神南邊(3)

1.始めに

ここの所「神南邊」一色で申し訳ありません。別項の作成に掛かりっきりになっており、こちらは手付かずになっております。忘録代わりに、ログ風に書いておき、後日に記入とします。

一回目は竹内街道の未踏査部分を無くす目的も兼ね、道標探しと、尼崎市内にある「神南邊」と同じ銘を持つ石造物を訪ねました。
二回目はその時の不手際を補う作業でした。

ここへきて、行き当たりバッタリはまずいと思い、下調べをする事にしました。それが三回目以降になります。

大阪府下の、豊中岡町図書館で調べると、
堺市史、大阪狭山町史に該当名があり、それらの参照元として、『堺史談會誌』同会、『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、『神南辺道心関係資料』永井英治、等が挙げられている。また、大阪狭山市には本人奉納の「報恩寺扁額」があるらしい事も分った。

関係資料の多くは、堺図書館に有る様で、これは是非に行かなければなりません。図書館だけで堺は勿体ないと、web等で神南邊を当ると、幾つかヒットします。七道西町の「千日井」の石碑や、旭蓮社の墓碑等が見えた。千日井の前は何回か通ったこともあるが、道標でないので無視していました。

狭山町史三巻、扁額の写真

2.三回目は堺図書館

2.1.千日井

2024/1/30三回目の実施は、上記二ヶ所と堺図書館本館です。近い順に回ると、千日井、旭蓮社、図書館となります。今日は紀州街道から堺を目指します。大和川を越えるのは何時も辛いです。川を付け替えなければ堺はもっと近く感じられると思うのですが。秀吉や利休は楽に行き来したのでしょう。

久しぶりの事で浅香山駅と七道駅を取り違えており、道を間違いながらも途中で気づき、七道駅の南側に辿り着き、マイマップで確認すると一本北の道であるらしい。ガードを東に潜り、次の辻を北に折れると、正面にそれらしいものが有りました。少し遠回りをした様である。横断歩道が無いので一度西に戻り道の北側に移ります。はたまた遠回り。
 目指す石もどれだか良く分りません。歩道側からは逆光でよく見えません。鉄柵が邪魔をします。現場に着くと晴天は厄介です。

左後が目的の石、前の石の陰で条件は最悪。少し離して置けないものか。

千日井と神南辺道心の解説板

南面「心譽砕入法子菩提」の供養塔

北面の「文政九年」

發起 、神南邊

「邊隆光」

この供養碑について解説板にある「水難によって亡くなった人々の供養のため」は的外れのように思う。全てが読み取れたわけではないので100%ではないが、南面に「心誉砕入法子(安永六(1777 )年寂)」、東面に千日橋施主 、他三名の戒名と回忌数が見えるが水難者は書かれていないと思う。これ等の人が水難により亡くなった事を指すのであろうか。
 詳しくは「七道西町の供養塔」を参照下さい。

旭蓮社(ぎょくれんじゃ)に向け出発します。東の紀州街道に出て南に宿院を過ぎるまで進みます。中町東1丁目を東に折れる心算ですが、何処か分かりません、グーグルマップを辻毎にみて何とか曲り、高速の一本手前(西)を見当に進み、そこまで行けば寺が見えると思っていました。北側に宝光寺がありますが、南側に寺は見えません。南に折れ50m程進むと道の西側に「旭蓮社、大阿彌陀経寺」がありました。苦手なタイプのお寺です。インターフォンを押し、神南邊の墓を見せて頂きたいとお願いすると、快く迎えて頂き一安心でした。好きなように見て行って下さい、との事で本堂の西側を教えて頂きました。本堂をグルリと南に巻いて進むと、南側が山門であるらしく入口を間違えたようです。

2.2.旭蓮社

一般に言う「お墓」なのでしょうか、良く分りませんが上部の像の背中に、戒名と示寂年月日が書かれ、下部の座石に「神南邊大道心墳」と有り、更に裏側に銘が有り、導師と建設年月日が書かれている。
 これのややこしい所が、「墳」の建築が天保11年、「像」の示寂(死)が天保12年とある点です。死んだ後「墳(墓)」を立てるのが普通と思われるのに、月日迄見ると死の1年半も前に「墳」を作っている。各年月日が正しいものなら、「死期を察した神南邊が郷中の人々に伝えると、村人は「墳」を予め用意した。彼の死後に、村人が地蔵風の石像にその命日を刻み、「墳」石の上に載せた。」と考えられる。

旭蓮社の南山門、石像は本殿西側

南東を向き建つ石像、下部右面に「神南邊大道心墳」とある

「墳」の建立年、「天保十一子年」

示寂の月日部(一部陰影編集)「九月十」

戒名は「…恕隆光…」か

背中。右側の「天保十二辛丑年」は示寂日

神南邊の死亡年月日がゲット出来ました。これ以降は本人が石造物を立てる事、即ち「施主」には成れません。又「発起」、「願主」等も使えないと思います。

2.3.中央図書館

大仙古墳に向け出発します。堺図書館には私的ではありますが、多少縁があり、久方ぶりの訪問となります。裏道最短距離をと思いまたしてもジグザグコース。おかげで時間をロスしました。何時もの事ですがナサケナイ。

