神南邊(2)
1.始めに
神南邊の続きです。
前回の失敗を取り戻すために二回目の調査です。長尾街道の二件と、竹内街道の残り5件の順に廻ります。堺を経由せず阿倍野から国道25号で加美、南に折れ長吉長原で大和川を渡り松原をかすめて、藤井寺市の葛井寺門前を目指します。途中の迷い道や古墳立ち寄りの話は割愛し、藤井寺駅の北側に出て東寄りの踏切を渡ると見覚えのある商店街に入りました。
商店街を突き抜けると左(東)に葛井寺の山門がありますが、ここから入らずに南に回り込みます。山門を過ぎ90mで東に折れ60mで南大門に着きますが、探しているのは反対側の道標です。やはり見逃していました。普通に見ればすぐに気が付く位置にあるのに、前回は「百度石」との誤解から境内の方へばかり注意を取られていた為見えなかったとし、決して歳のせいではない事にする。
慌てて写真を撮りに掛かり、「神南邊」を見つけると、ヘラヘラと笑っていたと思います。何時もなら道標の案内先と向きを一番にチェックするのですが、今日は紀年と名前と字体と施主の確認が第一です。理由は紀年銘のない道標の建立年の手掛かりを集める為ですが、これは改めて別の所で述べる事にします。取り敢えず今日は報告のみです。
南門前の三ツ辻(山門へを道とするなら四辻)の南東部に基部をセメントで固められ建っていますが、見映を考えて枠石を打ち中に玉石を敷いてあります。商店の前でもあり妥当なところと思いますが、風情はありません。
葛井寺を国立公文書館の『河内名所図会』享和元(1801)年で見ると、現在の地形と変わる様子がないが、さすがにこの道標は書かれておらず(2~30年前)茶店の幡が翻るのみである。
永い間放っておいたので続きが書けるか心配ですが、始めます。ここで書かれている字に注目すると。字体は今で言う楷書で、「辺」の字を「邉」としているようです。別項でまとめますがこの字を注意しておいてください。
3.道明寺へ
次の目的地に向かいます。道明寺天満宮ですが、前回来た時とは逆向きに東に進みます。すぐの突当りは南に鍵型に折れた後は一本道だと思っていましたが、500mを過ぎてT字路に突当りました。「左右通り抜け出来ません」の看板に驚きつつも10m南に路地を見つけこれを抜けます。そのまま道なりに東へ進むと道とは思えない様な所も通り大きな立体交差のある道に突当り、頭を打ちそうな桁下を潜り抜けると西名阪の下部の側道にでます。この側道を行けば良かったようなのですが、東に突き切ってしまい仲津山古墳に出てしまいました。おかげで陵の写真を撮る事が出来ましたが遠回りになったようです。古墳は前方後円墳で、前方の縁に沿って南東に向かいますが次の五辻で東折れします。五辻から300mで旧170号に突当り、南側の筋違い四辻となっている道明寺交差点を東に折れれば130mの東高野街道を越え、その後100mで道明寺天満宮の階段下に到着です。
ここから、「道明寺天満宮神門東の社標」の石探しがはじまります。階段下から法面を東に見ていきますが、関係の無い石は見つかるのですが肝心の石が見つかりません、東の駐車場に登る道迄探したが有りません。キット撤去されたものかと諦め、夏水井(げすいのい)の写真だけでも撮っておくかと、斜面を登り帰りに右手樹木手前に常夜灯が立ち何か書いていないかと近づいた所、その東側南天の木に隠れる石に気が付きました。探していた石です。
4.天満宮の社標
こちらも、字体は今で言う楷書で、「辺」の字を「邉」としているようです。
本来ならよく見える様に周辺のお掃除をするのですが、多分境内と思われるので、出来ません。南天をかき分け撮る事しか出来ず全体が見える写真はありません。悪しからず。
(施主や発起人の文字がない。紀年銘も無い。「泉州堺神南邉大…」とあり、「邊」や「辺」でなく「邉」を用いる。「大」の下に「道心」とあるらしいが確認出来なかった。多分間違いないと思う。
次に「百度石」を探しにいきます。こちらは目立つ場所に有るはずです。又、置かれる場所もほぼ見当が付きます。
道明寺天満宮の百度石
