宝塚(有馬道)
大坂から1800年出立の想像で歩いてきた続きが始まります。神崎の渡しを過ぎて伊丹郷町を通過する道を「有馬道」とし、神埼町12で西に分かれた道を、便宜的に「有馬道(間道)」として方や鴻池村、間道は新田中野村から、安倉2の通称「姥ヶ茶屋道標のある辻で合流後、有馬を目指す道としたものです。同時に両方を歩くわけにはいきませんが、日を改めたものとしてご容赦ください。
市域で区切っているので「有馬道」は天王寺川を西に越えたところの「安倉南4の道標」が最初の案内となり、二番目がこの辺りでは一番古い道標とされる「姥ヶ茶屋の道標」になります。ここで二本の道が合流し有馬を目指すのですが、川面から生瀬に出るあたりであやしくなります。先にお断わりして進みましょう。
伊丹の「有馬道」の項で、鴻池から安倉への旧道が横断できなくなっており、西に迂回して、天王寺川を西に越えた地点の横断歩道を渡り、川沿いに80m北に進み「安倉南4の道標」としたが、もの好きな方は信号の横断歩道を渡って、県道を東に40m戻ると旧道の続きを歩くことができ、110m道なりに進み三度めとなる天王寺川を「向林橋」で渡ることになります。
この道標は旧道を南東から来て正面に「右、中山」を案内しこちらが主にみえます。南西面には「左、こはま…ありま」としており、享保21(1736)年の作であれば、目に出来たはずで、有馬へは道なりに進みます。この辺りではあまり見ない緑がかった大谷石の様に感じますが当てにはなりません。大きさもそこそこで、字もきれいに残っています。願主は「大坂住」とだけあります。
左の写真は南西面の拡大、左側に「阿り満…」は変体仮名「有馬、但馬」
「安倉南4道標」を北西に200m、左(南)から来る有馬道(間道)と合流する三ツ辻の直前です。左(南)側の小さな祠の中に「安倉南4姥ヶ茶屋(ばんがちゃや)の道標」があります。地蔵さんなどもならんでいます。市の指定文化財にもなっているようですが、肝心の案内や、紀年部分が良く読めません。挑戦してみてください。市のホームページには県下最古の道標としています。
「姥ヶ茶屋(ばんがちゃや)道標」辻から北西に100m下ノ池公園の入り口に突当ります。旧道の痕跡は多分ですが、入口を入りすぐ左手(西より)に分かれる遊歩道になり、公園北の東西の道への出口で終っているとおもいます。マニアの方はぜひ歩いてください。一般の方は公園南入り口から西に50m行き、県道142号(いちょう筋)の安倉南1交差点を右(北)に折れ200mの安倉中4丁目交差点に進んでください。旧道マニアの方と此処で合流します。ここから北390mは旧道はなく、現R176(中国道脇)の安倉交差点の南80m地点に西に分岐する旧道が現れます。目印は何もありませんが、旧道の左(南)側に細い水路がありそれらしく感じます。この三ツ辻から西へ道なりに170mの現R176上安倉交差点を北に渡ります。広い交差点から松林寺の西を通り北に50mの右側(東)安倉第一会館の植込み北側に自然石の「安倉北2の道標」があります。辻ではありませんので移設されたものでしょう。
「安倉北2の道標」に「右、大坂ミち/左、京ミち」とあり、右は私たちがたどって来た道「ありま道」を指すのは間違いないでしょう。「左京」への道をどれと解釈するかによって明治の地図上では三ヶ所ぐらいの候補地があげられそうです。元位置の推理は楽しいと実感できると思います。
次は「小浜(こはま)宿」を目指します。明治の地図では会館北側から西に出る道も見えるが、太く(達路以上)書かれた道をたどります。天保国絵図等もこちらの感じがします。
道標前から北に200m進むと中国自動車道で道が無くなりますが、迂廻路がもうけられています。右(南東)に20下ると高速をくぐる地下道が設けられており北に抜けます。抜けて北西に側道を道なりに450m進むと四辻があり北東部に「小濱村道路元標」が立っています(右写真参照)。この辻を左(西)に折れ再度高速をくぐり道なりに170mで「小濱宿東門趾」(道の南側)につきます。
ここからは宿内となり昔の雰囲気を残しつつも広い道になってしまっている。村中であるが明治の地図でも主要道がたどれるように書かれているのでその道順とするが、宿内にはその他の道にも道標が残されております。
東門跡から70m西へ突当り三ツ辻となり北東角に「小浜5丁目8の道標」がある。三ツ辻を右(北)に折れ30m、左手交番の三ツ辻の東部に「小浜5丁目8交番東の道標」がある。この辻を左(石)折れし右手(北側)に札場をみつつ西に80mの四辻へ、この辻南東部に「粉浜資料館」が有りこのうち庭に「小浜資料館1/4(北端)の道標」をはじめ四基の道標が保管されています。係りの方にお願いするとこころよく案内していただける。