さて、お目当ては三冊、『堺史談會誌』同会、『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、『神南辺道心関係資料』永井英治です。堺市史等は開架にあるので自由に見れますが、この三冊は書庫から出してもらわなければなりません。少し時間が掛っているようです。

堺市史を読んだ結果、疑問点が出てきました。神南邊の没年(示寂)が間違っているようです。他に戒名も一部誤りが有るのでは無いか。ただ、有力な資料『神南辺隆光と関係石造物』月山渉でもこの指摘は無さそうです。
 そこで、私の勝手な意見を一つ。

堺市史7巻にある「神南邊道心」

『堺史談會誌』5巻

『堺市史』の記述はある資料を転記しただけで、その元資料の記述に誤りがあった。その資料とは『堺史談會誌』同会、明治36(1903)年刊、と上で述べたものですが、その記述が非常に頼りないものである事が分かりました。「神南邊」の記述は二ヶ所にあり、第一巻に「道心の俗名郷貫及び在俗中の職業、並びに其堺にありし年代を知りたし」とし、第五巻で、旭蓮社をブラブラしていると「本堂の前面に対し石地蔵の座像あり、座石に『神南邊大道心墳』像の脊(せ)に『與譽仁隆光法子』その右に『天保十二辛丑年、二月二十日示寂』と鐫(せん)せり…」とし、その後、住職に聞いた話を書いている。

即ち、「チョット見かけたので聞いてみた。」程度の記述なのです。当時座像がどの程度近くで見ることが出来たかは分かりませんが、現在では非常に読み難い状態です。
 これを文明の利器で読んでみると、間違いであろうと出来る。私には『與譽仁隆光法子』、『天保十二辛丑年、月十日示寂』に見えます。

都合三ヶ所で余裕のある堺探索でした。堺東から帰る事にします。

3.四回目、河内・和泉を一気に

2024/2/8、下調べも終わり、第四回目です。『神南辺隆光と関係石造物』に石造物の一覧があり、無紀年銘の作成年代を決める手掛かりを得る為に、その中から紀年銘を持つものだけをピックアップし、紀年銘の確認をする事にしました。相当な量になりました。探し漏れのないよう、グーグルマップにマイマップを予め見当を着けた状態で作成し、出来るだけ効率よく回るルートを考えます。又、通った事の無い主要道も考慮に入れた結果。
 中高野街道から、河内長野を目指し大阪に帰ることにしました。

マイマップは随時更新しています。記事とのタイミングは一致していません。2024/5/15完成

今回の最大の目的、「法恩寺の扁額」が見れませんでした。何時か現物を確認しなければならないのですが、資料『神南辺隆光と関係石造物』月山渉に依ればほぼ読み取ることが出来ないようです。でも自身で確認したいので後日とします。下に『狭山町史3巻』の写真を載せて置きます。テキスト形式で見たい方はこちらを参照下さい。

狭山町史の「神南邊の扁額」

扁額の読み下し

4.五回目は茨木市

2024/2/13,5回目ですが、茨木市内に宝篋印塔がある事が分かり、ここへいきます。ここも又、過去に何回か行ったことのある寺です。これは、『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、には載っていません。

山門を北に見る。本堂左の山際にある。

この大恩寺の門前には「茨木市安威3の道標」が有ります。その他に見つけられない何基かの道標も近辺に有るか、有ったと過去形になるかも知れませんが、度々訪れているのですが、この様な形で来るとは思ってもいませんでした。

「発起、大道心隆光」見つかりました

今日は、この目的だけですので、ゆったりと探せます。境内墓地に有るはずなのですが一度道路に沿って東側に回り込んで急坂を登ると、居住部分へのアプローチで、ここから入るのは気が引けます。
 山門下の階段迄戻り、正面から堂々と進む事にします。神社は気兼ねなく入れるのですが、寺は時として入山に「断り」が要る時があり、あまり好きではありません。でもお墓は好きです。
 さて、ここの山門はと言うと、インターホンも無く大きく開いており一安心です。一礼をし、正面本堂に参拝し、墓地はと見ると左手(西側)に有ります。「宝筐院塔」らしいので探し易いと高を括っていたのですが、何基かあるものの、目指す銘が見当たりません。

大恩寺を北に見上げる。左に道標

納骨堂前の宝篋印塔を西に見る

大きな塔です、赤っぽい台石に載る

取敢えず、一番大きそうなものをジックリと見るが無さそうです。他も見るが有りません。元に戻り、墓石をお掃除して怒られることは無いだろうと、歯ブラシでコスる事にします。帰ってからwebで宝篋印塔の各部名称を見ると、上から、相輪、笠、塔身、基礎、基壇、とするらしく、これに依ると、塔身の梵字部分は汚れが少なく、以下、下に向かうほど汚れは強くなっています。基礎部に彫られる銘は、余り掃除をしなくても「西國三十三度供養塔」と分り、これが探す石であろうと、思わず力が入ります。北面の「天保五甲午三月十八日」も読め、紀年はゲット出来ました。しかし探す「神南邊」は基礎部にありません。
 紀年銘を持つ四角い石を基礎部とすると、その下の蓮華座風に彫られた石からが基壇部となり、その基壇部の下側は二石を並べて、平面正方形に成るように作られています。蓮華座風の石を磨くも何も出てきません。ガッカリしながら更にその下の二石に取り掛かります。赤茶びて字が彫られている様には見えませんが、念のためと擦ります。

