神南邊(3)
1.始めに
ここの所「神南邊」一色で申し訳ありません。別項の作成に掛かりっきりになっており、こちらは手付かずになっております。備忘録代わりに、ログ風に書いておき、後日に記入とします。
ここへきて、行き当たりバッタリはまずいと思い、下調べをする事にしました。それが三回目以降になります。
2.三回目は堺図書館
2.1.千日井
2024/1/30、三回目の実施は、上記二ヶ所と堺図書館本館です。近い順に回ると、千日井、旭蓮社、図書館となります。今日は紀州街道から堺を目指します。大和川を越えるのは何時も辛いです。川を付け替えなければ堺はもっと近く感じられると思うのですが。秀吉や利休は楽に行き来したのでしょう。
久しぶりの事で浅香山駅と七道駅を取り違えており、道を間違いながらも途中で気づき、七道駅の南側に辿り着き、マイマップで確認すると一本北の道であるらしい。ガードを東に潜り、次の辻を北に折れると、正面にそれらしいものが有りました。少し遠回りをした様である。横断歩道が無いので一度西に戻り道の北側に移ります。はたまた遠回り。
目指す石もどれだか良く分りません。歩道側からは逆光でよく見えません。鉄柵が邪魔をします。現場に着くと晴天は厄介です。
この供養碑について解説板にある「水難によって亡くなった人々の供養のため」は的外れのように思う。全てが読み取れたわけではないので100%ではないが、南面に「心誉砕入法子(安永六(1777 )年寂)」、東面に千日橋施主 、他三名の戒名と回忌数が見えるが水難者は書かれていないと思う。これ等の人が水難により亡くなった事を指すのであろうか。
詳しくは「七道西町の供養塔」を参照下さい。
旭蓮社(ぎょくれんじゃ)に向け出発します。東の紀州街道に出て南に宿院を過ぎるまで進みます。中之町東1丁目を東に折れる心算ですが、何処か分かりません、グーグルマップを辻毎にみて何とか曲り、高速の一本手前(西)を見当に進み、そこまで行けば寺が見えると思っていました。北側に宝光寺がありますが、南側に寺は見えません。南に折れ50m程進むと道の西側に「旭蓮社、大阿彌陀経寺」がありました。苦手なタイプのお寺です。インターフォンを押し、神南邊の墓を見せて頂きたいとお願いすると、快く迎えて頂き一安心でした。好きなように見て行って下さい、との事で本堂の西側を教えて頂きました。本堂をグルリと南に巻いて進むと、南側が山門であるらしく入口を間違えたようです。
2.2.旭蓮社
一般に言う「お墓」なのでしょうか、良く分りませんが上部の像の背中に、戒名と示寂年月日が書かれ、下部の座石に「神南邊大道心墳」と有り、更に裏側に銘が有り、導師と建設年月日が書かれている。
これのややこしい所が、「墳」の建築が天保11年、「像」の示寂(死)が天保12年とある点です。死んだ後「墳(墓)」を立てるのが普通と思われるのに、月日迄見ると死の1年半も前に「墳」を作っている。各年月日が正しいものなら、「死期を察した神南邊が郷中の人々に伝えると、村人は「墳」を予め用意した。彼の死後に、村人が地蔵風の石像にその命日を刻み、「墳」石の上に載せた。」と考えられる。
2.3.中央図書館
大仙古墳に向け出発します。堺図書館には私的ではありますが、多少縁があり、久方ぶりの訪問となります。裏道最短距離をと思いまたしてもジグザグコース。おかげで時間をロスしました。何時もの事ですがナサケナイ。
『堺市史』の記述はある資料を転記しただけで、その元資料の記述に誤りがあった。その資料とは『堺史談會誌』同会、明治36(1903)年刊、と上で述べたものですが、その記述が非常に頼りないものである事が分かりました。「神南邊」の記述は二ヶ所にあり、第一巻に「道心の俗名郷貫及び在俗中の職業、並びに其堺にありし年代を知りたし」とし、第五巻で、旭蓮社をブラブラしていると「本堂の前面に対し石地蔵の座像あり、座石に『神南邊大道心墳』像の脊(せ)に『與譽仁恕隆光法子』その右に『天保十二辛丑年、二月二十日示寂』と鐫(せん)せり…」とし、その後、住職に聞いた話を書いている。
即ち、「チョット見かけたので聞いてみた。」程度の記述なのです。当時座像がどの程度近くで見ることが出来たかは分かりませんが、現在では非常に読み難い状態です。
これを文明の利器で読んでみると、間違いであろうと出来る。私には『與譽仁恕隆光法子』、『天保十二辛丑年、九月十日示寂』に見えます。
都合三ヶ所で余裕のある堺探索でした。堺東から帰る事にします。
3.四回目、河内・和泉を一気に
