神南邊(4)
岸和田方面へ
1.始めに
24/3/27、?回目です。泉南方面は初めてとなります。この方面では堺市の大鳥神社まで行ったことが有りますが、その先は未知の領域です。果たして無事に帰ってこれるでしょうか。
目標は二地点です。当初岸和田のみと考えていたのですが、参考資料を見直すと、和泉市にもう一件、ついでと言っては何なのですが「葛の葉町の千度石」が有りました。和泉市の他の石造物が山中と思える住所のなかで、これは「町」ではないか。早速地図で検索しますと、予想通り岸和田行の途中で寄り道可能にみえます。北からだと、順番的にはこちらが先になりそうです。マイマップに印を付け、いざ、出発です。
2.浜寺公園辺り
国道26号ではなく、海に近い道を進んだため、浜寺公園の東を通過しました。阪堺線の終点?を見ながら、一度通った気もするがデジャブかと疑いつつ、ここでGマップのナビ機能をオンにし更に南下します。「左方向です」の指示が何処を曲がるのか分からず、羽衣交差点で左折(東折れ)し、後はスマホの指示通り、路地から路地へ、名前の分からない公園を抜けた辺りからは覚えていません。何しろ道が曲りくねり、木の枝の様に分かれた道を進んだことだけを覚えています。幾度か立ち止り地図も見るが、正しいのか判断も出来なかった。
国道26号に出たようです。右に大きな交差点(葛の葉町北だったようです)、頭上には高速らしき道が有ります。ナビは「左方向です」と言うが、どう見ても右です。地図を見ると西側に南へ向うやや太い道があり、この大きな交差点を回避する様に見え、カーディーラを廻り込み100m程西の交差点で高速の下を南に渡りました。100mも進まない内に国道26号に出て、「葛の葉町」交差点を見て一安心です。
3.信太の森
3_1.「恋しくば…」のうた
「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」について。
旧く、室町時代中期頃に撰述された『ほき抄』にあり、「神詠」と注する書があるとして、『日本古典偽書叢刊、第三巻』深沢徹、2004年刊を見ると、それに添付されている「第3巻月報2004年3月」(表紙と見開きの間に挟み込んだ小冊子)に明確な答えがある様に思う。三名の書評の様なものが載せられており、『ほき内伝金烏玉兎(きんうぎょくと)集』全五巻の解説が詳しく述べられており、その中の一人、旭堂故南陵の文に「上方に伝わる神道講釈「安倍晴明伝」も、講釈師が作り上げた一種の偽書と言えましょう。」とあり、これが全てでしょう。
本文中の『ほき抄』中に「すでに童子三歳の暮れ、歌を一首連ね給ひていわく、恋(コヒ)しくば尋(タツ)ね来てみよ和泉(イツミ)なるしのだの森のうらみ葛(クツ)の葉(ハ)、と読み給ひて攫(カ)き消(ケ)すやうに失せにけり。」とあり、この作者が創作したものであろう。
講釈師の台本がどのようなものかは知りませんが、浄瑠璃、歌舞伎の物は、本として見ることが出来、『日本戯曲全集、第二六巻、義太夫時代物集』春陽堂では「延宝六(1678)年二月の土佐浄瑠璃「信田妻」に端を発する」や、『新日本古典文学大系93』岩波書店では「芦屋道満大内鑑第四」の解説に「新古今集・雑下の赤染衛門と和泉式部の返歌にヒントがある」としている。
『名作歌舞伎全集、第三巻』監修河竹登志夫、127Pにあっては舞台上の障子に書かれた一部裏書の写真も載っている。尚、劇中では前半部分を「保名(晴明の父)が詠み、後半「信田の森の恨み葛の葉」は庄司(葛の葉姫の父)のセリフとなっている様である。又、この本の解説「芦屋道満大内鑑」戸板康二に、「古浄瑠璃の「信太妻」を粉本(おぼえとして模写したもの)としたもの」とあり、浄瑠璃の方が古いと思われる。
何れにしても、『ほき抄』寛永四(1627)年古活字本が最古として残るようで、これ以前の裏付けは採れないようです。
