神南邊について

1.始めに

 「神南邊(辺)(かんなべ)」、堺の人、~天保12(1841)年没
「尼崎市西川2の地蔵道標」にある施主と思われる「神南邊」の調査を少しですが行いました。都合により古い写真も使います。

多数の石造物を残した様で「尼崎市西川2の地蔵道標」の建立年を絞る為に、紀年銘のある石造物を探し出し、訪ねる事にしました。

きっかけとなった「尼崎市西川2の地蔵道標」です。
南面に物干し様の木が邪魔をしますが、保存状態は良く、今回見た中で最も綺麗な石に見えます。

右祠中の道標を南西に見る

左(南)面に「南無阿弥陀佛隆光」、右(北)面に「左大坂、施主 堺 神南邊」とある。

左側、菊の上に「…隆光」

北面下部左、楷書風に「神南邊」とある

2.概略

「神南邊」は僧侶の名前である事が分かりました。出典等少し書いてみます。
web上で「堺市堺区寺地町東4-1-14の旭蓮社本堂左奥に神南邊道心の墓があり、台座には天保12(1841)年9月10日と刻まれる」とする資料を見つけたが、リンクの可否が無く、その内容を書き出しました。そこには「堺市史」にも載ると有ったので、『堺市史第七巻別編』をADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステムで見ると、天保12年2月20日を没日としている。しかし何れにも誕生日や没年齢が無く、遡り年数を決定出来ない。「大坂狭山市狭山4の報恩寺に、神南辺大道心が仏道に入るまでの前歴を記した天保十一(1840)年七月紀年の懸額が奉納されている」とする資料があるが、見ていません。
 即ち、~1841年の建立と出来、60歳まで生きたとしたなら、1780年~1841年と出来る。ただし、この人のエピソードを市史から引用すると「堺の鋳物師(いものし)で、お酒の燗(かん)をする鍋(なべ)を作っていた人で、素行が悪く、僧となった子供に諭された挙句に仏門に帰依し、罪滅ぼしの為に多くの石造物を作った。」とあり、子供が幾つの年に出来たのかは分からないが、20歳で出来15歳の子供に諭されたと考えれば遡る年数は更に短くなり25年程にしかならないのではないか。尚、堺市立図書館だより『ゆづりは』通巻10号には「40歳すぎまで無頼漢」とありました。
 功績が認められ、燗鍋造りからもじって「かんなべ(神南邊)」の名を貰ったようで、後ろに「隆光」「道心」「大道心」を付ける事がある様です。「隆光」は鋳物を造った時に用いた銘かも知れないが、「道心」とは、仏道に進む人の意味があり、「僧正」等と同じく固有名では無いでしょう。仏道に専心したかは分かりませんが、そうであれば「隆光」を持つものは年代的に古いとしても良いのではないか。
 ※各資料はリンクの可否が書かれていないため、ご自身で検索下さい。

3.中山寺、百度石

近辺に「中山寺百度石」があるとの事で、北に向かいます。経路の詳細は省略しますが、旧有馬道で伊丹を抜け鴻池辺りで天王寺川の土手を北上が最短だと思います。伊丹スポーツセンターの南から天神川沿いの道も気持ちがいいのですが、2024年1月時点ではニュースになった川決壊により一部迂回が必要でした。

中山寺境内図、上中央に星の広場

門を潜り、五重の塔に向かいます。本堂手前を西に曲がり、信徒館に向かい登ります。信徒館西を北に進み「星の広場」へ登り南の端に折り返すと素晴らしい展望があります。目の前には多宝塔が光り輝いていました。
 その少し手前、西側のこんもりとした木々の下に「百度石」が隠れています。山門前の案内所の方に聞いても、「お百度石は聞いたことがありません。」とのことで、なかなか見つけ難いかもしれません。

中山寺華蔵院前から北を見る

信徒館より北を見る、右上に登る

星の広場より南東を見る、大願塔はすぐ下

東面に「泉州堺、施主、神南邊」、北面に「文政九丙戌歳」(1826年)と書かれています。「歳」は「年」と同じでしょう。「丙戌」は文政九年の干支を表し「ひのえいぬ」と読むようです。
 注目したい点として、東面施主の下が写真では分かり難いですが「神南邊隆光」と楷書に近い字体である事と、「隆光」と書かれている事です。僧侶の名前の付け方は知らないのですが、法号と字になるのでしょうか。この場合「隆光」は字に当ると思われるが、江戸時代の職人が持つ名前には相応しくなく、鋳造器作成時の号等かも知れない。
 又、各面の文字全てが、よく言えば味が有るとなり、一般的には稚拙に見えるのですが、如何でしょう。

