丹生山丁石一覧

丹生山の丁石の内、まずは表参道です。2023/6/26作成中

1. 始めに

明治の地図に丁石等を示す

その前に少しお断わりしておきます。
 丹生(たんじょう)山には、丹生神社がありこれを案内するものか、かって有った明要寺を目指すとするかで距離が変わるはずです。丁石に「丹生山」とするものと、「従寺」とする二種類があり、前者は主に五輪塔、後者は尖頭型角柱である。前者が神社を指し、後者が寺をしめすとした時、最も数値の近いものから到達点を求めると、前者が二の鳥居より西の社務所(倉庫かもしれない)の南側、後者が二の鳥居の東10mの三ツ辻になりそうである。

2. 起点

バス停から西を見る

表参道は、東西に走る県道85号(神戸加東線)の市バス丹生神社前停留所から、鳥居を潜り北に分岐します。鳥居東には「丹生神社」社標が立っており東横には案内図も掲げられています。道もよく整備されており楽しく参詣出来ることでしょう。

もし藍那古道を通って参詣をと考えておられる方は是非とも「山田町東下の道標」を見てここに来られることをお勧めします。

同、北を見る

明治の地図を見ると、この社標と鳥居は移設されていると思われます。多分県道の拡幅等により元は東の信号機のある辻から接続の関係で西に移動させたものでしょう。社標には距離が書かれていないので移設に支障はありません。

社標を北西に見る

では、鳥居を潜って北に進みます。直進ではなく道が西に曲がっているのは古くからの道を感じさせます。北に志染川へ下り「麓橋」を渡り直進すると、丹生神社宝庫前の三ツ辻になり、北側道の正面に地蔵が置かれ、この基壇石に「従丹生山廿五丁」「明和七庚寅天三月吉日」と施主二名の名が刻まれています。吉日が1日だとすると1770年3月27日火曜日になりそうです。これは江戸中期になるでしょうか、これから巡る丁石の由来を見ると「清盛」福原からの参詣等と関連付けられ一般的に古い(『山槐記』治承四年十一月二十一日(G暦1180/12/16火曜)には福原に居た)印象を持つが、webで検索すると「この丁石は清盛の頃のものでなく、後世のものである。」とする記事を見つけたが、根拠は示されていなかった。清盛説なら平安期の建設となる。
 尚、丁石の特徴として起点等の石には銘を刻むが、途中の石は丁数だけとする場合が多く、この時途中の石は起点の紀年銘と同じと考えられる。
 但し、何基かの丁石は、他の面に「自丹生山…」と彫られており、これが正面の彫りより古く見える。追刻等と考えれば、最初の建立は江戸中期より古いと出来そうです。

箕面勝尾寺の1丁

勝尾寺1丁

丹生山1丁

余談ですが、『箕面市粟生間谷表参道の一丁丁石』が同様の様式を持ち、こちらは勝尾寺の文書から宝治元(丁未)年十一月、鎌倉時代、後深草天皇、執権北条時頼、西暦1247年12月頃とされ、是より古い丁石となるが、この石よりは風化の度合いが進んでいないように見える。

3. 25丁へ

志染川を麓橋(40m程)で渡ります、北に丹生宝庫が見える

丹生宝庫前三ツ辻より北を見る、正面に25丁の地蔵

丹生宝庫には明要寺参詣曼荼羅有るらしく、寺の位置を確定すべく是非見たいのであるが年一回の公開とあるので難しそうである。

25丁地蔵を北に見る、広い道は右八幡神社方面へ

六條八幡神社には三重塔があり立派な事に驚いたが今日は見ずに丹生山へ直進します。

25丁から南を振返って見る、奥に続くは鳥居への道

25丁から1丁先が24丁のはず。

25丁を地理院地図で見ると標高160m辺り、丹生神社が550m程度と見えるので390mを25丁(2.7km)で登ります。平均斜度14%となりますが、11丁から5丁辺りが苦しい所でしょう。

25丁、中央に「従丹生山 廿五丁」、右に「明和七庚寅天…」と読める

4. 想定24丁と現24丁

25丁から50m北の「き-2-4-2」三ツ辻より西を見る、奥に進む現参道、旧道は右(北)へ。

「き-2-4-2」地点の三ツ辻を左(西)に折れ、登山道に入ります。但し明治の地図ではほぼ直進しているようです。つまり道が付け替えられている。現在の道を直進すると坂本厳島神社に突当りそこから先が無くなっている。地図によっては先に繋がっているようであるが今は無くなっている。ただこの道で無ければ25,24,23丁の距離が合わない。距離的に厳島神社の直前あたりが24丁と思われる。

