剣尾山月峯寺丁石
始めに
能勢町の剣尾山(山頂にはケンピ山)の山頂南に、中世迄は栄えた月峯寺への参道に有ったとされる、丁石群を調べる事にしました。
事前に二つの参道がある事、その内白木谷参道と呼ばれる道が廃道になっている事、もう一方の下見谷参道には丁石が少ない事、等の知識を得て、そう難しくはないと高を括って出かけました。尚、現在の能勢町大里555にある月峯寺(真言宗国分寺派別格本山)は丁石の対象では無く、天文十四(1545)年に丹波波多野氏の侵入による兵火により焼失した寺(伝、天台宗)への丁石です。江戸時代に出版された『摂津名所図会』にも「剣尾山旧蹟」として載り山上に再建されたことは無さそうで、丁石を建てる必要があったのは、1545年以前と考えると紀年銘はなくとも相当古い物に違いない。
『能勢の道しるべ』森本弌には、「南北朝から室町前期にかけて、『山辺村古記』の「西林禅寺」の項に『右往古者浄土宗西蓮寺ト号シタリ、剣尾山月峰寺応永(1394~1428)年中暫ク浄土宗ノ山トナル、ソノ西蓮寺者里坊タリ、故ニ于今西林旧跡ヨリ月峰へ町石有、廿八町目ト云(以下略)」とあり、遺失の二十五町丁石にあった「応永18年10月十八日(1411年11月13日)」はこの時期のものとなりそうである。
真言宗の本尊は大日如来(バン)、天台宗本尊は阿弥陀如来(キリーク)が多い、浄土宗本尊は阿弥陀如来(キリーク)であるらしい。現存する丁石には梵字「キリーク」が書かれているが、何方の宗派の時のものかの判定には使えない様だ。
1.白木谷道
先ずは、白木谷参道からです。
白木谷参道の起点は何処でしょう。起点、終点の特徴ある丁石をもって起点を決めたいのですが、結果的に見つからなかった。そこで『能勢の道しるべ』の「西林寺」としましょう。尚、同書の一覧表には「二十八町」が載せられているが「亡失」とあり、それ以上の事は書かれていない。
多くの参道は主要な道からの分岐点をもって開始点とするようであり、西林寺から参道とするのは何となく納得出来ないでいます。
2.アプローチ
3.起点、30丁
28丁想定地からの舗装路はクランク状に進み、27丁想定地点は民家前となり、道は北東に向いています。
4.保存される27丁丁石
27丁丁石は完全な形で残っており白木谷丁石の代表的な様式と考えてよさそうである。加工前の石は角柱状であったと思われ、左右の仕上げ巾が最大21㎝、上部に向けてやや細くなり庇部では20㎝と成っている。正面の碑面は、上部に向かいそぎ落とされ、庇部分では-2㎝奥まっている。碑面は平らであるが、下部(基部)は中央が1㎝程前に出て湾曲している様に思う。庇から上5㎝を平らに残し1㎝程削り落とし4㎝上で頂部の下端に達する。ここから上は頭頂部に向かい正面から見ると底辺20㎝、高さ15㎝程の三角おむすび形となる。この三角形には幅1㎝程度の縁が付いている様にも見えるが定かで無い。
背面は、左右とも緩やかに湾曲して側面に繋がり、頭頂に向かっても連続的に曲がっている。上面頭頂部中央にには明確な稜線は無いものの、前から半分位までは直線的で、以降背面に繋がっている。
この形状が舟の底のように見えるので、舟底型角柱、又は舟底型板碑と呼ぶ、板碑とした場合は幅が広く奥行に対して1.5倍以上あるものとする。
5. 26丁丁石から
6.残念、遺失の25丁
7.移設の23丁丁石
道筋が分からないのに、よく丁石の元位置などと議論しますね!
