西宮市上之町33の道標を確認する為に出発しました。
理由はwebで「見つからない」とする記事を見つけた事に始まります。結論から言いますと、私が最後に見た地点からは無くなっていました。
残念です。
実は、これに先立ち武庫川右岸(西側の岸)に「髭の渡し」の痕跡を探しに行った後に、こちらへ向いました。出発点は「武庫川サイクリングロード」の北端となります。この道への進入方法を知らなかったもので、堤防沿いの「兵庫県道114号(西宮宝塚線)」を北に進み、報徳学園北東端の旧西国街道の辻へ行ったものの、川岸にはガードレールがあり断念しました。旧西国街道を西に向かい、その後庫武橋南方面の土手を登るべくウロウロした後、樋ノ口町バス停辺りから堤防を越え河川敷に降りました。
河川敷に降り自転車道に出ると、馴染の「甲東文化財保存会」の立て札があり写真を撮っておきます。「アンコ樋跡」とありました。
では、上之町を目指します。地理が不案内なもので、何処から出て良いものか分かりません。先の「アンコ樋跡」を過ぎ、阪急の鉄橋が見えたのでグーグルマップを確認すると、ドウモ行き過ぎの様で引き返し、新田バス停で県道を越え、上之町の住宅地に降ります。小さな橋の東詰めに石碑が建ち、道標で無い事を確認します。目的地は近いが、何時もの通り町内迷走となります。助平根性を出し、東側の路地から最短で進入しようとして大失敗。水路や袋小路で、行ったり来たり、挙げ句に水路の渡り石を自転車を抱えてやや広い道へ出て東を見ると、先ほどの石碑のある橋が見えます。この道は見覚えがあり、100m程西の筋違い四辻を北に折れると、今日の目的二番目の道標がある、民家の北裏庭へ続くはずである。
因みに『今昔マップ on the web』の明治の地図をみると、この辺りは「助兵衛新田」とある。
右岸堤外、上之町の石碑「監督…/村代表…」とある
「上之町33」と電柱に札が架かる辻を右(北)に折れ、30m程の左手(西)が庭の造成地になっており、この奥に置かれていたのですが、今日見ると住宅が二軒東西に並んで建っていました。庭造成ではなく宅地造成地であったようです。周囲の建物等から当時の位置を推定し住宅の建つ位置に間違いないと結論し、周囲を見るも道標は見つからなかった。
2017年3月の様子。
2024年9月、現在の様子。
帰って調べた結果、前回訪問は2017年で7年も前の話であった。2021年のグーグルストリートビューでは空地が確認出来たが、2022年には住宅が写っている。よってその間に処分されたものと想像できる。残念である。何処かに保存されていないか、郷土資料館に行ってみる必要がある。旧村内は見て回ったが、鎮守の境内は確認していない事に後で気付く。
遺失の恐れのある石がもう一つ有ります。これは確認しに行かなければなりません。それは厄神さん近くにある地蔵型の小さな石です。大きさ故に無くなる可能性が大です。
この上之町33の道標が案内したであろう、「右厄神明王道」を進みます。『今昔マップ on the web』の明治の地図では階段状に折れ曲がって続く下大市への道に相当するでしょう。
明治時代の道は一部消えているが、樋之口小学校の南西角を通り、大市八幡神社を目指します。
現国道171の若山町交差点を斜め横断する形で進み、コンビニ南の一番細い道に入り、道なりに西へ進みます。一度クランク状に折れる必要があるが上手く行くと、「市東町19の道標」のある三ツ辻に突当ります。実はこの時上手く行かずにウロウロしてしまったが何とか辿り着きました。
「市東町19の道標」を右(北)に折れます。この道標の東面の写真をスマホで撮っておきます。デジカメは差し込めないが、スマホなら入るかも。結果は今イチでしたが、文字を読取る事は出来ました。依って、後日「市東町19の道標」の本文を訂正します。
ここで辿ってきた道の道標の反対面を見てみましょう。全て「尼崎、大阪」を示しており、大阪方面から厄神さんへの主要道路であった事が分かります。一直線でないのは、多分用水沿いの道であった為と思われます。地形的に、北西が高く、南東に流れ落ちるが、田を斜めに横断することなく、東、南、東、南と順々に折れ曲がってい為ではないか。
二基の道標辻から北西に180mで阪急今津線の踏切を渡ります。越えて50mで突当り風になるが、北西に川(溝)に沿って道なりに進めば踏切から400m程でやくじんさん筋と交わる五つ辻になります。この辻の南西部に祠があります。グーグルマップなら「甲東村道路元標」を目印に進めば良いでしょう。道路元標の東40mの五つ辻です。
ここまで来たらもう一基、「門戸西町8の道標」です。これは個人邸宅地内に建っており、失われる可能性はないと思われますが見ておきます。
この道標には少し思い入れがあり、見ておきたくなったものです。即ち、北面の施主に関連する調査に割と時間をかけた為です。少し述べておきます。
この道標では「大坂新町、折屋徳兵衛 」となっているが、「折屋」に関連するものを西宮市内に4基、尼崎に1基、奈良県吉野山に1基を確認しています。さらに去年「西国街道リレーウォーク」の催しで甲東文化財保存会の方とお会いし、この道標が私邸内に建つとの事でした。これら6基の詳細は「折屋徳兵衛の道標一覧」や「吉野山金峰神社折屋の道標」を見て頂くとして、近鉄で訪ねた吉野山で「寛政10(1798)年4月」の紀年を得る事が出来、この道標の年代もほぼ同じであるとして、改めて見直す事にしたものです。
尚、「折屋」は大坂新町にあった、揚屋・茶屋で初代は「弥兵衛」らしい。国会図書館の『澪標』靖中菴、寛政10年刊、や江戸時代の百科事典とも言える『守貞謾稿』喜田川守貞、天保8(1837)年以降、に見ることが出来る。
以上で本日は終了とします。日が短かくなりました、帰路に就きます。