歩きの場合には階段を北に登るが、車なら東に迂回し参道東の駐車場に止める事になると思う。参道を拝殿(神楽殿)に向け進み石の鳥居を過ぎると、右手(東)に銅の牛が寝そべり、その北には「さざれ石」、更にその北東に大きな(高い)石があり、想像していた百度石を越えていて驚きました。神南邊の建てた石はそこそこ大きな石が多いのですが、この石はずば抜けて背が高い。何時ものように最後に大きさを測ると、236x31x32㎝(頂高約12㎝、基部6㎝高さに含まず)も有りました。
先ずは、各面の記述の確認です。拝殿とこの石の間を百度往復するのが目的ですから、北面に「百度石」とし他には書かれていません。大きくても同じ様式です。南面が裏面となりこちらに施主等を書くことが一般的で「施主泉州堺 神南邊隆光」と楷書で書かれています。発起人で無い事は自身がお金を出したのでしょう。東面に「文政十丁亥年三月」とあり、西暦1827年の3月末以降に建てられたとなり、ゆかりの梅も散るどころか、桜も終わっていたかも知れません。
西面を見ると、読めない字が沢山かかれています。帰ってから辞書をたよりに読み下したものを挙げておきます。
『こ古路多仁 満古登乃道尓 か那飛な盤
いのら壽とて无 神やまも良ん
少納言菅原為定書
落款 落款』
(心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神やまもらん)としました。200年前の平仮名が読めない事を恥じ入るばかりです。尚、web上に菅原為定を「江戸後期の公卿。従二位権中納言に至る。文久二年(1862)59才で没。」 からすると、24歳ころの書になりそうです。
7.古市へ向うが
気を良くして次に向かいます。西の東高野街道に戻り南下すれば良かったのですが、助平根性で階段下から南に向かいます。おかげで道標を見つける事が出来ましたが、写真だけ撮って先を急ぎます。左(東)への案内がある様なのでそちらに向かうが、石川に出てしまいそうなので、道明寺南小学校の所で南に折れると、これが南に向かわず西へ西へと進み結局東高野街道に戻ってしまった。西名阪を潜り南下するとR170に吸収され結局は国道を南下する。木造の常夜灯の横の誉田八幡宮とある矢印標識を見て、逆方向の南に分岐した。これが旧東高野街道の続きであった様で、道なりに「蓑の辻の道標」に到達した。
「西琳寺前の道標」と「蓑の辻道標」の写真を少し撮り直して、蓑の辻から竹内街道を戻りつつ、前回に見つけられなかった「伊賀の道標」探しが第二目標となります。
「羽曳野市軽里3-1の道標」迄は前回の調査で通った所なので説明は省略します。
竹内街道は羽曳野情報学習センターの少し西から北に分岐し少し登り始めるようですが、一本手前の道を北に折れた為、今東池の畦道を行くことなく、「野々上3-3の道標」に出てしまいました。
8.軽里3の道標の「大坂」は
道標としては興味あるものなのですが、神南邊には無関係です。一つ気になる点だけをあげておきます。この辻は現在四辻になっておりグーグルマップに於いては竹内街道が南から来て西に折れる辻として描かれています。『今昔マップ on the web』明治の地図では東の道が無く三ツ辻です。
ここで、江戸時代にタイムスリップして「あなたは旅人として、軽野を経て大坂の船場に帰る途中です」。廻鶴池の東を仁賢天皇陵を右に見てこの辻に差し掛かりました。左におれるか、真っすぐ北に進むかどちらに行けばよいのでしょう。
今日の私は、船場には帰りませんが、答えは「左、竹内街道を堺方面へ」としますが。この道標をよく見てみましょう。正面に見える南面に「左、堺」これは何も問題ありません。が、「右、大坂」とあります。上で述べたように東への道は当時無かったので「右」は北へ直進する道を示します。
答えは皆様に任せるとして、私は竹内街道を西に進みます。西に80m進むと南北の広い道との四辻北西部に、木製常夜灯の前に石が立ちますがこれは道標では有りませんでした。
