神南邊(6)
御室八十八ヶ所

1.始めに

2024/4/11 今日は方角が変わり、京都へ行きます。西国街道を進み、上京となりますが始めての所を通るので、興味あるものに掴まらないように心がけます。何故なら、チョットした山登りが有るはずなのです。目的は一つ、仁和寺(御室)西の「写し四国八十八ヶ所」巡りとなります。途中に道標も多く桜も満開は過ぎたとはいえ見事な所も多々あり、誘惑が尽きません。少し写真を撮るぐらいは良いと、勝手に決めて出かけます。

.梶原迂廻路~

旧西国街道の迂廻路、高槻市梶原2辺りから南西を見上げる

旧西国街道で高槻市内を抜けようとしたが、なんと工事中迂廻路に手こずる。原因はこれ、余りにも高いので写真に撮っておきます。新名神関係の工事とおもわれますが、この高さは何故なのでしょう。

長岡京市の調子八角道標を北に見る

調子八角の交差点で、旧西国街道に進みます。山城国内ですが、この辺りまでは何度か来ており迷う事はありませんが、信号を渡るのが難しい。

長岡京市馬場1丁目交差点南の旧道東側の案内板北面、

さて、始めての道を通っています。時間があれば少し寄っていきたいが写真だけ撮り、後にします。
 解説板には、江戸時代には「西国街道」ではなく「唐道」「唐街道」と古文書に見える、としています。私は「山崎道」かと思っていました。誰が建てたのでしょうか気になる所です。

馬場1丁目交差点を北に見る

この交差点までは、道なりでしたが、ここから先旧道はどう進むか良く分らなくなります。地図を確認するが少し迷う。
 北東に進み川に沿って進むようだが、交差点からは川らしきものが見えない。交差点も五つ辻とは言い難い形状をしている。田舎者には京の都はむつかしいのです。

.一文橋

向日市上植野町吉備寺の一文橋を南西に振り返る

橋北詰の案内碑の南東面

ビタ一文も払わず「一文橋」を越えて慌てていたのか、写真を撮り忘れ、少し戻ってしまう。信号が無ければ素通りする所であった。

阪急を潜り抜け、旧西国街道に入りたいのであるが、信号も無ければ横断歩道も無く、オマケに車が数珠つなぎ。間をスリ抜け渡った先は一方通行の出口になっている。細いが両側を石畳風にし、旧道をイメージさせている。

向日市向日町南山の五辻交差点を北に見る。西国街道は直進

五辻の交差点に出ました。事前の調べでここに「柳谷」への案内が有るはずで、探します。

交差点から五辻常夜灯を南西に見る。右が柳谷観音への道か

.向日町道路元標

北の向日市寺戸町西ノ段1の須田家住宅前道標を見る

辻を北に見る、西国街道は右奥へ。中央に道路元標

五辻から北へ250mの変則四辻の北西角に現代の街道案内がありました。これからすると交通の要衝地点であったと思われますが信号も有りません。何か怪しいなと思っていましたが、北部に道路元標がありました。一応納得しました。

向日町道路元標南面

向日市寺戸町梅ノ木9の辻を北に見る

同左辻から南を見る

平坦であろうと思っていた道は北に向かい下り坂です。少し驚きました。
 後で分かったのですが梅ノ木9のコンビニの東四辻に、道標や現在の解説柱がまとまって建っている。これは一応写真に撮っておきましょう。興味ありそうなのは一番小さい一基だけでした。

四基の石柱辻から50mで南西から来る広い道に吸収され、北東に進む。ここで阪急東向日駅南の踏切を渡らなければならなかったが、勘違いをして駅の西の道を北上する。バス出張所の中を見物してUターンし踏切に戻り、これを渡る。JRの線路は500m北東であった。

JR向日町駅で、西国街道は途切れています。地下道や陸橋もなく、駅の出入り口も西側二しかないようです。今日は西国街道トレースではないので、北に500mの陸橋へ迂回し、現R171の久世殿城交差点西で旧道に復帰します。