2024/2/8、下調べも終わり、第四回目です。『神南辺隆光と関係石造物』に石造物の一覧があり、無紀年銘の作成年代を決める手掛かりを得る為に、その中から紀年銘を持つものだけをピックアップし、紀年銘の確認をする事にしました。相当な量になりました。探し漏れのないよう、グーグルマップにマイマップを予め見当を着けた状態で作成し、出来るだけ効率よく回るルートを考えます。又、通った事の無い主要道も考慮に入れた結果。
中高野街道から、河内長野を目指し大阪に帰ることにしました。
マイマップは随時更新しています。記事とのタイミングは一致していません。2024/5/15完成
今回の最大の目的、「法恩寺の扁額」が見れませんでした。何時か現物を確認しなければならないのですが、資料『神南辺隆光と関係石造物』月山渉に依ればほぼ読み取ることが出来ないようです。でも自身で確認したいので後日とします。下に『狭山町史3巻』の写真を載せて置きます。テキスト形式で見たい方はこちらを参照下さい。
4.五回目は茨木市
2024/2/13,5回目ですが、茨木市内に宝篋印塔がある事が分かり、ここへいきます。ここも又、過去に何回か行ったことのある寺です。これは、『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、には載っていません。
この大恩寺の門前には「茨木市安威3の道標」が有ります。その他に見つけられない何基かの道標も近辺に有るか、有ったと過去形になるかも知れませんが、度々訪れているのですが、この様な形で来るとは思ってもいませんでした。
今日は、この目的だけですので、ゆったりと探せます。境内墓地に有るはずなのですが一度道路に沿って東側に回り込んで急坂を登ると、居住部分へのアプローチで、ここから入るのは気が引けます。
山門下の階段迄戻り、正面から堂々と進む事にします。神社は気兼ねなく入れるのですが、寺は時として入山に「断り」が要る時があり、あまり好きではありません。でもお墓は好きです。
さて、ここの山門はと言うと、インターホンも無く大きく開いており一安心です。一礼をし、正面本堂に参拝し、墓地はと見ると左手(西側)に有ります。「宝筐院塔」らしいので探し易いと高を括っていたのですが、何基かあるものの、目指す銘が見当たりません。
取敢えず、一番大きそうなものをジックリと見るが無さそうです。他も見るが有りません。元に戻り、墓石をお掃除して怒られることは無いだろうと、歯ブラシでコスる事にします。帰ってからwebで宝篋印塔の各部名称を見ると、上から、相輪、笠、塔身、基礎、基壇、とするらしく、これに依ると、塔身の梵字部分は汚れが少なく、以下、下に向かうほど汚れは強くなっています。基礎部に彫られる銘は、余り掃除をしなくても「西國三十三度供養塔」と分り、これが探す石であろうと、思わず力が入ります。北面の「天保五甲午三月十八日」も読め、紀年はゲット出来ました。しかし探す「神南邊」は基礎部にありません。
紀年銘を持つ四角い石を基礎部とすると、その下の蓮華座風に彫られた石からが基壇部となり、その基壇部の下側は二石を並べて、平面正方形に成るように作られています。蓮華座風の石を磨くも何も出てきません。ガッカリしながら更にその下の二石に取り掛かります。赤茶びて字が彫られている様には見えませんが、念のためと擦ります。
では、見て頂きましょう。何、よく読めない。そうですが、次の様に読み下しました。私としては目的達成です。ただ気がかりが一点、移設の可能性が高く、基礎部と基壇部が同時に作成されたものかは注意を要する。
帰りに、安否確認をしたい道標数基と、この門前に有った石が案内する「藤原鎌足公古墳」を訪ねて今日の終わりとしました。その結果、「東福井2の道標」が2m程東の溝側に移設されていた事、生垣などが刈られ見易くなっていたもの二基が確認出来ました。
5.六回目は堺の補完
2024/2/28、住吉大社の「神輿台」等の撮影と、一ヶ所漏れていた、法明寺の橋を見る為、もう一度行きます。
訪問予定が沢山有ります。書き出してみましょう。
1.住吉区大海神社
2.上住吉浅澤神社
3.墨江地蔵寺
4.住之江区安立長法寺
5.戎の町東菅原神社
6.熊野町東常安寺
7.宿院町東宿院頓宮
8.宿院町東長谷寺
9.寺地町東4旭蓮社
10.西湊町船待神社
11.三国ケ丘方違神社
12.住吉区大聖観音寺
13.阿倍野区安倍晴明神社
6.七回目は住吉大社
2024/3/9、再度、7回目のトライの必要ができました。
忘れ物二ヶ所、写真が良くない二ヶ所、更に神南邊以外の人物から年代のヒントとなる石造物が見つかり、それを確認しに行きます。
6.1.綱敷天満宮
6.2.法明寺の橋
石の大きさは、東側石、長さ257x幅66x厚17㎝、東側接ぎ石長さ55x幅66x厚17㎝、西側石、長さ311x幅67x厚17㎝、橋の幅354㎝で、当時としては相当大きなものと出来そうです。
6.3.大海神社神輿台