560m道なりに進むと、緩やかな下り道の三ツ辻になり、左(南)10mに更に三ツ辻が有る様に見えます。この辻の西側に変わった道標?があります。東面は道案内で何も文句はないのですが、北面の文面は初めてみる内容です。昭和5年の珍しい道標なので載せて置きます。
竹内街道から20m程南の西側
10.見つかるか狭山分岐道標
さて今日の大きな目的はここから西と思われます。理由は二つ、『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行に「旧道の樫山」とあるだけで略図では位置が同定出来ないこと。もう一つは『吉野と大峰』森下惠介、2020年発行に「羽曳野市域に入り狭山方面への道との分岐点」とあるだけで探さねばならないからです。先の略図からは、東除川の伊勢橋までに有るはずです。南に分岐する道の案内ならば、南側の設置が多いと考え、分岐辻を順番に確認していきます。昭和5年道標から40m西の伊賀3丁目17の四辻は無し。同、70m西の三ツ辻無。池の北側になり暫くなし。同、330mの池の西端三ツ辻、ここは期待していたのですが有りません。同、470m北西に病院のある四辻、ここに無いと後は希望が薄いが…。辻の周囲は開けた感じで見当たりません。天仁病院の駐車場辺りに移設されていないか、特に道側の植込み中を注意深く探る。やはり有りません。仕方なく西に向かおうと道南側に渡って進み始めると、歩道の様だが歩道でない道が車道から離れつつ真っすぐに有ります。車道は右(北)に離れつつ下り始めるがその道は平坦に見えます。もしやと思いそちらへ進むと。
交差点の西の横断歩道から60m西になります。正面の民家に突当りその敷地内かもしれないが、三ツ辻と受取れない事もない位置にお目当ての道標が立っていました。車道を行っておれば見逃すに違いない場所です。多分道が付け替えられたものと思われ、旧道では三ツ辻であったしておかしくない。
分ってしまえば、東西両方向から来ても道の形状を考慮すれば案内に問題はなく素直に受け入れられるが、現在では「左(南)まきの寺、さやま」にあたる道が無くなっている。『今昔マップ on the web』明治の地図では小径ではあるが道が有る様に描かれている。
この道標を地名を使い「羽曳野市伊賀の道標」と名付けます。これで今日の目的はほぼ達成しました。あとは此処より堺までの「竹内街道」未踏区間を無くする事だけです。
道標では大変お世話になっている『大阪の街道と道標』武藤善一郎ではあるが、その記述「旧道の樫山」は現在の町域を用いるなら訂正しておいた方が良いのではと思いました。町名から当初の本命地点はこの橋の東詰めであろうと想像していた為です。明治の地図をしっかり見て置けば、伊賀の集落よりも樫山の集落に近いのは確かなのですが、町域の変更が有ったものかも知れません。尚前述の明治の地図では「五軒屋」となっているが現在は使われていないのでしょう。
11.ほぼ満足し竹内街道へ
「羽曳野市伊賀の道標」から北に10m程下り現在の道路に出ます。道なりに220mで東除川の伊勢橋東詰めになり、何やら欄干めいた石が幾つか並び曰くありげです。橋の名前からして伊勢参詣の為の道を連想しますが知りません。以降順に「緑の一里塚」930m、1.4㎞で堺羽曳野線(府道31号)を北に越え、立部西交差点を渡りきると1.7㎞、2.3㎞に後述する「道標」、2.4㎞の高野街道分岐の辻に建つ「道標」が有ります。2.9㎞で国道309号丹南北交差点を渡り、西除川を越せば3.2㎞、4㎞を過ぎると意味不明の道の湾曲があり、4.8㎞の八下中学校を過ぎると道は直線状に戻り大泉緑地の南に沿って5.4㎞で中環と合流してしまいます。
この合流地点の大泉緑地公園交差点を南側に渡り、竹内街道に分岐すれば良かったのですが、気付かずに中環を進んでしまいました。もし交差点を南に渡っていれば100mで旧道への分岐があり、360m進めば上記「道標」への進入口の三ツ辻となり、未踏査区間は無くなっていたはずです。又してもミスりました。