尚、「ほき」を漢字で書くと「簠簋」となる様ですが、『大字典』講談社では「フキ」と読まさせ「稻粱、黍稷を盛りて祭祀に供ふる器」としている。(稻粱(とうりょう=いね、あわ)、黍稷(しょしょく=何方もきび)の意らしい。)
私の結論としては、歌に詳しい浄瑠璃台本作家が、ウケを狙って創作したセリフ(歌)で、これが受けた為に歌舞伎、落語等に波及したものとする。
ただ、葛の葉稲荷神社に願掛けをする人にとっては、歌の出自など関係なく、あの有名な安倍晴明の母なれば、その霊験たるを頼む事こそが重要であると思われます。
「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」について。
旧く、室町時代中期頃に撰述された『ほき抄』にあり、「神詠」と注する書があるとして、『日本古典偽書叢刊、第三巻』深沢徹、2004年刊を見ると、それに添付されている「第3巻月報2004年3月」(表紙と見開きの間に挟み込んだ小冊子)に明確な答えがある様に思う。三名の書評の様なものが載せられており、『ほき内伝金烏玉兎(きんうぎょくと)集』全五巻の解説が詳しく述べられています。その中の一人、旭堂故南陵の文に「上方に伝わる神道講釈「安倍晴明伝」も、講釈師が作り上げた一種の偽書と言えましょう。」とあり、これが全てでしょう。
本文中の『ほき抄』中に「すでに童子三歳の暮れ、歌を一首連ね給ひていわく、恋(コヒ)しくば尋(タツ)ね来てみよ和泉(イツミ)なるしのだの森のうらみ葛(クツ)の葉(ハ)、と読み給ひて攫(カ)き消(ケ)すやうに失せにけり。」とあり、この作者が創作したものと思う。
講釈師の台本がどのようなものかは知りませんが、浄瑠璃、歌舞伎の物は、本になっていて、『日本戯曲全集、第二六巻、義太夫時代物集』春陽堂では「延宝六(1678)年二月の土佐浄瑠璃「信田妻」に端を発する」や、他に、『新日本古典文学大系93』岩波書店では「芦屋道満大内鑑第四」の解説に「新古今集・雑下の赤染衛門と和泉式部の返歌にヒントがある」としている。
『名作歌舞伎全集、第三巻』監修河竹登志夫、127Pにあっては、舞台上の障子に書かれた一部裏書の写真も載っている。尚、劇中では前半部分を「保名(晴明の父)が詠み、後半「信田の森の恨み葛の葉」は庄司(葛の葉姫の父)のセリフとなっている様である。又、この本の解説「芦屋道満大内鑑」戸板康二に、「古浄瑠璃の「信太妻」を粉本(おぼえとして模写したもの)としたもの」とあり、浄瑠璃の方が古いと思われる。
何れにしても、『ほき抄』寛永四(1627)年古活字本が最古として残るようで、これ以前の裏付けは採れないようです。
尚、「ほき」を漢字で書くと「簠簋」となる様ですが、『大字典』講談社では「フキ」と読ませさせ「稻粱、黍稷を盛りて祭祀に供ふる器」としている。(稻粱(とうりょう=いね、あわ)、黍稷(しょしょく=何方も、きび)の意らしい。)
私の結論としては、歌に詳しい浄瑠璃台本作家が、ウケを狙って創作したセリフ(歌)で、これが受けた為に歌舞伎、落語等に波及したものと考える。
ただ、葛の葉稲荷神社に願掛けをする人にとっては、歌の出自などに関係なく、あの有名な安倍晴明の母の事となれば、その霊験たるを頼む事こそが重要であると思われます。
3_2.千度石
これからが本題です。「神南辺」はどのように係わったのでしょう。「取次」として裏面に書かれています。では「取次」とは何でしょうか。分かり易いのは「施主」建築主。「願主」願をかけるぬしならば、施主と同じでしょう。次に「発起」がありこれは思いついた方を示すものですが、多くは「勧めた人」と思われお金を出してはいないように感じます。
