えない。元は辻に有ったのでしょうがここに避難しているのでしょう。「すぐ、中山」と、裏面に「すぐ、きよ水、ありま」とがあるらしい。

若林嘉兵衛の道標
右奥から背後へ進む

現案内の清荒神は北(奥)を指すように見える

南にズレて西へ道なりに130m、三角池の南西端に筋違いの四辻(或いは五つ辻か)の西部に石垣を背にして建つ。「若林嘉兵衛」の道標である。移設や向きに変更がなければ、清荒神へはここで巡礼道を離れることとなるが宝塚市の見解(向かいの案内)では清荒神への道を巡礼街道としているようです。

八坂神社南西角
右から左へ

ここは取り敢えず有馬道との合流点を目指し真っすぐ進む(南西)事にしましょう。100mほど行くと少し下りになって右に八坂神社があり、その裾を廻り北西へと向きを変えます。八坂神社の入り口から100mで大きな道に出会う三ツ辻となり正面の公園前に今風の「巡礼街道」の案内があります。それには右が「売布神社」と成っているので、今、通って来た道と受取る事も出来そうだが分かりません。そこを左へ廻り込みなが一気に下り突当り三ツ辻が有馬道となります。辻の北西部ブロック塀の前に自然石の道標が有ります。

右端、公園前案内
左から奥へ下る

左右が有馬道、奥へ急坂の巡礼道

この道標には方向が明記されていません。即ち向いている面が重要になるのですが、果たして今の向きで右、坂の上に上がり「中山」と理解できるでしょうか。元は上への道に対して直角に置かれていたような気がする。今のままでは米谷(伊丹、神崎)方面から来た人にしか見えないがそちらから中山へ向う人はこの辻を利用しないであろ。むしろ西から来る人に左(北東)が中山寺への巡礼道ですよと教えていたとしたい。
今の住所は清荒神3丁目となっているが、明治の地図では六軒茶屋となっており、休憩や宿泊地点だったかもしれない。

巡礼道のこの先が面白いのですが、有馬街道に合流したので宝塚東部の巡礼道はここで一度置きます。