摂津名所図会8巻「川辺郡(下)」の「小濱駅」に「昆陽荘都会の地也、町名七、属邑(村)四、交易の商人(あきんど)多し。豊太閤有馬入湯の時、旅館としたまふ故家(こか)今にあり」からすれば、ここで一泊したようで割とのんびり進んだものか、翌日の行程がきついので都会に泊まって英気を養ったものかも知れない。私たちのように徒歩では無いと思うのだが。
「粉浜資料館」前の四辻を西に50mほど少し下って正面に「小浜5丁目4皇大神社の道標」があるが、有馬道はそちらへ向かわず資料館前を北に折れます。170m三ツ辻突当りを左(西)折れ、40m突当り三ツ辻を右(北)折れし、50m右手(東側)に小浜宿北門跡がありここで宿場町を出て大堀川の橋を渡り60m変則四つ辻南東部に「米谷1の道標」が立つ、ここからは米谷村となります。又、橋を渡る手前で左下(西)へガケを下る道が「イワシ坂」と呼ばれ明治以前はここを通行していたされる。現在でも徒歩なれば可能ですが川まで下りて再度の登りとなります。
少しはずれて南へ
この他、今通って来た「ありま道」沿いではないが、上記「小浜5丁目4皇大神社の道標」と、そこから南へ100mの東側に南門趾があり、それから50m南に下った四辻南西部に「小浜5の道標(大へん古い道標)」が立つ、西に折れ「首地蔵」を南に廻り込み宝塚新大橋の北で武庫川を渡り伊孑志(いそし)に出る道が西宮道とされる。真っすぐ南進する道は明治以降と思われる。「左ハの(道)」は学校下を通り、安倉村へ続く。
「ありま道」にもどって
国府橋北詰の変則四辻からつづきます。ここで「ありま道」は西に曲がり30mの左手(南側)に旧和田邸があります。米谷村の庄屋さんの一人だったそうで、市に寄付された正宣さんは2021年3月にお亡くなりになられました。お悔やみ申し上げます。
ここに、一時的ではあると思いますが「米谷1-4の道標」が置かれています。元は170m西の三ツ辻北西部に立っていました。写真左上。
これをしり目に道なりに旧和田邸より560m進むとJR宝塚線の踏切に出ます。踏切と旧国道を越え西に道なりに進むと50mで三ツ辻となり、「ありま道」は北西に分岐(歩道を行けば道なり)します。分岐し北西に90mで今度は阪急宝塚線の踏切となり、これを渡り、踏切からやや上りながら220m地点が三ツ辻となっており、北から急な坂道となり下って来た巡礼道と合流します。「ありま道」から見れば分岐点ですがこの北西部に「清荒神3の道標」が立ち「中山道」と案内しそれを裏付けています。
巡礼道には進まず、40m西に進むと清荒神参道と交差する四辻に出て北東部に「清荒神3-4の道標」、少し離れて鳥居左に「清荒神3-2の道標」が見えます。参詣道を北に行けば丁石があり、三宝荒神さんもおまいりできますが別の項にします。
寄道をせず、更に西へ道なりに進みます。この辺りを明治の地図では「六軒茶屋」とあり、天保国絵図には西に一里塚があったようです。山裾の等高線をたどるようにウネウネと進みます。川面(武庫郡)に入り530m地点で右手(北)に皇太(こうたい)神社がありその南に四つの街道名が案内されているが近世の「西宮道」とするなら少し疑問かもしれない。
現JR宝塚駅の北を過ぎ、少し下りにかかって一後川にかかる小さな橋を渡り、1.5㎞地点では左(南)から武庫川を越えてきた西宮道が合流し、1.6㎞あたりではブドウ池の西(西宮市東生瀬)を北西に進み、生瀬橋の東詰めのやや東JRの高架下(惣川の東辻)に2.0㎞で着きます。
有馬道は明治の地図から見るとこの辻からJRを西に越て生瀬橋で川を渡り生瀬村中(有馬郡)に入ると思われますが、近世には三田、播磨方面への抜け道がこのあたりから分岐していたともされ興味ある辻になります。宝塚市域はここまでとなります。
参考:有馬道に関しては生瀬に向かうのが普通と思われるのですが、三田や播磨への主要道となると、上記の三ツ辻を左(西)に川を渡るか、右折(北西)れして青野道(現在不明)へ進むか、意見の分かれる地点ではないかと思います。詳しくは別項に譲りますが『源右衛門蔵』10巻(宝塚の古文書を読む会編)の「生瀬村を通る二つの道」石川道子に詳しく述べられていて、時代に依れば4本ものルートがあったようです。他に『宝塚市史』第二巻にも書かれており、いずれも宝塚図書館で見ることが出来ると思います。
2021/10/4 作成