その通りです。
明治の地図で過去の道を推定してるのですが、明治の地図にこの辺りの道が描かれておらず、逆に書かれている道が、現在では無くなっているのです。が、現在の地形と25丁の元位置を見ると参道としてほぼ妥当な道筋の様に思われ、生活道路でないため書かれていないとしたものです。ただ想定23丁から20丁への道筋は現行道と少し異なる様に思います。又、25丁の元位置を考慮せず、明治の地図の道を優先すると25,24,23丁は北の集落中を通る道になりこの場合の元位置は大きく異なります。ただ地図の経路も今回想定の経路も川の右岸か左岸かの違いだけで距離がほぼ等しい。
8.集められた22,21丁丁石
9.私道を抜け20丁へ
10.廃道?の20丁
目の前に手入れのされていない植林地があり、左手の西方向は木が刈り払われ草地の状態でした。北向きに林の中に進めそうな踏み跡を探し、木立の中に入ってすぐの地点で周りを見渡すとやや東寄りに窪んだ流れ跡を見つけ、参道ではと思い少し南に戻ると、倒木に塞がれた道の西側の土手上に20丁丁石を見つけた。林へ進入の為の踏み跡を正しく選べば、いきなり見つかったはずです。この場合なら参道の左側の土手の上と表現出来るでしょう。
ようやくお目当ての20丁丁石です。でも、正しい参道を南から来ていれば、この丁石の表が見えない状態で建っています。下調べでは、元の位置にほぼ完全な形で残るとされていますが、位置はともかく設置の向きが変わっているように思います。
11.共通特徴を持つ20丁
27丁と共に、ほぼ元の姿を留めるので、ここでもザット説明します。全体を「舟底板碑型」とし、高x巾x厚の順に93x31x18㎝(頂高14㎝)(庇2㎝出張)(背面上から25㎝x6㎝厚が欠損)の様です。奥行が18㎝と巾の半分を越えるので板碑ではなく「舟底型角柱」とすべきであるが、上部が剥落している為、「板碑」に見える。
上部は、「圭頭」と言うらしいが「圭」自体を知らないので私なりの呼び方をしました。因みに「大字典」に「圭、…一種瑞玉にて、上方尖り、下方四角の形をなす」とあるので「圭型」でよいのかもしれない。
ただ、これのみでは無く野外に置くために、前面を守る為に庇(ひさし)が出っ張っている。この石では2㎝であるが、一連の中に最大3㎝のものがあった。この形状を作るに、元の角柱の根元から上部に向け徐々に文字面を削り取っていき庇部を残す様にしたと思われる。手間と強度の為か庇の下縁は尖頭部より下側から始まります。見映えの為か額縁の様な横線が一本入れられ、尖頭部が一段低く三角形に削り落されて、横線が二本ある様に見える。石屋さんに聞けば一言で言い表す形状が「圭頭」なのかもしれない。
又雨水が流れ落ちるように、前の先端を尖らせ、背面へは舟底の様に後にかけ連続して丸味を付けるが、下方は左右の面取り程度にした為、方形が残る、と考えています。
12.見あたらない19丁~15丁
20丁から想定18丁辺りまでは、廃道同然と思われるが一応道の雰囲気は残る。しかしこの後、19,18,17,16,15丁は見つけられなかった。途中18丁手前辺りの四辻らしき北西部に、首なし地蔵が有ったので、想定19丁,18丁辺りの写真と共に載せて置きます。18丁辺りにあった倒木を過ぎると一気に道跡が消えてしまい追跡もままならず、写真も撮れていません。
13.私道迂回時の進入口
帰りに、首無し地蔵の四辻を北東方向に調べた。
首無し地蔵四辻を広い北東への道に折れ、平坦な道を90m辺り進むと沢(白木谷川)に突当り道は途切れる。南側の砂防コンクリート堤は中央が窪み進めない。左(北側)上流に進めば飛び石伝いに渡れるかも知れない。
が、止めてここで引き返すことにしました。首無し地蔵四辻(北東部に目印となる石がある)に戻り南へ折れて歩きにくい道?を20丁から養鶏場入口に戻り、作業中の方に礼を述べて一般道に出た。