基礎部北面の紀年銘、「天保五甲午三月十八日」

掃除の終った基壇部の上から二段目(写真の中央部)

真中あたりに、縦に白い線が見えてきました。ブラシを二本にして広げていきます。字の様です。「里」か・・・。

汚れが落ちにくく、刻字部分を優先的に擦った為、一様に綺麗には成らなかったが、何んとか読むことが出来ました。事前の資料が無ければ見つけられず帰っていたかも知れません。多分この面だけで15分は掛けたと思う。

未掃除の同、西面。蓮華模様を持つ石から基壇部となり、その下。

では、見て頂きましょう。何、よく読めない。そうですが、次の様に読み下しました。私としては目的達成です。ただ気がかりが一点、移設の可能性が高く、基礎部と基壇部が同時に作成されたものかは注意を要する。

大恩寺宝篋印塔基壇部二段目の東面、「神南邉庵/大道心隆光」

「發起」

「平野屋利兵衛/平野屋佐助」とした

「供養塔施主」

帰りに、安否確認をしたい道標数基と、この門前に有った石が案内する「藤原鎌足公古墳」を訪ねて今日の終わりとしました。その結果、「東福井2の道標」が2m程東の溝側に移設されていた事、生垣などが刈られ見易くなっていたもの二基が確認出来ました。

現将軍山古墳への登り口、「大織冠神社」とある

見易くなっていた「安威2の道標」

「東福井2の道標」を南に見る。右から左に2m程移動し180度回転ている。

5.六回目は堺の補完

2024/2/28、住吉大社の「神輿台」等の撮影と、一ヶ所漏れていた、法明寺の橋を見る為、もう一度行きます。

訪問予定が沢山有ります。書き出してみましょう。

1.住吉区大海神社
2.上住吉浅神社
3.墨江地蔵寺
4.住之江区安立長法寺

5.戎の町東菅原神社
6.熊野町東常安寺
7.宿院町東宿院頓宮
8.宿院町東長谷寺

9.寺地町東4旭蓮社
10.西湊町船待神社
11.三国ケ丘方違神社
12.住吉区大聖観音寺
13.阿倍野区安倍晴明神社

1.住吉大社の北、大海神社を東に見る

1.東西三基の神輿台、両端が神南邊関連

2.浅澤神社を東に見る

2.鳥居北側柱東面の紀年

3.墨江地蔵を西に見る

3南面の紀年

4.長法寺を北東に見る

4.西側柱、発起「神南邊」

5.菅原神社東門を東に見る

5.百度石南面の紀年銘

5.向影梅碑を東に見る

5.北面の執次「神南邉」

6.常安寺を北に見る

6.橋?北側縁石の紀年銘

7.宿院頓宮を西に見る

7.南西面、発起人「神南邊」

8.長谷寺を東に見る

8.井戸枠西面、施主「神南…」

9.旭蓮社の座像西面

9.同左拡大、九月十日示寂

10.船待神社を北に見る

10.東門の社碑南西面の「神南邊」はくずし字

11.方違神社、社務所北側の百度石を北東に見る

11.百度石西面の紀年

12.大聖(あびこ)観音

12.石観音の台座部

13.安倍晴明神社

13.東面の銘

6.七回目は住吉大社

2024/3/9、再度、7回目のトライの必要ができました。
忘れ物二ヶ所、写真が良くない二ヶ所、更に神南邊以外の人物から年代のヒントとなる石造物が見つかり、それを確認しに行きます。

6.1.綱敷天満宮

綱敷天神を北東に見る。右大きな社標の左に当石

これも社標です。

先ずは大阪市内です。この近所には訪ねたい道標が二基あるのですが今日は無視します。
北区綱敷天神社の社標を忘れていました。

南面に紀年は無いが「神南辺大道心」とある

「辺」は割に少ない

「大道心」は道号か

6.2.法明寺の橋

山門を北に見る。手前の石部が橋らしい

次も市内です。前回最後に回る予定でしたがこれも忘れていました。
深江南の法明寺です。事前の調べでは「橋」とあったので無くなっていると思いきや、手前の石畳が橋の名残である事が分かりました。でも何処に銘があるのか。

読みやすいように立てて見た

西側の桁部分

橋は左右三基の石から出来ていたようだが拡幅されている様に見える。

東側の桁部分

読みやすいように立てて見た

石の大きさは、東側石、長さ257x幅66x厚17㎝、東側接ぎ石長さ55x幅66x厚17㎝、西側石、長さ311x幅67x厚17㎝、橋の幅354㎝で、当時としては相当大きなものと出来そうです。

