神南邊(6)
御室八十八ヶ所
1.始めに
2024/4/11 今日は方角が変わり、京都へ行きます。西国街道を進み、上京となりますが始めての所を通るので、興味あるものに掴まらないように心がけます。何故なら、チョットした山登りが有るはずなのです。目的は一つ、仁和寺(御室)西の「写し四国八十八ヶ所」巡りとなります。途中に道標も多く桜も満開は過ぎたとはいえ見事な所も多々あり、誘惑が尽きません。少し写真を撮るぐらいは良いと、勝手に決めて出かけます。
2.梶原迂廻路~
3.一文橋~
阪急を潜り抜け、旧西国街道に入りたいのであるが、信号も無ければ横断歩道も無く、オマケに車が数珠つなぎ。間をスリ抜け渡った先は一方通行の出口になっている。細いが両側を石畳風にし、旧道をイメージさせている。
4.向日町道路元標~
四基の石柱辻から50mで南西から来る広い道に吸収され、北東に進む。ここで阪急東向日駅南の踏切を渡らなければならなかったが、勘違いをして駅の西の道を北上する。バス出張所の中を見物してUターンし踏切に戻り、これを渡る。JRの線路は500m北東であった。
JR向日町駅で、西国街道は途切れています。地下道や陸橋もなく、駅の出入り口も西側二しかないようです。今日は西国街道トレースではないので、北に500mの陸橋へ迂回し、現R171の久世殿城交差点西で旧道に復帰します。
5.桂川を越える~
この後、山陰本線を越える為に、若干道を間違えながらも双ヶ岡古墳の西を通り、御室に到着しました。仁和寺には行きません。八十八ヶ所の一番から順に巡ります。
6.御室八十八ヶ所
事前の調べで、境界碑は三基があるとされていますが、他にある可能性もありそれらしい石も見ていきます。一ヶ所1分かけたとしても88分かかることになり、全工程2時間程と聞いているので、帰宅の時間が心配されます。
最初の一基だけで、20分掛かってしまいました。このペースでは1.5+2+1=4.5時間となりそうです。
一基目なので少し詳しく書いておきますが、詳細は「御室大内仁和寺裏手の標示石」、同2、同3を参照下さい。
他にも石造物は多くありますが、最近の記念碑などを除くと、他のものより一回り抜け出た存在感があります。が、置かれる位置は見え難いように思える。石の目的が「この西北金剛界」とある様に境界を示すものであるから、何か厳密に決められているのかも知れない。ただ、境界を示す内容しか書かれていない点で少し残念です。
6-1.御室、神南邊の一基目
さて、肝心の「神南邊」は、「発起」として、「泉州堺」「神南邉庵/大道心隆光」とあります。私の考えでは本人が書いたものではないと考えます。ただし、紀年銘が「文政十三年庚寅十一月」とあり、今回調査目的に於いては重要です。
他の二基に何が書かれているかを楽しみにして出発です。12時20分、一番を後にし北西に進みます。
6-2.御室、皇陵道標の一基目
6-3.御室、不可解な36番
6-4.御室八十八ヶ所最北端
6-5.御室、皇陵道標の二基目
6-6.御室、成就山頂上
6-7.御室、二基目の境界碑
紀年銘が無いのと、「この東南胎蔵界/南金剛界」と示す境界の違いはあるが、「発起」以下の部分は、筆跡が同じと思える。よってこれも他人の書いたものとする。
南面下部はベンチに隠れ見難いが、「この東南胎蔵界/この南金剛界」とある。二つの「界」が何を示すのかは知らない。
6-8.御室、五十一番以降
五十番から南に下り東に方向を変え、五十一番を過ぎると、東の自動車道からのアクセス道が影響するのか、巡礼道が分かり難くなります。西に折り返すも、順路の案内も分りにくく、ひょっとすると五十三番を飛ばしたかもしれません。後日「五十三番は道が険しく裏から回るとよい」とある記事を見つけたので、行きそびれたと分かる。
65番?を北に見る。右奥にも建物が見えるので行ってみる
お茶所の六十五番も滝行場を持つ為か、どこがお堂か分からない。巡礼道を外れるかもしれないが、北東の谷筋に進む。身代不動明王や成就瀧等が有ったが引き返し、巡礼道に戻る。
六十六番からは讃岐の国になるらしい。
6-9.御室、七十一番は倒壊
71番を西に見る
ついに七十一番、屋根だけが地面に残っています。
ここで電池を温存する為、カメラからスマホに切り替えます。
6-10.御室、最後の境界石
この石にも紀年が無いが、「発起」とある面の銘は他の二基と同一人の手になると思われます。
三基目境界石を北に見る
胎蔵界を抜けて、この世に戻り境界石を後にする。
「神南邊」に係る三基の境界石が確認出来ました。この三基が当所、いわゆる御室八十八ヶ所の復興(京都地震)に力を貸した功績を証明するに値するものかどうか、私には分かりませんが、「神南邊」が石の建造を考え付いたことだけははっきりした。
7.仁和寺西門の道標
15時50分、家路に就く。
8.終りに
今回の最大の目的は、「神南邊」が御室御所(仁和寺)とどのように係わったのか、物証を探すものでした。結果、八十八ヶ所再建に功績があったとする、具体的なものは得られず、境界石を建てる「発起人」であったことは分かった。
又、御室から「燗鍋」改め「神南邊」を賜ったとする名前も、「神南邉庵/大道心隆光」も多分この宗派の戒名の命名基準に従って「庵」を付けただけであり、特別に授かったとは思えない。一ヶ所に三基が有るのは特別かも知れないが、境界を示す目的であれば止むを得ないものである。
この石の紀年が「文政十三(1830)年庚寅十一月」、地震による被害が文政十三(1830)年七月二日、御室八十八ヶ所の再建が天保三(1832)年であったらしく、再建の功績により他の人が建てたと考えるのも難しいと思います。