想定24丁辺りを北に見る、上部は厳島神社の境内平地になる。

厳島神社を北に見る、この先に道らしきもの無し、旧道途切れる。

5. 24丁は一石ではない

現登山道に従って「き-2-4-2」地点から西に分岐し、厳島神社を迂回する様に回り込みます。回り込む道が北から東に向きを変える地点の左側(山側)に現24丁丁石が置かれています。

24丁を北東に望む

25丁から160m、き-2-4-2から丁度1丁の距離になるようです。

24丁南面

24丁上部を東に見る、折れたのではない事が分かる

24丁南面を見上げると「従丹生山 廿四丁」とあり、参道より高い位置に有る為上部は見えないが、斜面をよじ登り見下ろすと、何と「ほぞ穴」が開いていました。即ち上部が折れて無くなったのではなく、抜け落ちたのである。此の道の丁石は全て「一石五輪塔」と思い込んでいたのだが、24丁だけは、最低二つの石から構成されていたものとなるでしょう。一石に比べて材料費が安く抑えられたと思う。

24丁北面(裏面)は上に「自丹生山二十四丁」とあり下部に紀年銘の様なもの十六…」が見え左右にも何か書かれている。15丁、1丁丁石と同じかもしれない。詳しくは後に書きます。

24丁北面中部

24丁北面下部、紀年銘か

6. 23丁へ

24丁を振返り南西に見る

現24丁過ぎで南西を振返り見る、左(南)に旧道跡かと見たが崖になっていた。

23丁丁石は、24丁から140mの距離になります。明治の地図で測ると200m辺りになり2丁の距離として良さそうな事からこれはほぼ元位置に建っていると考えます。20m程距離が足らないのは厳島神社の西辺りの斜度がきつかった為でしょう。ただ現23丁から24丁の間に旧道跡は見つけられなかった。

23丁を北東に見る

23丁を西に見る

現24丁から1.5丁辺りに建つ23丁丁石は、多分折れた上部を下部に継足さず、右横に置いたものと見えます。他の石が多く修復されているのにこの様にしたのは、破損部分が不整合であったと解釈する。

23丁南東面

23丁北東面

23丁は南東面が道に正対しており「従丹生山廿三丁」とあり、右面やや低くに「自丹生山二十三丁」とする。この面が隠れないように右側に置いたのであろう。

7. 22丁へ

23丁を南西に振返る、この後北に転向する。

23丁から先は1丁毎に丁石が現われます。23丁では左手が山側であったが、西に尾根を越え右手が尾根筋となりそちらに置かれる。流出しないよう山側に設置するのが基本のようである。

22丁を北東に見る、道は平坦になり北方に進む

22丁北西面上部

22丁北西面、廿は十を並べる

22丁は北西面に「従丹生山廿二丁」とあるのみである。特徴としては背が一番高く211㎝であること。

8. 21丁へ

22丁を過ぎ南を振り返る

22丁を過ぎると、平坦な道は北に直進するが尾根筋の東側に移る。1丁を少し超えるかも知れないが21丁が左手(西側)にある。

21丁を北に見る

21丁を南西に見る、東面(左側)、北面の両面に丁数を刻む

21丁東面「従…廿一丁」

21丁北面「自…二十一

この21丁丁石の上部と下部の間に接着剤があり、折れたものを接いだものか、24丁の様に二石に分かれた上部が離れないよう止めたものか判断が付かない。地輪(下部)の途中にある折損部分は綺麗に接がれており接着材は見えていない。

21丁上部東面

21丁上部接合部を南西に見る

21丁地輪部の折れ痕「丁」の上

9. 20丁へ

21丁振返り南を見る

21丁からほぼ直線に北へ、地図上で1丁を少し超えるかも知れないが、20丁が手(側)にある。

20丁を北に見る

20丁を北東に見る、左側が西面になる、東面は道から見えない側

20丁西面

20丁東面

20丁は表(西)と裏面の両方に丁数が彫られ、西面も今までの様に「廿」ではなく「二十」としている。

10. 19丁へ

20丁を振り返って南に見る

20丁を出て北に尾根筋を進みます。今度は1丁弱になる様です。歩測をしていた為一度通り過ぎてしまいました。慌てて戻り進行方向に向かって撮った写真を載せて置きます。後日地図上で測ると10m程少ないようです。23,22,21丁の間が少し長かったり、20-19丁が短かったりするのは若干の移動や、道の変更があったと考えるべきでしょう。丁石の精度としては10mは致命傷です。