6.3.大海神社神輿台

向う(東)側と手前の石のスキマを撮ります。

住吉神社へ向います。
大海神社の神輿台の隙間の面が上手く写っていません。もう一度トライしたがよく似たものでした。加工して載せて置きます。

横からはこんな感じ

上から撮って細工した、「願主…」

同左、「山上宮門大夫」とある。

これ等の結果、一応文字は読み取れました。
願主の中に「山上宮門大夫」なる人物があり、この人の名を持つ常夜灯が二基ある事が分かり、且つ紀年銘をを持っている様なのです。場合によればこの神輿台の年号が特定出来るかも知れません。

6.4.住吉大社、山上宮門大夫

社務所に近い大きい方は寛政十一年十一月

小さい方の一基は天明六(丙午)年二月 

二基とも住吉大社の境内にあります。太鼓橋北東、社務所の西前大きな方は、寛政十一(1799)年、
住吉大社南西角北側、阪堺線に面した小さい方が、天明六(1786)年とある。

6.5.浅澤神社

住吉大社の南東に回り込み、浅澤神社の鳥居の写真を撮り直して、今回の目的は達成しました。
 帰りに近鉄阿部野橋駅により、吉野周遊券を買おうとしましたが、「通常キップの方が安いです。」と言われ購入せずに帰りました。

8回目の挑戦に向けて。別の用件確認の為もあり、奈良県吉野郡へ、少し早い花見ならぬ石見に行く予定です。

鳥居を東に見る。この日は曇りで絶好の撮影条件でした。

7.八回目は吉野山

2024/3/15、行ってきました。兎に角大変でしたが一応目的は遂げられたと思います。多分往復で20㎞以上の山歩きでした。遠足気分でウキウキが止まりません。時間の都合で阿部野橋からは準急吉野行です。急行と名が付くのに義理堅い電車で、あちら、こちらに停まります。古市あたりからは各停であったかも。ただ今日がダイヤ改正の直前日であったらしく、明日以降はもっと便利になるかも知れません。撮り鉄では有りませんので、途中の写真はありません。駅名は大分覚えました.下市辺りでは通学列車のような状態でしたが、吉野駅には3人ほどしか降りなかったと思います。キップをどうしたら良いか悩む改札です。

今日の予定は、竹林院近くの「神南邊」の道標、金峰神社過ぎの「折屋」の道標。すぐに折返し、近鉄吉野から壺阪山で下車し壺阪寺の「神南邊」の百度石、以上三基を見る事です。

吉野山観光マップ、下が北

近鉄吉野駅到着が8:08であったと思う。トイレを済ませ何やかんやで15分頃スタートでしょうか。
 ロープウェイ横から登り始めます。写真は有りません。歩き始めて写真をログ代わりに使う事を思い付きます。ヤマップやヤマレコはよう使いません。

南西向き、七曲、車道へ

8:22、一つ目の階段を登り終えた所です。横にロープウェイがあるぐらいで少しきついです。

南向き、二度目の車道

8:25、車道に出ました。七曲の途中でしょうか。車道を少し歩きましたが歩道もあるようです。見逃した。

南向き、攻ヶ辻

8:27、「攻ヶ辻」とある所に出ました。最初の急登は終わったようです。振返ると桜の無い斜面が見えます。

北東向き、攻ヶ辻

北西向き、攻ヶ辻の道標

8:31、攻ヶ辻すぐ上の車道合流点の西に建つ道標です。「右、いせ」「左、かうや」と結構遠くを案内します。
 安永六丁酉十一月とあり、摂津の国なら放ってはおかない立派な石ですが今日は写真だけにしておきます。

安永六丁酉十一月吉日とある

北向き、攻ヶ辻、道標は左端

8:32、道標を撮り終えて、北を振り返って、この辻を後にします。

右(東)側にケーブル駅

8:35、「ケーブルのりば」を通過し振返って写しました。逆光になるので以下ほとんどが下り方面を向いています。尚、ケーブルと有りますが一般には「ロープウェイ」と思います。

北に見る。町の入口であったか

8:38、黒門を振返り写す。解説板も載せて置きます。
「黒門は金峯山寺の総門で、いうなれば吉野一山の総門でもあります。…」

黒門の解説板

銅鳥居を北向きに見る

8:41、銅鳥居(かねのとりい)を振返って写す。名前の通り銅製のようですが、中はどうなっているのでしょうネ。

仁王門を南に見る

8:43、蔵王堂仁王門に着きました。ここは南を向いて撮るしかなさそうです。先を急ぐので見学は後にして、左(東)側の道に進みます。
 写真には「金峯山寺二王門保存…」とありますが「仁王門」だとばかり思っていました。使い分けはしません。