百度石を北西に見る

百度石東面、「泉州堺…神南邊隆光」

同北面、文政九(1826)年

「神南邊…」

「邊隆光」

楷書について少し。
 私などは楷書が正で、その他はそれから派生した書き方と教えられてきた様に思う、一点(`)たりとも不足したり、余計だったりすると間違い(×)となり、0点のテストも思い出します。が、江戸時代の寺子屋などでは、すぐに使える文字を教えたと聞き、「近隣の地名ならこう書きますと」と手本をなぞったようです。そこでは楷書やくずし字の区別は生まれにくいと想像でき、他人が読めれば何でも良かったと出来そうです。依って楷書を覚えて、次にくずし字を覚える(今ではこの方法しかない)とはしなかったでしょう。
 ただし、字の上手下手は致し方なく、当然慣れるに従い上手くなるでしょう。

4.摂津国外を訪ねる

事前に作成したマイマップ、濃い赤は今回見たもの

初めての地域なので事前に見たい場所を洗い出しマーキングしました。主に『大阪の街道と道標』を参考とし、「神南邊」を持つとする道標を中心にしており、その他の道標は多く割愛しています。表題は「竹内(たけのうち)街道」としていますが、その北に位置する長尾街道も含んでいます。

堺市に「神南辺町」があるらしいので、南行します。
「尼崎市西川2の地蔵道標」からは東に進み神崎川の右岸(西岸)を南行し神崎橋を渡って十三・福島か、国道2号まで南下し歌島・福島、或いは自動車なら43号線に出ていきなり西成区が近いと思います。ここは旧道、有馬道・明治の中国街道、中津からなにわ筋に入り岸里で国道26号を南に折れれば分かり易いでしょう。
 大和川を越えれば1.3㎞で「神南辺町交差点」になります。
 江戸時代中期、享保20(1735)年の『堺大絵図改正綱目』(堺市立図書館 地域資料デジタルアーカイブ)では「北材木町」の西に「西門跡/抱屋敷」と岸壁があり、現在の「神南辺町」は海中と見える。『今昔マップ on the web』明治の地図では陸地ではあるが、「山本」とあり、昭和22年地図に初めて「神南辺町」があり、新しい町名と思われます。
 手掛かりはなしとして、さて何処へ行きましょう。

堺区国道26号神南辺町交差点を北に見る

5.百舌鳥八幡の道標

以前に見た覚えのある「堺市北区百舌鳥八幡の道標」を次に見に行きます。この道標は和泉国にあり、「摂津国の道標」には入れていません。今回関連資料として追加するつもりです。もう一度写真を撮り直す事にしました。
 国道26号から310号を行けば良いのであるが、道を間違え戎島町交差点を東折れして府道12号に入ってしまい高野線を越えるのに手間取りながらも方違神社の北側に出ました。神社を過ぎてけやき通りを南折れしましたが、まっすぐ行けば長尾街道であったようです。この街道沿いも魅力的なのですが、中百舌鳥方面の旧道(西高野街道)を行くには、中環の向陵西町交差点から再び高野線を越え、仁徳天皇陵の東に進まなければなりません。何時もの事ですがよく間違います。堺東からはどう行くのが正解なのでしょうか。

国道310、梅北交差点を北に見る

何んとか旧道(現国道310)に乗ったのですが、梅北交差点で西高野街道とは別れて、梅北南交差点で国道310からも南に分れます。130m進んだ三ツ辻を西に折れると、くねくねと道が曲がりますが、道なりに中百舌鳥八幡神社の境内に到着します。

梅北南交差点から府道28号に入って、更に西折れして来た道を東に見る

道標から神社前階段を北に見る

階段下から南を見る。左に道標がある

こちらは道標です。南面に「さかい 神南邊」、北面に「文政十三年」(1830年)と書かれています。施主や願主の文字は刻まれていませんが、本人が建てたものでしょう
 そこで、注目したい点「神南邊」くずし字で書かれている事です。中山寺の百度石から4年後となり、署名方法を変えたのでしょうか。石の大きさも小さくなった為か、「隆光」は書かれていません。道案内に合わせたのか「堺」とせず「さかい」と平仮名を使っています。

