2025/1月 四世代の道が残るとされる、はらがたわ(乢)に行ってきました。何時も利用する現国道176号は除きます。果たして3本の道は見つかったでしょうか。
その前に予備知識として。たわ(乢)とはどの様なものでしょうか。峠とは異なるものでしょうか。何れも高い場所を越えて両側に下るイメージは同じですが、乢の場合は進む方向にに対して左右(両側)共に高くなっている必要が有ります。言い換えると「鞍部」に成ります。峠は片流れであっても、山頂であっても良いので、乢は峠に含まれるとして良いでしょう。
では、「はらがたわ峠」とは「白い白馬」のような言い回しに成るのでしょうか。わたしの解釈では「たわ」を地形と捉えず、「はらがたわ」と言う地名としたものと思います。
『能勢町史第五巻(資料編)』昭和60年刊を見てみると、「はらがたわ峠」があり一部を抜粋すると「峠の頂は575m(明治20年改修時5間切下げ)…。峠の名は「はらいがたわ」ともいい、…峠付近はゆるやかな原っぱをしているので「はらがたわ峠」。「はらいがたわ峠」はよくヒダル神が旅人についたからそれを追っぱらう意味で名付けたものか。」とし、他に「…慶応元(1865)年の大師講頭文に「はらいがたにて馬頭観音並びに妙見宮建立致し、…供養仕り候」とある。…新道がつけられたのは昭和4年で…」とある。
④の現現国道から旧道の分岐点を何処にするかは異論も有るか知れませんが、取敢えず山辺口交差点過ぎから始めます。何度も通る交差点を過ぎてすぐ、朝霧が珍しく写真(左)を撮っておきました。
交差点から道なりに北へ1.8㎞、左から②明治の道が合流する辻の少し手前(南)の三ツ辻を左(西)に分かれ、60mで民家に突当ります。突当った道が②明治の道で西に向かえば、浮峠から今西に続く道と思われます。
この正面石垣に「能勢町山辺金谷橋東の道標Ⅰ、Ⅱ」二基があり、これが無事か見ます。
この東の辻は戦前までの各地図を見る限り変則的な四辻に描かれており、現国道の様に一直線になったのがいつかは、地図では確認出来ていませんが、①江戸の道、②明治の道(旧丹州街道)、の二本は西の浮峠から下って来て、北に折れるようです。合流後しばらくは4本とも同一になり、北に進むとしました。
④現国道を辻から400m北に進むと、右手にガードレールの切れ目から裂けるように右(東)寄りに続く直線道があります。多分これが①②③の各道だと思います。
が、これを行かずに④現国道の東側歩道を登ります。すぐ右、数メートル下には旧道が通っています。何故?旧道を通らない。
理由は「山辺新砂原橋東の道碑」を見る為です。
久しぶりに見ると、植込みが刈込まれており全容が見える状態になっていました。今迄確認出来なかった部分が読めそうです。写真の撮影とサイズの計測を行い。「今日は幸先が良いぞ!」と次に向かいます。
橋の北から東下を見下すと、②明治の道と思われる痕跡が山辺川の左(東)岸に渡っているのが見えます。想像では「中堂橋」が架かっているのではないか。
尚、2025/1/23現在私の見ているweb上の地理院地図は明らかに現状の道路とは違っており、如何なものか。現在の橋は平成21(2009)年5月竣工とあり、15年以上地図が更新されていない事になる。
②明治の道は、現地理院地図にも描かれている様に思いました。③昭和の道は北に沢を渡った後、北東に向きもう一つの沢を越えています。何方の沢が国絵図に書かれた川か分かりません。
現場に着くと北に渡る橋(多分奥山新橋)はあるものの、北東に渡る橋が見えません。北に越える橋は割に深い沢を越えており、これが山辺川本流であろうと思ってしまった。現地理院地図で見ると橋の手前を左(北西)に進入する破線の道を②明治の道と想定していたので、その手前に①江戸の道が有るだろうと想像し、橋の手前を見ると左(北西)に入る道が見えます。振り返り南方向を見ると、川沿いに右岸を北上して来る綺麗な風情のある道が見えます。これを道なりに③昭和の道を横断し進むと、橋の手前を登る道にスンナリと進む事になります。依って迷うことなくこの道を進む事にしました。現地理院地図にも道が描かれていない①江戸の道であると、意気揚々と進みます。(これが誤り)
②明治の道が何処で③昭和の道と合流するかを確かめます。現地理院地図では不自然な位置で繋がっている様に見えるからです。
チェックポイント(C)4は気付かず通り過ぎる。C5はほぼ予定通り、C6は少し西に有る様で、東に振れたC7は現地では見つからず、依って通過せず北に20m程進み、西折れし、③昭和の道を見上げながら進みます。西に転向し30m程で何故か本流の沢に向け下り始めます。
現地理院地図で②明治の道としたものが、③昭和の道に繋がる地点は無さそうです。強引に崖を登れば③昭和の道の基礎石積みに到達しますが、ガードレールも乗り越えなければならず、合流地点とは出来ません。(後で確かめます。)
③昭和の道を登り、上記写真地点を過ぎる事150m、西向きであった道が徐々に北に向きを変え終わる直前辺りに、左(南西側)にガードレールの切れ目に、一見、三ツ辻風地点がある。③昭和の道を外れ、これを少し南側に入り込むと、いきなり地面が落ち込んでいる様で、危うく落葉を踏み抜きそうになる。
つまり、南西には道が無くなるのであるが、西下に砂防提が見えた。又、③の道を戻る方向に下る様な跡もあり、先に折り返した②明治の道に続く可能性もある地点である。現状では両方とも下るには相当な覚悟がいりそうで、行くのは止めます。
峠の標高約570mから、多分この後は①②③とも同じ経路で、④現国道の合流地点、標高約525mへ、ほぼ直線的に進んでいる。50m程しか下っていないので、片峠とも言えるでしょう。
合流点の三ツ辻は「能勢辻」と呼ばれたようで、「右、池田・妙見」(はらがたわ峠)と、「左、亀山・京」を案内する道標が建っていたとされる。昭和45(1970)年以前の国道改修で遺失したらしく、今日も捜すが見つからなかった。