蔵王堂南からの入口

8:46、蔵王堂北の入口を振返って見る。吉野山ビジターセンターの前の案内板です。まだ少ししか来ていない事が分かります。

道の東側、郵便局の北隣

ケーブル駅から約1km、北向き

8:51、吉水神社への入口となる鳥居を振返って写す。神社へは距離があるようで、帰りにも寄る心算はありません。

勝手神社を南に見る

8:52、勝手神社を南に見ます。通り抜けれるか分からないので、階段を登らず左の舗装路を進みます。

勝手神社前から50mで南を見る

8:53、すぐに三ツ辻になり何方に進むか迷う。地図を取り出し確認します。観光案内マップの図では何方でも行けそうに見えます。赤いポストの右の道標は「右、大峰山上道」とありこれに従う事にします。また少し登る様です。

勝手神社バス停北横のマップ

この辺りが中の千本か、南へ登る

8:55、勝手神社前バス停がありました。

北向きに見る

9:00、少し平坦になり、宿坊喜蔵院を振返ります。

両側に建物が続きます、北向き

9:02、桜本坊を振返ります。天武・持統天皇勅願所とあります。

竹林院を西に見る

9:04、今日一つ目の目標地点「竹林院」に着きました。もっと山深いと思っていたのですが、舗装路に面して山門が建ちます。

9:05、お寺が目的ではないので、少し中を覗くだけです。この近辺に探す「神南邊」が建てた道標が有るはずです。事前に得た情報を載せて置きます。「竹林院の上手、上千本口バス停先の岐路」。土地勘のある人にはこれで十分なのでしょうが、残念ながら分かりません。上手と言うからは山に登るものと想像していたが、院から登りそうな道はありません。上千本口バス停を探します。バス停ならば舗装路にあるとし、寺内に入らず、門前を南に進みます。

山門から西境内を見る

竹林院南の三ツ辻を南東に見る

9:06、竹林院前を南に進むと正面にバス停(待合所付き)が有ります。バス停を正面に道は左右に別れますが此処には道標は有りません。正面には石段があり、なにやら神社へ続いているとも思えるのですが、地元の方に尋ねると、左(東寄り)が奥の千本への道との事で、そちらに進みます。

神南邊の道標がある辻

9:08、20m程も進むと、道は更に分岐しており、右(西)よりに登る道が「大峯山」への道の様です。その分岐点に探す道標がありました。「竹林院南東の道標」とします。近鉄を降りてから丁度1時間になります。

道標を南に見る

南西面 

時間的に撮影条件が良くありません。取り敢えず写真を撮る事にしました。

右から3番目が当道標

今日、吉野山迄来た目的はもう一つ有りまして、この先、金峯神社近くに建つであろう「大坂新町、折屋」さんの道標を探しに行くことが2番目の目標なのです。まだ数㎞有ると思うのでそちらに向かい、帰路に調査する事にします。

9:23、マイマップで位置を確認し、ズレを記録する為、スクリーンショット(ハードコピー)を撮ろうとするが上手く行きません。何度もトライするがダメなので、スマホを写真に撮り、代わりとする。ピンボケで自分の姿も写り込んでいるので載せませんが、予想位置と一致していました。
 「神南邊」道標出発です。ここから奥の千本へはほぼ一直線に南西方向になります。

道標を北に見る、大きな石の左で目立たない

道標から10分、左端の家の方と雑談後北西を見る。北は開けて気持ちがよい

9:26、土地のおばさんに道、所要時間をお聞きすると共に少し雑談。今年は梅も少し遅いとの事、気が急くので早めに切り上げ先を急ぐ。

ヘアピンカーブを一つ過ぎて北を望む、上の千本。

9:40、「上の千本」とある地点に付きます。何週間後にはとんでもない人が訪れるのでしょうが、今日は地元の人以外にはまだ会っていません。何時ものペースです。登り方向を見ると、左にトイレと、右に「金峯神社2.3㎞」の案内がありました。もう少しです。この先を廻り込むと、車道をショートカットする道がありこちらを進みます。ここで今日初めて山を下って来る三人組に出会いました。きっと卒業旅行では無かったかと思いますが、何処に泊まったのでしょうか。挨拶をして別れます。この辺りから登りがきつく成ります。

西を見ると左のトイレを過ぎると又ヘアピンカーブ

トイレ過ぎのカーブから歩道を進むと左の茶色い看板に出て来る

9:46、自動車道に合流、もうエエ加減バテています。「横河の覚範の首塚」辺りだと思います。

下の車道より歩道からの景色がよい

9:49、北の景色が一望の場所に出ました。写真を撮る事にかこつけて休みます。正面やや左は竜門岳あたりでしょうか。

左階段を登らず、右やや南西に進む

9:55、水分(みくまり)神社下に到着、帰りに寄る事にして先を目指します。
 この後少し勾配が増します。

南東に向かう道を30㎝程の溝が横切ります。これが橋跡か

10:01、「吉野三橋の一、丈之橋跡」と有ります。後の二橋は?、ロープウェイ駅辺りに「大橋」が有ったような気がするが。
 橋を架ける様な川は見当たりません。西側は結構な谷ですが川らしきは見当たりません。少し「たわ」の様な地点なので尾根から尾根へ橋が架けられていたのかも知れません。坂は緩くなったが、疲れはとれません。
 少し先で南に分岐する道がみえます。