19丁を北に見る

19丁を北に見る

19丁東面

19丁南面

19も東面左(南)面の両方に丁数が彫られており、道に正対していない面の「自丹生山十九」の方が摩耗が進んでいる様に見える。

11. 18丁へ

19丁を振返り南を見る

19丁から北に進み、明らかに1丁行かない内(90m)に左手に地輪の途中から上部を失った18丁と思われる石に出会います。残部分に「八丁」とあり上に「従丹生山十」が書かれていたものとして、18丁丁石とします。

18丁を北西に見る

18丁上部を西に見る

18丁東面、「八丁」のみ

次の17丁丁石迄130mと間隔が長いので、今の位置より20m北が元位置に相応しいと思う。

12. 林道合流点

18丁を過ぎ南を振り返る

18丁から60m北、左(南西)からの林道と合流する

林道に出て、来た道(左奥)を振り返る。「き2-4-3」地点とある。右の案内に「千年家」とあるが県道に出た後、更に西となる。

13. 17丁

17丁を北に見る

林道に合流後北へ70m(18丁から130m)右(東)側に17丁が建つ、道に正対する面は北西面となり、左(北東)面の二面に丁数が刻まれる。18丁と同じく上部は失われているが、地輪部分は無事なようである。上部に折れ痕があり一石五輪で有ったと思われる。

17丁北西面、「従丹生山十七丁」

17丁北東面、「自丹生山…」

14. 鉱山道分岐

17丁を振返り南を見る

帝釈鉱山跡への分岐を南(下山方向)に見る、正面右に17丁石があり18丁へ。左(北東)が鉱山跡へ続く道

17丁丁石から北10mに三ツ辻があり、参道は左、右は帝釈鉱山跡へ続くようである。左(北)の林道に向かいます。分岐辻の写真を撮り忘れたので少し古い写真(’21年12月)を載せて置きます。

15. 16丁は梵字を持つか

16丁を北に見る

17丁から1丁の距離に16丁が建ちます。この辺りでは左(西)が谷になり、山腹の中ほどを進む形になり、丁石は道の右側にあります。

16丁を北に見る

16丁は西面に「従丹生山十六丁」とあるのみです。全高144、幅21、奥行20㎝、水輪18x21x21㎝、火輪18x21x21㎝、風輪11x19x19㎝、空輪12x15x15㎝と成っており折れていなければ他の石より20㎝程多く埋っていると思われる。林道が嵩上げされたのでしょうか。

16丁下部(地輪)

16丁西面上部

16丁水輪部拡大、梵字が有ったか

五輪塔は、上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の順ですが、水輪部分に梵字が書かれていたのでは無いかと思われる痕があります。五輪塔の梵字は上の五大に相当する文字が書かれるようでここなら「パ」(水)が妥当と思われるがそれなら他の部位にも彫られていたと考えたいが大きさ等で省略されたものか。

16. 15丁、紀年銘を持つか

16丁を振返り南に見る

16丁から15丁へは1丁より20m程近く、15丁が移設されたか或いは道の経路が変わったのかもしれない。何しろ道は舗装されており、ほぼ平坦である。

15丁を東に見る

15丁南西面

15丁北西面上部

15丁は南西を正対させ建っているが、この面だけが錆びたように赤茶けた色をしている。他の石と材質が異なるのかも知れない。

15丁北西面下部
右側「□主」
中央「…未…十六…」
左側「住…」

24丁北面下部
中央「…十六」とした

1丁北西面 下部
中央「未 年」とした

左(北西)面に「自丹生山十五丁」と有る他、下部に三行に渡り文字が彫られている。これは24丁、1丁丁石とよく似て、三基だけの特徴といえる。多分右側は願主又は施主の名前と思われるが、中央が紀年銘であるかも知れず気になる点であるが、読み取れていない。

17. 14丁へ

15丁を振返り南に見る

15丁から14丁の間も1丁より10m程近いようである。相変わらず左(西)はけっこう深い谷、右は山(地図では尾根に近い)となる舗装路を少しづつ登る状況です。

14丁を北に見る

14丁を北東に見る

14丁西面

14丁東面

14丁は上部が無い上に深く埋っており西面に「従丹生山十四丁」とあるのみで至ってシンプルである。

18. 大日如来碑

14丁を過ぎて南を振り返る

14丁20m程過ぎの大日如来碑

13丁を北に見る

14丁過ぎの大日如来碑を見て思ったこと。何の目的か何時建てられかは分かりませんが、多分現林道が整備される前から置かれていたとしたら、元々の位置のままであろうか。少しセリ出した岩を切取り、祭壇のように窪ませ目の高さ辺りに置かれるのは、道が削り取られた事を示すとし、昔は左右のウネリや高低があった道だった考える。これにより現在の道は旧い道より直線的になり行程が短くなっている。依って丁石をほぼ元の位置に置くと1丁より短くなるという事態が起きる。
 しかし、次の13丁迄は丁度1丁の距離であった。