6.4.住吉大社、山上宮門大夫
6.5.浅澤神社
7.八回目は吉野山
2024/3/15、行ってきました。兎に角大変でしたが一応目的は遂げられたと思います。多分往復で20㎞以上の山歩きでした。遠足気分でウキウキが止まりません。時間の都合で阿部野橋からは準急吉野行です。急行と名が付くのに義理堅い電車で、あちら、こちらに停まります。古市あたりからは各停であったかも。ただ今日がダイヤ改正の直前日であったらしく、明日以降はもっと便利になるかも知れません。撮り鉄では有りませんので、途中の写真はありません。駅名は大分覚えました.下市辺りでは通学列車のような状態でしたが、吉野駅には3人ほどしか降りなかったと思います。キップをどうしたら良いか悩む改札です。
今日の予定は、竹林院近くの「神南邊」の道標、金峰神社過ぎの「折屋」の道標。すぐに折返し、近鉄吉野から壺阪山で下車し壺阪寺の「神南邊」の百度石、以上三基を見る事です。
今日、吉野山迄来た目的はもう一つ有りまして、この先、金峯神社近くに建つであろう「大坂新町、折屋」さんの道標を探しに行くことが2番目の目標なのです。まだ数㎞有ると思うのでそちらに向かい、帰路に調査する事にします。
7.1.折屋の道標
ここからは、神南邊の石造物とは関係が無く、詳細は別項として約45分「折屋甚蔵、むめ、折屋徳兵衛、えい」の4名が文政十(1798)年に建てた道標を調べました。
概略だけ書いておきます。
「折屋」が関係する道標が西宮に4基、尼崎に1基あり、何れも甲山の神呪寺に関連している。ただこれらの道標に紀年銘が無く、参考にした資料に書かれた年代が余りにも危なげなので、以前から何か確証が得られるものが無いか探していたものです。大分前になってしまったのですが、web上で「折屋」の後裔の方と思われる記事を見つけ、吉野に道標が有るらしい事を知り、この度ようやく機会を得た(単に手を抜いていただけ)ものです。
そして、嬉しい事に、建立年と更に4名の関係が想像できる道標でした。唯一つ残念だったのは、石の状態と字の彫刻の仕方から再建されたと思われる点です。古い石も残しておくか、無くなったものであれば再建である事を明記して欲しかった。但しこれは私見で「再建」が確定した訳ではありません。取り敢えず紀年銘を改竄する事は無いと思うので、長年の疑問点解決の糸口はつかめました。
7.2.神南邊の道標
13:19、出発。約30分の作業時間は、通常行に比べ短かく半分程度になっていたようです。先を急ぎます。この時点で予定より1時間遅れです。壷阪寺へ行けるか気になるが、少し観光気分も味わいたい。
14:53、焦っていて壺阪山駅の写真が無く、到着時刻(14:53)はタイムラインより。バスが有るはずなので発車時刻を確認しに行きます。一応駅前ロータリー風の所にバスは止まっていますが路線バスかどうか分かりません。次のバスは15:20発のようです。40分ちかくあります。事前に調べて寺迄5km程と分っていたので、歩く事にします。頑張ればバスと同じ頃に着くのではと考え、最短と思われる国道169号を進みます。本当は旧道を行きたかったのですが。
7.3.壺阪寺の百度石
神南邊の石造物に関しては70件以上も残っているらしいのですが、私の確認した40件強の中で、紀年銘を持つ最古のものでした。彼の没年が天保12(1840)年9月10日とあり、この石が1817年なので、23年遡ることになります。年齢は分からないのですが、60歳で亡くなったとすれば37歳の働き盛りの頃となります。
又、神南邊隆光と署名する「隆光」最初の石造物にもなります。
詳しくは「まとめ」を参照下さい。
寺を出て、バス停の時刻表を見たのが16:30、バスはもうありません。バス停の横がハイキング道である事を寺の方に確認し迷う心配も無いとお聞きしたので、これを下り、高取町の旧道も歩いてみることが出来ると、喜んで?下り始めました。登りにこのルートを選択しなかった事が良かったと分かる下り道を一気に降ります。
7.4.高取町旧道
写真を撮り忘れたので時間が分かりませんが、17:28頃の到着であったと思います。15分程待ち阿部野橋行き急行に乗りました。来た時の準急は律儀な電車でほぼ各停でしたが、急行は古市を出ると、次は終点まで止まらなかった。興奮の為かウタタ寝もせず日の暮れた大阪へ到着。先週阿部野橋駅に「吉野周遊キップ」を買いに行ったのだが、駅員さんに「泊りがけでなければメリットが無いですよ、それに特急券も要らないのでは」と言われたのが納得いきました。阿部野橋駅到着が18:45でした。
以上で吉野への楽しい一人遠足は終わりました。昔、林間学校か何かで蔵王堂へ行った覚えがあり、半世紀以上ぶりの訪問でした。お疲れ様でした。