では後回しになった「道標」です。「伊賀の道標」としたものから、今の道路に下ると更に西に向かい下り坂となています。地図で見れば分かりますが東除川が有る為でしょう。川が市境かと思いきやそうでも無さそうです。伊勢橋東詰めで220mとなり、川を越え西側は目立った段丘も無く平坦です。600m過ぎで少し登りになる左手(南)に「丹治はやプラザ」とする建物がありましたが何か分かりません。この辺りが「樫山」の西端辺りになると思われるので、「伊賀の道標」を見つけていなければ必死で探していたでしょうが、今は素通りです。為か記憶に残っておらず、写真もありません。道を外れないよう度々地図をチェックして、美原ロータリーを上手く通過できるかを心配するのみでした。
心配していた美原ロータリーも旧竹内街道は道なりで避ける事が出来て、信号待ち時間さえ苦にしなければ問題なしでした。西への道が直線状に続く様になって電柱に「松原市立部5丁目」の標識を見て、知らない間に松原市に入っていたようです。後日地図を見るとロータリ東辺りが市境になっているようです。「伊賀の道標」から2.3㎞(立部西交差点から630m)地点の三ツ辻南東部に事前に調べた「松原市岡4の道標」が建っていました。偶然辻南東部は更地になっており道標が見易くなっていましたが、何れ建物が建ち見難くなるでしょう。
12.中高野街道の道標二基
三ツ辻と書きましたが南への道はほぼ路地です。これが中高野街道の旧道とは分からないでしょう。下調べが重要である事を痛感します。
痛々しい道標ですが、試練に耐えたとして写真を多めに挙げておきましょう。解説板の一部も載せて、私見はひかえる事にします。尚市のhpに当道標の出土の経緯が分かる記事が有る様です。「松原市寛政九年道標」で検索してみて下さい。
『竹内街道・中高野街道の寛政九年道標』
岡四丁目の現在地は、江戸時代、丹北郡松原村岡で、堺と大和を結ぶ竹内街道と、
京・大坂から狭山を経て高野山(和歌山県)へ向う中高野街道の分岐する所でした。
現在松原図書館前を丹南に真っ直ぐ南へ延びる道は、大正十二年(1923年)に
つけられた中高野街道の新道です。
元来は東へ竹内街道と重なって、この地で南に折れて丹南に至っていました。
道標は一部割れていますが…
長い間地中に埋ずもれていましたが、平成二十五年、竹内街道施設1400年に
あたり、旧地に復元したものです。
…
…同年の伊勢講建立の道標が、すぐ西の
現図書館前にもあり、…
…
現在、堺市から奈良県葛城市に至る竹内街道には五十六基の道標が確認されています
このうち、寛政九年銘は太子町の元文四年(1739年)などの道標に次いで三番目に
古い貴重なものです。
平成二十五年三月 松原市
13.同じく西の道標
「松原市岡4の道標」の西100mの辻北西にある「松原市岡5の道標」です。後ろはコミュニティーセンターでしょうか。トイレ有難うございました。
結論から先に書きますが、この道標の前(東西)の道は「竹内街道」と大きく見た時の南北の「中高野街道」の重複区間になっています。即ちこの道標と前の道標の間100mは竹内街道でもあり中高野街道でもあるのです。言い換えるとこの道標から南に向かう道は無く三ツ辻であった事を意味します。『今昔マップ on the web』明治の地図を見て下さい。
依って北の平野方面から高野山を目指す人にとっては、この道標と先の「松原市岡4の道標」がペアとして必要になる訳です。
14.終りに
一応これで、当初の予定は達成しました。竹内街道を通り急いで帰ることにします。
邊、邉、辺
神南邊の手掛かりを探している訳ですが、どうも本人が書いたであろう字であっても「辺」の字が一定していないと思われます。何故でしょう。もしあなたが「渡邊」さんであったなら、「渡辺」や「渡邉」と書き間違うことが有るでしょうか。
又、邊とした字も現在の活字のように、右下部が「方」とならず「台」と書いている様にも見え、この部分のみくずし字風に書いたとすべきか、その書き方をする字があるものか。いずれにせよ他人から頂いた名前であるから適当であったとはしたくは有りません。
道明寺天満宮の百度石
施主「邊」
葛井寺山門南の道標
施主はないが「邉」
伊賀の道標
施主「辺」