道標を北東に見る

道標南面下部、「神南邊」はくずし字で書かれる

東面、「文政十三年造之」1830年

6.忘れかけた福田の道標

北野田に顔を出したいところが有るので、何時もなら西高野街道沿いに進むのですが、今日は変えて初芝回りで行くことにしました。分かりやすいように府道28号(ときはま)線に出て、東折れし中百舌鳥駅を過ぎて高野線の東側を南下する事にした。府道35号線を富田林へ向う道らしいが、すぐに細い道になりました。明治の地図には富田林街道とあり、所々旧道も残る様です。
 この道に曲がったとたん、もう一件寄らなければならない道標がある事を思い出します。「堺市中区福田1の道標」なのですが、西高野街道上のはずです。この道標にも「神南邊」が有ったはずです。前に撮った写真では読み難く、もう一度撮り直す心算であったのに、何たる不覚か。「摂津国以外の道標」の為、ワークシートを作っていなのが原因なのですが、事前の予定では百舌鳥八幡から直接向うとしていたのを忘れるとは・・・。
 仕方なく地図を見直すと、初芝駅の南から続く道があり、それを目指す事にします。三角形の二辺を行く感じになりました。
明治の地図で辿った字(集落)名を書くと、初芝駅の南東が西村、南へ池浦、田中、現中環を越え池の東の土手を通り、中茶屋の東をかすめて、下出口となります。ほぼ小径の道として描かれている経路は、この下出口で西高野街道に合流するのですが、合流地点から西高野街道を南へ190m進むとY字に分岐する三ツ辻(多分、福田1丁目)があります。南部に延命地蔵祠、その東前に忘れかけた道標が立ちます。

福田1の三ツ辻を南に見る。右奥が西高野街道らしい。

道標を北西に見る

道標を南に見る。祠内地蔵も道標

道標北面、「左、たきたに金剛道」

西面、施主三名

東面、「発起 神南邊/隆光」

同下部、「神南邊…」は楷書

この道標の注目点は施主では無く発起人として「神南邊」「隆光」と楷書で書かれ紀年銘が無い事です。施主では無い為、神南邊の書いた字では無い可能性があるが、発起人部分は自筆かも知れない。施主に住所は有るが、発起人には無い。

7.初めて羽曳野市へ

北野田で用事を済ませ、堺から奈良へ向う「竹内街道」沿いに幾つかあるらしい石の内、羽曳野市部分を探る為、東へ向います。こちらは土地勘が全く有りません。果たしてたどり着けるでしょうか。

時間も体力も無い為、できるだけ短く、且つアップダウンの無い道を行きたいが、ルートが分からない。何件か要領よく周る為には東から帰りながら西に向かうのが良いと考え、古市あたりを目指す事にした。グーグルマップで経路を検索するとどう見ても最適コースに見えず、私の設定した通過点等を指定するも、芳しくない。
 自力で行くことにし、これまた明治の地図で想定地名を上げてみます。北野田から東に菅生神社の前を進み、東除川を渡り、国道309号の菅生交差点を東に突っ切り、平尾の集落まで行くことにしました。そこから先は現地で考えてみます。

平尾の五つ辻で地図を見ると、東方向への道が目指す方向と思われ、やや登りになっていがこちらに進む事にしました。帰って明治の地図を見ると、この辻で北に進むのが富田林街道の一部で有るらしく、道なりに進めば先の初芝に戻ってしまうようです。

五辻から80mで、再び五辻になり、車の多くは南に折れていきますが道なりに北東方向に進みます。この時東側に朱塗りのお堂の様なものがチラッと見え興味を覚えましたが今日は行きません。道は北に向きを変え「平尾会館」西前を過ぎると緩い登りが終わり、後は下りばかりであったように思います。

二つ目の五つ辻から1.2㎞進んだ地点で、東西の広い道との交差点で止まり地図を見る。このまま進むと西の多治井に行くようで、北東の古市に直接行けそうな道は有りません。
 この辺りの地形の特徴として北に張出す丘陵が見え、これを越える道はあまり必要とされなかったものと思います。そこで目標を変えればよかったのですが、取り敢えず北に進み何処かで東に折れる作戦をたて、今は東に見える高速を潜る道に進みました。即ち右に石材店(美原区小平尾824-2)、西に広い駐車場の有るコンビニの四辻を東に折れ、100m地点の三ツ辻(実は四辻)を北に折れ、高速(実は南阪奈道)下の交差点を直進しました。これも帰って分かったのですが、「実は四辻」とした最も細い道が明治の地図では聯路で描かれ東多治井と河原城を結ぶ道であった。旧道踏破マニアとしては迂闊であった。

