丹生山丁石一覧
1. 始めに
2. 起点
表参道は、東西に走る県道85号(神戸加東線)の市バス丹生神社前停留所から、鳥居を潜り北に分岐します。鳥居東には「丹生神社」社標が立っており東横には案内図も掲げられています。道もよく整備されており楽しく参詣出来ることでしょう。
もし藍那古道を通って参詣をと考えておられる方は是非とも「山田町東下の道標」を見てここに来られることをお勧めします。
では、鳥居を潜って北に進みます。直進ではなく道が西に曲がっているのは古くからの道を感じさせます。北に志染川へ下り「麓橋」を渡り直進すると、丹生神社宝庫前の三ツ辻になり、北側道の正面に地蔵が置かれ、この基壇石に「従丹生山廿五丁」「明和七庚寅天三月吉日」と施主二名の名が刻まれています。吉日が1日だとすると1770年3月27日火曜日になりそうです。これは江戸中期になるでしょうか、これから巡る丁石の由来を見ると「清盛」福原からの参詣等と関連付けられ一般的に古い(『山槐記』治承四年十一月二十一日(G暦1180/12/16火曜)には福原に居た)印象を持つが、webで検索すると「この丁石は清盛の頃のものでなく、後世のものである。」とする記事を見つけたが、根拠は示されていなかった。清盛説なら平安期の建設となる。
尚、丁石の特徴として起点等の石には銘を刻むが、途中の石は丁数だけとする場合が多く、この時途中の石は起点の紀年銘と同じと考えられる。
但し、何基かの丁石は、他の面に「自丹生山…丁」と彫られており、これが正面の彫りより古く見える。追刻等と考えれば、最初の建立は江戸中期より古いと出来そうです。
勝尾寺1丁
余談ですが、『箕面市粟生間谷表参道の一丁丁石』が同様の様式を持ち、こちらは勝尾寺の文書から宝治元(丁未)年十一月、鎌倉時代、後深草天皇、執権北条時頼、西暦1247年12月頃とされ、是より古い丁石となるが、この石よりは風化の度合いが進んでいないように見える。
3. 25丁へ
25丁を地理院地図で見ると標高160m辺り、丹生神社が550m程度と見えるので390mを25丁(2.7km)で登ります。平均斜度14%となりますが、11丁から5丁辺りが苦しい所でしょう。
4. 想定24丁と現24丁
5. 24丁は一石ではない
現登山道に従って「き-2-4-2」地点から西に分岐し、厳島神社を迂回する様に回り込みます。回り込む道が北から東に向きを変える地点の左側(山側)に現24丁丁石が置かれています。
6. 23丁へ
7. 22丁へ
8. 21丁へ
この21丁丁石の上部と下部の間に接着剤があり、折れたものを接いだものか、24丁の様に二石に分かれた上部が離れないよう止めたものか判断が付かない。地輪(下部)の途中にある折損部分は綺麗に接がれており接着材は見えていない。
9. 20丁へ
10. 19丁へ
11. 18丁へ
12. 林道合流点
13. 17丁
14. 鉱山道分岐
15. 16丁は梵字を持つか
16. 15丁、紀年銘を持つか
17. 14丁へ
18. 大日如来碑
14丁過ぎの大日如来碑を見て思ったこと。何の目的か何時建てられかは分かりませんが、多分現林道が整備される前から置かれていたとしたら、元々の位置のままであろうか。少しセリ出した岩を切取り、祭壇のように窪ませ目の高さ辺りに置かれるのは、道が削り取られた事を示すとし、昔は左右のウネリや高低があった道だった考える。これにより現在の道は旧い道より直線的になり行程が短くなっている。依って丁石をほぼ元の位置に置くと1丁より短くなるという事態が起きる。
しかし、次の13丁迄は丁度1丁の距離であった。
19. 13丁
13丁は完形で西面に「従丹生山十三丁」とあるのみの簡潔型である。
但し、水輪部各面に梵字が刻まれているように思う。
20. 門下橋と12丁
13丁から丁度1丁に門下橋が架かる。橋を渡った正面に12丁丁石が建ちます。橋が架けられた為、西に10m程移されたと思われます。表参道では唯一の渡河地点になります。橋の名前からすると昔は右岸に渡ったのち、山門が有ったのでしょうか。
21. 延命地蔵の三ツ辻
門下橋を越えて林道(表参道)は右岸を北上する。12丁から80m辺りで三ツ辻となり、参道は西に分岐し、林道は北へ直進する。この辻の北西上部に延命地蔵が置かれ、南西部には現在の案内標識も建ち、「き-2-4-5」地点とあった。
西に取り20m程登った右(北)側に11丁が建つ。手前には「史蹟丹生山」碑、先に丹生山橋等もあり賑やかな地点である。