三ツ辻から北西を見る。電信柱が橋跡

10:02、必要も無いのに写真を撮ります。「金峯神社、奥の千本」の案内だけが嬉しい。前の「丈之橋跡」からわずか50m程。
 案内に従い直進します。尾根の東側を登ります。

舗装路から右(西)を見る。北側の平坦地に建っていたか

10:09。「牛頭天王社跡」、…もっと「跡」が出てきて欲しい。
 「跡」には何も建っていいが、トイレが出て来た、が便意無し。汗に変わったと思う。
 建物右下の舗装路進む。

東、建物左は後で分かるが、展望台からの出口であった。

道東側を見る。山を右へ回り込む

10:13、「正須行人閼伽之井」とある。が水は確認せず。疲れからか、写真がブレている。
 先のトイレ辺りから尾根筋を離れた為か、谷筋になり水が湧いているのでしょう。

尾根筋に出て一息。展望台入口を北に見る

10:16、高城山展望台バス停、展望台へは、先のトイレ横から登るか、ここから北へ登るか、帰りに余力があれば行ってみよう。
 この後、尾根筋に戻ったようです。
 南への尾根筋は傾斜も緩くなりホットしますが眺望はありません。車道の為かと思われますが、人道は見つかりません。探す余裕はありませんが。

修行門を南に見る。道は三方に分れる

10:25、目的地に近付いてきました。修行門が見えます。多分ここから金峯神社であろう。少し傾斜がきつく成ります。舗装路の急坂はなぜか辛く感じる。横にある観光マップも端っこに近付いてきました。

中央の修行門をくぐり北を見る

10:28、3分間写真を撮って出発です。ここまでは車で来れそうでしたが通行止めの標識が出ていました。バスは何処へ行くのでしょう。

鳥居を通り南へ直進しますが、舗装路のうえ、左右の擁壁もコンクリートで固められ、まるで排水溝を進むようです。その上、坂がキツイ。何とかなりませんかね。

無粋な道を抜け、神社との分岐点を南に見る。右山道へ進む

10:35、金峯神社階段下に到着です。階段を上がらず、奥駆け道(西)に進みます。案内板では「西行庵」方向になります。案内板の写真は明らかに手ブレですが、進む先を撮った写真はピンボケです。カメラまで調子が悪くなってきたようです。

ピンボケの奥駈道入口の案内板等

南へ石畳道を登ると正面に、

10:44、正面にお目当ての道標が見えます。大きさに驚きますが、着いて一安心。吉野駅から1時間30分掛かったようです。帰ったら距離を測ってみよう。

地理院地図で水平距離、ケーブルの上の駅前から、折屋の道標迄が6.7㎞、駅の標高310m、道標の標高770mとなり460m登ったことになる様です。ケーブルの高低差が丁度200mと思われますので、これを加えると高低差660mで登る一方です。ケーブル上下間(七曲り)の距離は道を一部誤った為分かりませんが300m程でしょうか。

三ツ辻正面(南)を見る。大峯山は左へ

7.1.折屋の道標

第二目標「折屋の道標」を南東に見る

ここからは、神南邊の石造物とは関係が無く、詳細は別項として約45分「折屋甚蔵、むめ、折屋徳兵衛、えい」の4名が文政十(1798)に建てた道標を調べました。
 概略だけ書いておきます。
「折屋」が関係する道標が西宮に4基、尼崎に1基あり、何れも甲山の神呪寺に関連している。ただこれらの道標に紀年銘が無く、参考にした資料に書かれた年代が余りにも危なげなので、以前から何か確証が得られるものが無いか探していたものです。大分前になってしまったのですが、web上で「折屋」の後裔の方と思われる記事を見つけ、吉野に道標が有るらしい事を知り、この度ようやく機会を得た(単に手を抜いていただけ)ものです。
 そして、嬉しい事に、建立年と更に4名の関係が想像できる道標でした。唯一つ残念だったのは、石の状態と字の彫刻の仕方から再建されたと思われる点です。古い石も残しておくか、無くなったものであれば再建である事を明記して欲しかった。但しこれは私見で「再建」が確定した訳ではありません。取り敢えず紀年銘を改竄する事は無いと思うので、長年の疑問点解決の糸口はつかめました。

道標北面上部。江戸時代にこの刻み方は出来ないと思う

北面下部、「折屋」は大坂新町の茶屋であったらしい。

西面、「寛政十(1798年)戊午(つちのえうま)歳」、歳は「年」と同じ

折屋の道標を北に見る

11:33、この道標の案内する「大峯」道を少し先まで進みます。これは何時もの癖です。道標を見つけると、その先2,300mは見ておく事にしている為です。帰ってから、もう少し先を見ておけば良かったと思う事が多々あるからです。出来れば次の辻までが理想なのですが、山道はシンドイのでその程度で戻ってきます。

道標70m東で南を見る。この南面が奥の千本らしい

3分程進むと東側の尾根筋に出て、見晴らしの良い場所に着きました。「宝塔院跡」の解説板と共に現在の石の道標「左、山上ヶ岳」「右、金峯神社」が建っています。先ほどの道標の案内は現在も役目を果たしているようです。
 ここでようやく南方の山並みが一望できるようになりました。感覚的には此処からが「大峯奥駈ヶ道」になるとしたい。