高速を越えると、道なりに河原城迄細い道を進みます。工場地帯の様でトラックが多く進み難い。河原城は羽曳野市になり、小平尾は堺市に属し、ようやく市境を越えたようです。河原城の東で府道190号に合流するとようやく片側一車線の道になり、この三ツ辻を北東に進みます。260m先に三ツ辻があり、左手(西)にスーパーマーケットが有ります。これを道なりに進めば良かったものを、ここで地図を見た事で、丘陵を突っ切ることが近いと思い、東に折れ登る事にしました。焦っていたのか又コケてしまった。

コケた三ツ辻から1.9㎞、丘陵を下り終えると国道170の軽里北交差点になります。この大きな交差点を東に渡ると細い道が二本北から合流しており、その東側の道の合流点角(北西部)に道標が有ります。
 ここまで必死だったので写真が一枚もあっりません。

8.竹内街道、軽里3道標

羽曳野市初の道標です。残念ながら「神南邊」のものでは無さそう。

軽里北交差点北東角の東20mから東を見る。奥は白鳥通りと呼ぶらしい

同じく、西を見る

道標南面

道標東面、施主

南面に「右 ふぢゐ寺」「左 さかい」「道」、東面に「さかい 丸市」「世話人 同村 仁右衛門」とあります。この位置で左堺は竹内街道を示して問題ないが、右葛井寺に相応しい道が不明である。すぐ東横の道を北に採ると墓地で行止りになり、東へ進む白鳥通りを案内するものとしても、明治の地図では道が無い。何処かから移設されたものであろう。

9.石造物3ヶ所

ここからは竹内街道を東に進みながら、この後の目的「神南邊」を探します。東進するか西進するかは別としてようやく主題に到着しました。事前の調べで東側の方が可能性が高い様でそちらに進みます。この道標からすると、東西の白鳥通を横断し南へ続く細い道が竹内街道となる様です。横断歩道も無いので、車の切れ目を見て強引に渡ります。現在の白鳥通りは明治の地図には存在しないようです。

白鳥通りを南へ突っ切ります

道標から南へ竹内街道に入り10mの三ツ辻、右(南東)へ

三ツ辻から90mの神社前で北西を見る。

軽里北交差点東の道標から白鳥通をり渡ってすぐ(10m)、細い道は二手に分かれ、「竹内街道」とする道は右側になる様で、道の舗装が赤くなっています。左の方が旧道ポイのですが右に進みます。東に向きを変えるとすぐの北側にお宮さん(軽羽迦神社)があり、雰囲気は上々です。

軽羽迦神社東100mの四辻を東に見る

電柱脇の石の西面

軽羽迦神社前から100m、初めての四辻南西部に石柱の根元部分だけが残っています。ここを南に折れると「清寧陵」に向かいます。「設」一文字が残ります。念のため写真だけ撮っておきます。

民家前の狛犬を東に見る。奥車左にもう一基で対か

狛犬を南西に見る

四辻から80m東の南側民家(軽里3-8-2)の車庫?前に奇妙な石柱が立ちます。よく見ると上部が狛犬であろうと想像でき、東側にも同様のものがあり左右で一対の狛犬になりそうです。そうすると車庫に見えるものは神社の入口なのか、或は白鳥陵への進入口であったのかも知れない。

白鳥3-1の参拝道碑西面、最下部「設」に心当たり

同左、東面

白鳥陵(日本武陵)の北端を東に進み、府道20号(旧国道170)に突当ります。この三ツ辻南西部に大きな石柱があります。三つの御陵への「参拝道」としています。進むべき向きが示されていないので道標とはしません。西面の最下部は「…建設」となっており、「設」だけが残れば、上の写真と成りそうな気がします。

10.蓑の辻道標

蓑の辻道標を南東に見る、左右は東高野街道

左(北)に折れ、80mで「白鳥交差点」になります。ここから東が国道166と思われます。交差点から東に100mで近鉄の踏切、北側に古市駅がありますが、明治の地図では南側に駅が描かれています。踏切を越え300mで「の辻」に出ます。少し筋違いの四辻ですが東西が竹内街道、南北が東高野街道で、明治の地図ともピタリと一致しています。