では「取次」とは何でしょう。この人の関連する石像物では「執次」と書かれる事が多いと思うが、同じとします。『広辞林』によると「両方の中間に立って物事を伝える」とあります。両方とは、一方は施主で疑いなく、もう一方は置かれる側、即ち神社や寺、それを管理する人と考えます。依って、この両者の間の世話掛りを示すとします。手間は要りそうですが、お金は出さないで済むように思います。千度石の詳細はこちらへ、神南邊の石造物まとめはこちら参照。
4.岸和田、たこ地蔵
さて、次を目指します。又、ナビを頼るのですが最初はエエ加減に行きます。地図では分からなかったのですが、割と傾斜のある地形で西に向け下っているようです。26号に出て南下します。途中槇尾川を渡ってから大津川を越えるまで、歩道が高架になっていて驚きました。高架の終わりから、紀州街道を目指し徐々に西側へと向かいます。新条小学校の西を過ぎて、ナビが「右方向です」と言うので、案外近かったなとそれに従うと、南海本線春木駅の南踏切に出ました。電車が来ていたので南に折れ次の踏切で渡り、道なりに南西を行くが、府道204号に出て、これを南下する事にします。ナビが又「右」を指示するので、知らない間に紀州街道を横切ってしまったようで、府道29号大阪臨海線に出てしまった。これを南に進むと大きな交差点になり「左26号」の案内を見て東に折れました。
交差点北東部の歩道上に道標があります。帰りに見る事にしましょう。今は急ぎます。
東に折れ、すぐ次の辻を南折れし路地裏道を道なりに進むと、真っすぐに進めず蛇行したとたん、広い道に出て三ツ辻に突当ります。正面はお寺の様な建物があり、これが目的地かと思ったがナビは「左方向です、続いて右方向です」と案内します。それに従い再び南向きの路地に入ると、西側に目的地の「天性寺」が有りました。寺が南北に連続してあるようです。
山門を入るとすぐ右手に「百度石」があり、百度と書いた面が本堂を向きます。多分本来の目的を果たす方向を向いている様に思える。百度石の詳細はこちら、神南邊の石造物まとめはこちら参照。
5.岸和田城
岸和田の町中で紀州街道は、府道204号でもなく同29号でもなく、その間にある細い道のようで、所々にある案内が無ければ見逃してしまうでしょう。幸い来る時に一度は見落としていたが、その後見つけておいた辻まで戻ります。一度この道に乗れば後は道なりで迷う事は無いでしょう。但し、泉大津駅の西で現府道204に吸収されすぐに西に分岐する地点は分かり難かった。その後400m程にも同じ状況が見られ、「松之浜町二丁目9」とある電柱から再度分岐する地点は事前に調べておかないと、逃すことになりそうです。
この後、「こたかいしはし」を越えては府道を横断し、高石神社前までは東側を通ります。それからは府道に吸収され味気ない道を北上するだけです。
次の難関は浜寺公園です。阪堺線の「浜寺公園駅前」の横断歩道を東に渡って府道の東側を進まなければなりません。旧道はこの交差点から北500m辺りで東に分岐するのですが少し進むと行止りです。依って府道204号「諏訪森町西3丁」交差点を東折れし阪和線の踏切を越えて北折れする事になりますが、この後は紀州街道追跡は止めました。
府道204号を北上します。「出島」交差点で東に折れ、ナビの指示に従い御陵通りを進み、山之口橋から階段状に進み、旭蓮社の南門に到着しました。今日は挨拶なしに正門から入ります。岸和田は思った以上に遠かった。
6.堺、旭蓮社
2024/3/27日、15:16、光線の条件が良く、3回目にして上手く写真が撮れました。像の背中の文字も明確に読み取れます。やはり『堺史談会誌』の誤読(誤植かも)が分かりました。これを丸写しで載せる『堺市史』も如何とはおもいますが、神南邊の示寂日に諸説あるとする、諸説の一つを消すことが出来ました。今後、この両書籍を出典とする説は無かった事にして良いでしょう。
15:52、本日最後の目的地に行けそうです。図書館はまだ開いている時間です。
16:50、図書館を後にしました。