宝塔院跡の案内板

西の道標へ戻ります。奥に下る

11:40、眺望を楽しみ引き返すことにします。後の予定が無ければ、現道標にある「左、西行庵・苔清水」経由としたいが、実はこの後、壷阪寺に行きたいのです。昼のおにぎりとパンは歩きながら済ますことにします。
 ここで、又もや、シャーペンが無い事に気づきます。折屋の道標迄探しつつ戻るが見つかりません、道標の記録時に捨てた覚えも無いが、一応道標回りも調べます。有りません。泣く泣く帰ります。西宮市北部の青野道(丹波道)探索の折に竹藪中で無くした事を鮮明に覚えています。昨日の晩飯は何だったか覚えていません。

折屋の道標から下りを見る

帰りは要所要所だけ書いておきます。
11:53、義経かくれ塔
12:16、高取天望所
12:29、水分(みくまり)神社
12:53、竹林院南東の道標

かくれ塔を南東に見る

金峯神社を南に見る

高城山展望台、北西を見る

水分神社を南東に見る

戻ってきました。3時間30分掛かっています。

「竹林院南東の道標」は往路、写真を撮っただけでしたので、詳しく見る事にします。やはり掃除から始め、撮影、各面の文字確認、サイズ測定、とルーティーンが決まっております。
 観光的な写真がありません。まあ道標を見に来る人はそんなにいないとは思いますので。

道標を西に見る

7.2.神南邊の道標

東面、「堺 鍋屋嘉兵衛」

北面、「右、大峯道/左、さくら木…」左の行き先は不明

西面、「神南辺隆光」

13:19、出発。約30分の作業時間は、通常行に比べ短かく半分程度になっていたようです。先を急ぎます。この時点で予定より1時間遅れです。壷阪寺へ行けるか気になるが、少し観光気分も味わいたい。

本堂を南に見る

13:32、金峯山寺蔵王堂を北側から訪問。南から入るのが本来なのかは知らないが建物の正面は南向きである。
 本堂を出て西側を廻り込み下る。登りに通った東側の方が、距離はやや短いか。

吉野村道路元標を東に見る

13:38、蔵王堂の仁王門下西側に、吉野村道路元標発見。道標では無いのですが見つけたら写真だけは撮っておきます。
 移設が無ければ、ここが吉野村の基点であった事になる。

近鉄吉野駅で北を見る

13:58、近鉄吉野駅構内。乗車券購入とトイレで多少時間はロスしていると思います。特急が停まっており撮り鉄さんが多数おられた。折返しの急行が来て先発(14:12)して、「壺阪山」へ向います。単線で途中駅に待避線も無い事から、特急に追い抜かれる事も無く到着しました。

14:53、焦っていて壺阪山駅の写真が無く、到着時刻(14:53)はタイムラインより。バスが有るはずなので発車時刻を確認しに行きます。一応駅前ロータリー風の所にバスは止まっていますが路線バスかどうか分かりません。次のバスは15:20発のようです。40分ちかくあります。事前に調べて寺迄5km程と分っていたので、歩く事にします。頑張ればバスと同じ頃に着くのではと考え、最短と思われる国道169号を進みます。本当は旧道を行きたかったのですが。

壷阪寺への分岐を南に見る

15:16、国道169から壺阪寺への分岐点。左(東)は県道119号になるようです。
 時間があれば、国道は通らなかったのですが最短距離を狙いました。歩道は完備されていませんが通る車も少なく、苦にはならないでしょう。
 県道に入ると谷筋西側を遡行します。

鷹鞭橋西詰から東を見る

15:21、「きびがわ」「たかむちはし」の西詰、橋を渡らず上流へ。

帰ってから珍しい名前だなと思い調べると「鷹鞭橋」と書くらしい。変わった名前と思う。

宮形大明神?の鳥居か、登山道は左へ

15:24、川沿いハイキング道への進入点手前、右(西)に鳥居がある。バスが横を通り過ぎて行きました。残念、ケチッタ御陰で負けてしまった。足の遅いの(短いの)が悔やまれます。ハイキング道はキツそうなので県道を進みます。

駐車場入口を南東に見る

15:41、壺阪寺第2駐車場入口に着きました。県道は壺阪峠に繋がりますがここで寺に向かいます。峠から高取城跡へも行ってみたいのだが今日はむりです。

大講堂北から東を見る。右上へ

15:45、入山料800円を払い、大講堂北側です。3月から200円アップしたとの事、もう一月前に来ればよかった。入口で「百度石」を聞くも、「わかりません」との事でした。最近ではお百度参りは流行っていないのでしょう。場所は事前の資料に「石大仏の左前」とあり慌てる事は有りません。