蓑の辻の道標西面。「左、大和路…」

この南東角に立派な道標が立ちます。東には「古市六町蓑の辻会館」とする建物があり、「六町」とは近隣の東、西、南、北、中堂之内、の旧町名らしい。「の辻」の言われは分からないそうです。この地を知らないものからすれば、道標に辻名を入れるのは珍しいと思います。その下に「補助・・・」とあるのでその人の居所を示す可能性もある。道標的には他にも追求したい点が何点かあるがその内一点だけ取り上げる。
 西面の中央大きく「左、大和路」、その両脇に「上の太子…大峯山上」とし、中央下に二行に分けて「すぐ、高野山/金剛山」とあり一面に二方向の案内があり、非常に見難いものである。それはさて置き、「大和路」が街道名を指すものか、「路」を「道」と読んで大和を地名として表現したものか気になる所である。嘉永元(1848)年九月と近世(江戸時代)の道標にあって、街道名を案内するものを摂津国内では見かけなかったもので珍しいと思うのですが。

北面上部、「右大坂」

同下部、「すぐさかい」

北面「右 大坂  春ぐ さかい」はどう理解すればよいか、元位置のままであるとするなら、右は西を指し竹内街道を大坂で良しと出来るが、「春ぐ(すぐ)堺」は南進し何処から堺に向かうのであろう。追刻や移設の可能性も考えなければならない。
近辺の道標の大きさはよく知らないが、150x32x32㎝(頂高9㎝)と大きい様に思う。これも又、追刻するには有利に働いたかもしれない。

南面下部、「京都井筒屋/九兵衛」

この道標には「京都井筒屋九兵衛/嘉永元年戊申九月」「補助森田和英」とあり、「神南邊」とは関係なさそうである。事前に調べた川向の道標に向かいます。

11.川向の道標二基

蓑の辻道標から竹内街道を東に290m道なりに進むと石川の土手に突当り、臥龍橋を渡る為に北に100m程廻らなければならない。明治の地図では直線的に川を渡っており、近世では渡しであったと思います。明治の地図で橋の東詰めとなる地点に二基の道標が立っています。この内の西側の大きなものが今日のお目当てです。現臥龍橋の東詰めからは160m南の三ツ辻になります。

川向二基の道標を南に見る

西側の道標北面

西側道標の東面

西側東面上部。「堺施主」

西側東面下部。
右側「神南邊大道心」

この道標の注目点は施主では無く発起人として「神南邊大道心」とくずし字で書かれ、紀年銘が無い事です。施主では無い為、神南邊の書いた字では無い可能性がある。施主共に住所は「堺」とある
北面が案内になっており「右、日本最初大黒天道 是より五丁」、西面は「夫大黒天者天智天皇御于乙丑正月甲子之日出現之霊場而役行者開闢地近点之縁起…」と寺の縁起であろうか。「大黒天」は多分此処より南900m程の「羽曳野市大黒499の大黒寺」であろう。移設で無ければ何時もの如く短めの距離で案内するものと思う。
大きさは、168x33x30.5㎝(頂高10㎝)と、なかなかのものである。

「神南邊」の下の大道」は「道心」より位の上を示すのか。これは、「大僧正」「僧正」の例から思いついたものです。「大僧正」「僧正」は広辞林に説明があり、上下の関係である事がハッキリしていますが、「道心:十三・十五歳以上で仏門に入った人」、は有っても「大道」がなく、「大道:正しい道」となっています。依って位で無ければ「道心」と「大道心」による紀年の前後は判定に使えない。但し、現時点では「道心」のものは見ていないのであるが。
 もう一つ、位でなければ、余りにも年を取ってから(遅く)仏門に入った為、「大」を付けたとするのはどうか。又、『地蔵大道心駆策法』という経典があるらしく、これは「大いに道心を持たせて悪鬼を改心させる」の意味の様で、年功には関係なさそうです。

川向東側の道標、
北面「右 法華寺 是より七十丁」

二基の道標の南に建つ案内板

東隣の少し小さな道標です。この「右、法華寺、是より七十丁」道標は「安政六年巳七月大阪信者中」とあり「神南邊」とは関係なさそうです。解説板には「川向の道標其ノ二」と名付けられていました。因みに「川向」は地名で「かわむかい」と読むようです。