19. 13丁

13丁を北東に見る

13丁水輪部、南面

13丁は完形で西面に「従丹生山十丁」とあるのみの簡潔型である。
但し、水輪部各面に梵字が刻まれているように思う。

20. 門下橋と12丁

13丁から丁度1丁に門下橋が架かる。橋を渡った正面に12丁丁石が建ちます。橋が架けられた為、西に10m程移されたと思われます。表参道では唯一の渡河地点になります。橋の名前からすると昔は右岸に渡ったのち、山門が有ったのでしょうか。

13丁を過ぎ南を振り返る

門下橋を西に見る、中央奥に小さく12丁が見える

12丁を西に見る

12丁北東面上部

12丁北東面下部

12丁北西水輪部

12丁は下部35㎝で折れているが修復されている。北東面に「従丹生山十丁」とあるのみの簡潔型である。
但し、13丁等と同じく水輪部各面に梵字が刻まれているように思う。

21. 延命地蔵の三ツ辻

門下橋を越えて林道(表参道)は右岸を北上する。12丁から80m辺りで三ツ辻となり、参道は西に分岐し、林道は北へ直進する。この辻の北西上部に延命地蔵が置かれ、南西部には現在の案内標識も建ち、「き-2-4-5」地点とあった。
 西に取り20m程登った右(北)側に11丁が建つ。手前には「史蹟丹生山」碑、先に丹生山橋等もあり賑やかな地点である。

き2-4-5三ツ辻を西に見る、右上に11丁

三ツ辻北西部の延命地蔵を見上げる、登る事可能

11丁(中央)を西に見る、表参道は橋を渡り南へ

22. 11丁は道標か

11丁南面

11丁地輪上部

11丁地輪下部(道標機能)

11丁丁石だけは他の石と異なり南面下部に道標の機能を併せ持つ。前に道標の扱いとして調べに来た事があり詳しくはそちらを参照いただくとするが、道標の機能としては疑問の多い石である。但し丁石としての機能を考えるとここに立つのは尤もと思われる。

23. 山道10丁へ

11丁を過ぎ東を見下す、右端に林道が見える

林道と別れた表参道はこの11丁地点で大きく南に回り込み丹生山橋を越えるとようやく山道となる。ここからは道がきつくなり徒歩でのみ可能である。因みに林道は裏参道と呼ぶようで神社保守のために車が通行可能らしい。
 11丁から丁度1丁に10丁が建つ。

10丁を南に見上げる

10丁を南西に見る

10丁東面

10丁を南西に見る、接着剤が残る

10丁は上部が無くなっているが折れ痕から一石五輪塔であろうと出来る。ただこの折れ痕に樹脂製と思われる接着剤が残っており最近まで上部が残っていたのではないかと思われる。持ち去られていなければ、谷間に転がっているかも知れない。
 銘は東面にだけあり簡潔型丁石と出来る。
 地理院地図で標高350mと読み取れる。残り150m程でしょう。

24. 9丁へ

10丁を過ぎ北を見下す

10丁を過ぎると南東に張出した尾根を巻く様に円周の3/4程回る。歩測ではあるが1丁より少し距離が足りない気がするが、9丁が右(北)の山側に建つ。地理院地図でもこの部分の道が少し短く外れている様に見える。

9丁を北西に見る

9丁南面

9丁地輪部南面

9丁水輪部東面

9丁も南面にだけ銘あり簡潔型丁石と出来る。又水輪部には梵字の跡らしきものが確認できます。

9丁の南面下部、基部(太い)が露出する

9丁は全高181㎝の内基部が23㎝露出しており、本来の高さが158㎝である事が分かる。他に11丁が基部を見せ177㎝、基部を見せないもの15丁で188㎝等がある事から、高さに関しては統一感が感じられない。同時建立の場合は同じ大きさで揃えることが多いと思われるので、これは作成年が不揃いである事を示していると思います。

幅、奥行きの観点から見ると、24丁を除き17~22、19~23㎝とほぼ同じ大きさである。24丁だけは26x25㎝と一回り大きい。