.桂川を越える

南区久世川原町130の右岸を東に見る

R171を横断し道なりに進むと桂川の右岸(西岸)に合流し土手側に「右西国街道」の石碑も見えます。
 堤防上の道に出て久世橋の北側を渡りたいのですが、何かむつかしい交差点です。散々待って橋を東に進みます。(注、橋北側道を進まないと、東詰めで北へ進む堤防上の道には渡れません)
 旧西国街道のトレースは橋の東詰で終ります。この後、御室を目指します。

同左、道標を南に見る、右へ西国街道

三反田児童公園の西辺りから北東を見る

天神川通りの桜が散り始めていました。思わず写真を撮る。

この後、山陰本線を越える為に、若干道を間違えながらも双ヶ岡古墳の西を通り、御室に到着しました。仁和寺には行きません。八十八ヶ所の一番から順に巡ります。

.御室八十八ヶ所

88番を北西に見る。巡礼道は左側にある

入口はややきつい登りになっていますが数m登ると平坦な駐車場?に成っており、西北に受付か一番かの建物が有りました。
 これに向かうと大きな石灯籠の左手(南)に隠れるように、お目当ての石が見つかります。見難い状況ですが境内でもあり勝手に掃除も出来ません。草木を払いつつ写真を撮る事にしました。
胎蔵界、金剛界を示すようなので境界碑と呼ぶことにします。

境界碑を南東に見る。東は駐車場か

事前の調べで、境界碑は三基があるとされていますが、他にある可能性もありそれらしい石も見ていきます。一ヶ所1分かけたとしても88分かかることになり、全工程2時間程と聞いているので、帰宅の時間が心配されます。
 最初の一基だけで、20分掛かってしまいました。このペースでは1.5+2+1=4.5時間となりそうです。

一基目なので少し詳しく書いておきますが、詳細は「御室大内仁和寺裏手の標示石」同2同3を参照下さい。

境界碑を西に見る。石灯籠右の潅木の陰にある

他にも石造物は多くありますが、最近の記念碑などを除くと、他のものより一回り抜け出た存在感があります。が、置かれる位置は見え難いように思える。石の目的が「この西北金剛界」とある様に境界を示すものであるから、何か厳密に決められているのかも知れない。ただ、境界を示す内容しか書かれていない点で少し残念です。

6-1.御室、神南邊の一基目

北面(裏面)に主題が書かれる

西面(巡礼道側)に紀年銘

植栽にダメージを与えないようにカメラをねじ込んで撮影する。どの面も読み難い状況である。

さて、肝心の「神南邊」は、「発起」として、「泉州堺」「神南庵/大道心隆光」とあります。私の考えでは本人が書いたものではないと考えます。ただし、紀年銘が「文政十三年庚寅十一月」とあり、今回調査目的に於いては重要です。
 他の二基に何が書かれているかを楽しみにして出発です。12時20分、一番を後にし北西に進みます。

境界碑東面上部、「発起」

境界碑東面部、「泉州堺

境界碑東面部、「神南邉庵/大道心隆光

巡礼道?を北西に見る、手前の石は別物、木の後ろに隠れる「神南邊」の石

ここから88ヶ所(寺?)全ての堂と、寺標、目立つ石標、を撮影しながら進みましたが、一々載せるのも無駄だと思うので一部を紹介します。

6-2.御室、皇陵道標の一基目

右端道標を南に見る

二十二第番過ぎ、見晴らしの良い地点に到達しました30分後です。南と西方面が望めます。南西に下る道が有る様で、新しそうな道標が西部に置かれています。
東面に「右下村上天皇…」の案内があり、北面に「左上宇多天皇…」とあり、行き先が良く分らない、上と下だけで判断するしか無さそう。多分設置向きが180度回転していて「右下」が南方、「左上」が北又は北西を指していたと思う。