今日の目的の東端に辿り着きました。羽曳野市内には他に「神南邊」の石が有る様なのですが、今日の予定に入っていません。ここから西に戻りつつ他の道標を探すつもりでしたが、午後3時を回りました。竹内街道を堺まで戻りたいのですが時間が無さそうで日を改める事にします。でも、少しだけ寄っていきたい所があります。

この川向の道標二基が『大阪の街道と道標』には未記載となっており、元からここに有ったものか気になる所です。

12.西琳寺の道標

東高野街道は一度も通った事がありません。チョッと行きます。「蓑の辻」から北に進めば、「行った事が有る」と言えるでしょう。川向の道標から戻ります。臥龍橋を越え旧の竹内街道西に戻った後、勘違いをして手前の辻で北に折れてしまった。どうも違うなと思ったが、Uターンも癪で適当に曲がりながら東高野街道に出ようとしましたが、これが誤り、ご町内一周ツアーとなりました。

道標を南に見る、奥竹内街道へ出る。

道標を東に見る、後西琳寺

ウロウロしていると「西琳寺」の門前に道標がありました。山型板碑風のそこそこの大きさ(116x30x18㎝(頂高8㎝))です。西面に案内が書かれていますがこれが読み難い。北面の「文化十(1813年)…」の下に施主と思われる名前が三行あり、「神南邊」で無い事はわかるが読み取れません。時間が無いので写真を撮って後にします。

道標西面、

道標南面、「左、大坂さかい道」

土地勘が無いと案内先も読み難いと実感する道標です。「・・・大峯山上」しか分からない。帰ってジックリ見る事にします。
 「左、大坂、さかい」を進みましたが三ツ辻に突当るだけで、案内には相応しくなく移設されたものでしょう。

後日、道標西面は「右、上太子弘川寺西行古跡/たえまつほ坂大峯山上」とした。
名前は「銀治…/留治/□部」等か。

でも、その案内のおかげか東高野街道に乗った様で北に向かいます。

13.葛井寺、勘違いの百度石

ここで、帰路に予備の候補としていた葛井寺が近いと気づき、そちらに進む事にしました。東高野街道は又の機会とします。北西方向へ適当に進みますが、幹線道路が無いようです。後で明治の地図を見ると北の誉田、西折れし野中、北・西・北と折れ藤井寺の村中へとなっている様で、直線の道は有りません。
 余談ですが帰宅後グーグルマップのタイムラインを見ると、ほぼ一直線に進んだことになっていました。この日平尾辺りでグーグルマップのマイマップがハングアップしてしまい、現在地は示すものの登録地点は見れなくなっていました。タイムラインのロギングもおかしくなっていたのでしょうか。

兎に角、藤井寺2丁目3-38の民家?北東、土塀を葛井寺と勘違いし南に折れ引き返したのを覚えていますが、途中の経路は記憶に有りません。土塀の角から西に100m程進み山門南側に着きました。ここで大きなミスをします。この寺の「百度石」に「神南邊」が刻まれていると思い違いをし、慌てて境内へ向い、石を探してしまったのです。本来この三ツ辻南東角の道標を見なければならないのですが・・・。

葛井寺の百度石を南に見る

百度石南面。施主三名の名に「神南邊」はない

お百度石は直に見つかりましたが、「神南邊」が有りません。
 南面「堺」の下、多分「施主」に続き三名「之町濱 河長、宿院町濱 住佐、笠安」と読んだ。堺図書館地域資料デジタルアーカイブ「摂州泉州堺町之図」文化2年に「中ノ丁ハマ」「宿院ハマ」を見ると、現堺区中之町西4丁目、宿院町西4丁目辺りとなりそうで、南に魚市場、北に米市場が有るのを見れば、商人であったのではないか。

ガッカリして、帰る事にしました。

14.見逃した葛井寺の道標

帰って、マイマップをチェックすると、「百度石」は道明寺天満宮のもの、葛井寺では山門南の道標を見なければならなかった事が分かり、しばらくは落ち込む事になりました。

15.終りに

ここまでで、尼崎の外、4つの「神南邊」を見ましたが、紀年銘が無い時の手掛かりを探り出すことは出来ませんでした。もう少しある様(『大阪の街道と道標』でも6基)なので引き続き調べる事にして、この項は終えます。

2024/6月 追加

神南辺関連の調査が一応終わりました。「石造物詳細」と「まとめ」を別項に作成しました。
地図はグーグルマップ神南邊関係の石造物を参照下さい