仁王門を東に見る。石段を上る

仁王さんのいない仁王門を潜り、右(南)へ折れるとすぐ左手(東)に石造りの大仏が見えます。左前と有ったので、座像の左足前に行きかけたが、手前側(座像の右ひざ側)に「百度石」が見えます。訳の分からない石造物を避けつつ進むと垣根の脇に立っていました。百度石の役割から見て移設に違いありません。又この石大仏に参るとするなら、向きも逆です。邪魔になるので此処に置いたものと思われます。「神南邊」もさぞ残念に思っているでしょう。すぐ後ろにはこれまた邪魔者扱いか輪廻車が置かれています。

大仏を南東に見る。変わった雰囲気の寺です

7.3.壺阪寺の百度石

百度石が西向きに立ちます

15:48、今日の最終目的地に到着しやれやれです。

これ単独では特に興味も無いのですが、少しだけ書いておきます。施主は「神南邊隆光」とあり、「文化十四(1817)年六月」と作成年がハッキリと分る資料です。詳細は別項を参照して下さい。
 この人の建てた百度石は結構有りますが、各面に四方如来を表すと思われる梵字が彫られている点で珍しいと言えるでしょう。

神南邊の百度石西面

百度石南面「文化十四丁丑歳…」

東面の「施主…神南邊」、右三枚参照

神南邊の石造物に関しては70件以上も残っているらしいのですが、私の確認した40件強の中で、紀年銘を持つ最古のものでした。彼の没年が天保12(1840)年9月10日とあり、この石が1817年なので、23年遡ることになります。年齢は分からないのですが、60歳で亡くなったとすれば37歳の働き盛りの頃となります。
 又、神南邊隆光と署名する「隆光」最初の石造物にもなります。
詳しくは「まとめ」を参照下さい。

「泉州堺 /神」

「堺/ 南邊」

「隆光」とあります

壺阪寺の岩組

一応境内も目を通し帰ろうかとしていると、「つぼさか茶屋」と有る建物の西に大きな自然石に「岩組」の文字を見つけた。これは金峯神社の折屋道標で見た「岩組」と関係があるかも知れないと写真に収める。がその石の前に行くと何やら警報音の様なものが鳴り早々に退散します。紀年銘だけでも確認したかったのであるが出来ません。
 尚、岩組は大坂の講に関係する団体のようです。

吉野山の岩組

寺を出て、バス停の時刻表を見たのが16:30、バスはもうありません。バス停の横がハイキング道である事を寺の方に確認し迷う心配も無いとお聞きしたので、これを下り、高取町の旧道も歩いてみることが出来ると、喜んで?下り始めました。登りにこのルートを選択しなかった事が良かったと分かる下り道を一気に降ります。

バス停から下り東を見上げる

階段を一しきり降りると、「二丁」丁石が建っていました。何時もなら、では「一丁」は等と探したりするのですが、もう余裕が有りません。写真だけ撮って後にします。何か膝の上が痛くなってきています。チョコレートと給水でしのぎ急ぎますが、沢の横を下る道はよく整備されてはいるものの、ぬかるんでいます。

二丁丁石を南に見る

県道に復帰し南を見る

16:46、往路バスに抜かれた地点に、ハイキング道は合流しており、少し北で再び川沿いに下る道が地理院地図に有ったが、これを見落とした様で、「たかむちはし」を越えた後旧道へ入る事にしました。風情のある街並みを満喫しながら道なりに進みます。

7.4.高取町旧道

札の辻で南東を見る、カーブミラー右から来て、駅は背後へ

17:11、石垣の上に黒板塀が載る四辻(札の辻)に出ます。四辻南部には道標が立ち、黒塀内は昔の武家屋敷の趾らしい。

この辻を左折(北西)すると道はやや広くなるが車の通りも少なく散策には打って付けなのですが、今は急ぎます。この道を観光マップでは「土佐街道」としています。

南角の明治8年の道標、
右 つぼさか/よしの道

札の辻から160m、くすり資料館前の地図

17:21、今日二つ目の「高取町道路元標」がありました。やはり写真だけ。

くすり資料館から360m、三ツ辻(東)側の道路元標

道路元標から360mの四辻から東を見る

17:26、近鉄壺阪山駅への最終左折(西折れ)辻に着きました。これを西に向かえば100mで壺阪山駅前の交差点です。

写真を撮り忘れたので時間が分かりませんが、17:28頃の到着であったと思います。15分程待ち阿部野橋行き急行に乗りました。来た時の準急は律儀な電車でほぼ各停でしたが、急行は古市を出ると、次は終点まで止まらなかった。興奮の為かウタタ寝もせず日の暮れた大阪へ到着。先週阿部野橋駅に「吉野周遊キップ」を買いに行ったのだが、駅員さんに「泊りがけでなければメリットが無いですよ、それに特急券も要らないのでは」と言われたのが納得いきました。阿部野橋駅到着が18:45でした。

以上で吉野への楽しい一人遠足は終わりました。昔、林間学校か何かで蔵王堂へ行った覚えがあり、半世紀以上ぶりの訪問でした。お疲れ様でした。

2024/6月 追加

神南辺関連の調査が一応終わりました。「石造物詳細」と「まとめ」を別項に作成しました。
地図はグーグルマップ神南邊関係の石造物竹内街道の道標を参照下さい。