この道標は大阪皇陵巡拝會の作と思う。「羽曳野市日本武尊等参道標石」等も建てており、資金的にも余裕のある会であったかも知れないが、戦前の匂いが感じられる。

道標を南西に見る

28番過ぎから南東を見る

更に登り10分後、二十八第番過ぎ、南東方向が見渡せる地点に出ました。京都市街、京都タワーも見えました。

33番を西向きに見る、大師像は市街地を向いて建つ

三十三番と南に建つ弘法大師像でしょうか。

34番を北西に

6-3.御室、不可解な36番

36番、柱と扁額が異なる

柱には三十六番青龍寺、順番的にはこれが正しいと思うが、扁額には三十四番種間寺、間違って掛けているのか、倒れそうなのでここに避難しているのか。

41番を西に見る

四十番からは伊予の国になるらしい。
四十一番は八角堂になっていた。本家はどんな形であろうか。

6-4.御室八十八ヶ所最北端

41から南を見る

南に麓の仁和寺が見える。

仁和寺遠望から3分後、御室八十八ヶ所巡礼道では最北端に位置すると思われる四十三番に到着する。後の考察でこの辺りに二基目の境界石が相応しいのではないかと出来る地点です。

43番を北に見る

6-5.御室、皇陵道標の基目

二基目の道標をに見る

巡礼道筋では最北端を越えたであろうと思われる、四十五番過ぎ、二基目の道標が出てきました。

八十八ヶ所巡礼道から北に分岐の道がある辻に建っています。北東面に「→ 村上天皇陵」、北西面に「左 宇多天皇陵 四丁」、南西面(道側)に「大阪/皇陵巡拝會」、南東面「?宇多天皇陵」とある。?は右か左か良く分らないが現状なら「右」であろう。

道標を南に見る

南西面「大阪/皇陵巡拝會」

この道標では「大阪皇陵巡拝會」を確認しました。前述したように「羽曳野市日本武尊等参道標石」等も建てている。

南東面、「右」か「左」か?

6-6.御室、成就山頂上

四十八番を南に見る、頂上らしいが

四十八番に「この辺り/成就山頂上/236m」の看板、13時40分です。下から1時間20分かかった計算になります。ハイキングで歩かれている方にはドンドン追い越されていきました。お参りされる方はこれより多くかかると思います。

五十番から南を見る、下りが急になる

五十番も通り過ぎ、南に向け一気に下り始める、目的の二基目はまだ出てこない。この辺りだと思うのだが。

6-7.御室、二基目の境界碑

二基目南に見下ろす

九十九折れの急坂が終わる直前、下(南)にそれらしい石が見えます。

二基目を東に見る

二基目より南東市街地を望む

絶景の位置です。これも境界を示していますが、この景色の為にここに移設したものではないかと思う。為にベンチ背もたれの補強の役目も負わされている。「神南邊」さんも皆のお役に立ててさぞ喜んでいると思う。

二基目を北西に見る

二基目の西面中部、「此東南胎蔵界/此南金剛界」

二基目の西面、「発起…」

二基目の西面下部、「神南邉庵/大道心隆光」

紀年銘が無いのと、「この東南胎蔵界/南金剛界」と示す境界の違いはあるが、「発起」以下の部分は、筆跡が同じと思える。よってこれも他人の書いたものとする。

ベンチ北側の二基目

南面下部はベンチに隠れ見難いが、「この東南胎蔵界/この南金剛界」とある。二つの「界」が何を示すのかは知らない。

二基目境界石の東にある寒暖計

2時18分の気温が23度と熱いぐらいでした。

6-8.御室、五十一番以降

五十番から南に下り東に方向を変え、五十一番を過ぎると、東の自動車道からのアクセス道が影響するのか、巡礼道が分かり難くなります。西に折り返すも、順路の案内も分りにくく、ひょっとすると五十三番を飛ばしたかもしれません。後日「五十三番は道が険しく裏から回るとよい」とある記事を見つけたので、行きそびれたと分かる。

64番過ぎの橋標を西に見る

南向き九十九折れの道をほぼ下り終えた辺り、六十四番を過ぎると「天保七年…」とある「最中橋」と大書する石標を通り過ぎます。左右に発起人、世話人が見えますが、施主が見えません。世話人に「天満市場」とあり、堺とは関係なさそうだったので、裏面は確認していません。崖から飛び出す様に設置されているので、見る為には相当な努力がいると思います。見てみたいが後にします。ところで橋は何処にあるのでしょう。谷筋に下りて来たのは確かで、南に池の様なものもありますが橋は無さそうです。

64番を過ぎて西を振返る

65番?をに見る。右奥にも建物が見えるので行ってみる

お茶所の六十五番も滝行場を持つ為か、どこがお堂か分からない。巡礼道を外れるかもしれないが、北東の谷筋に進む。身代不動明王や成就瀧等が有ったが引き返し、巡礼道に戻る。
六十六番からは讃岐の国になるらしい。

68番を西に見る

六十八番は池の中に立っていました。渡る為の橋が有りましたが、これには名前が書かれていません。「最中橋」の候補かと思うがどうか。
 後日調べた所、この橋ではないと思われます。『ヤマレコ』のハイキング地図によると、上記の石碑の南にある池に流れ込む水路に架かる1m程の木橋がそれとされていました。

6-9.御室、十一番は倒壊

71番を西に見る

ついに七十一番、屋根だけが地面に残っています。

ここで電池を温存する為、カメラからスマホに切り替えます。

88番を北西に見る

15時17分、八十八番まで来ました。この辺りはほぼ平坦で、廻る順番も適当な感じになりますが、何んとか逆にならずに済みました。ただ肝心のお堂が、今までの大きさでなくチョットしたお寺の大きさに違和感を覚えます。本堂前や境内を探すも、三基目の石は見当たりません。
 一番を出たのが12時20分だったので丁度3時間で回ったことになります。

一応グルッとチェックしておきます。三基目の石は八十八番にはなさそうです。出口に向かいます。

6-10.御室、最後の境界石

三基目境界石をに見る

多分境内の南東端と思われる所に、お目当ての三基目がありました。もう20mも進めば一般道になります。

三基目西面、「此北西胎蔵界」

西面「この北西胎蔵界」は二基目の「南東胎蔵界」に一致しこの間の巡礼道を指しているのかも知れない。因みに一基目の「西北金剛界」と二基目の「南金剛界」は二基目の北西方面に道がある為、何となくシックリ来ない。この為私は二基目が移設ではないかとするものです。二基目は一番北に位置して欲しい。

三基目北面、「發起 泉州堺/神南邉庵 /大道心隆光」

この石にも紀年が無いが、「発起」とある面の銘は他の二基と同一人の手になると思われます。

三基目境界石を北に見る

胎蔵界を抜けて、この世に戻り境界石を後にする。

「神南邊」に係る三基の境界石が確認出来ました。この三基が当所、いわゆる御室八十八ヶ所の復興(京都地震)に力を貸した功績を証明するに値するものかどうか、私には分かりませんが、「神南邊」が石の建造を考え付いたことだけははっきりした。

.仁和寺西門の道標

仁和寺西門内から北東を見る

一基目の場所まで戻る前に仁和寺の西門から拝観料のいらない部分だけ覗くと、「御室成就山/八十八ヶ所/御やまめぐり」とある左指差し像を下部に持つ道標が有りました。「西一丁一番巡拝口入口」と案内するが、木札には「Omuro88…百五0メートル」とありました。外国人向けに正しい距離表示をしたものとしても、距離が漢字では読めないと思うが。

15時50分、家路に就く。

.終りに

今回の最大の目的は、「神南邊」が御室御所(仁和寺)とどのように係わったのか、物証を探すものでした。結果、八十八ヶ所再建に功績があったとする、具体的なものは得られず、境界石を建てる「発起人」であったことは分かった。
 又、御室から「燗鍋」改め「神南邊」を賜ったとする名前も、「神南邉庵/大道心隆光」も多分この宗派の戒名の命名基準に従って「庵」を付けただけであり、特別に授かったとは思えない。一ヶ所に三基が有るのは特別かも知れないが、境界を示す目的であれば止むを得ないものである。
 この石の紀年が「文政十三(1830)年庚寅十一月」、地震による被害が文政十三(1830)年七月二日、御室八十八ヶ所の再建が天保三(1832)年であったらしく、再建の功績により他の人が建てたと考えるのも難しいと思います。

2024/6月 追加

神南辺関連の調査が一応終わりました。「石造物詳細」と「まとめ」を別項に作成しました。
地図はグーグルマップ神南邊関係の石造物竹内街道の道標を参照下さい。