大阪(有馬街道)

明治期の起点高麗橋

神崎の渡し
尼崎側

重要都市を結ぶ道ではないが、湯治、遊山目的なら古くは第一の道筋であったと思う「有馬街道」を追ってみます。
先ず、有馬は有馬温泉と同じとみなしその歴史を少し。『日本書紀巻23(舒明記)』に「舒明三年秋九月丁巳朔(玥)乙亥幸干(摂)津国有間温湯冬十二月丙戌朔戊戌天皇(至)自温湯」とあるは「
舒明3年秋9月19日(G631年10月22土曜日)摂津の国の有馬温泉にイデマス。冬12月12月13日(G6321月13日金曜日)天皇温泉よりカエル。」と読むらしく足かけ84日間もいたようである。次に聖武天皇(701〜756)頃の行基泉底に如法経をし、等身大薬師如来像を刻み一堂を建て納めて、温泉発展の基礎となった。その後戦乱と天正4(1576)年の大火により壊滅状態であったものを、秀吉が天正11(1583)年の入湯を機に、慶長2(1597)年より大規模な改修工事を行い今に至る。ただし、工事が完成した慶長3年の5月入湯予定激しい風雨中止され、その後まもなく床に伏し同年の8月18日に没とある (観光協会HPより)。
これを信じると、秀吉の旅行は現在2021年
から、438年前の話となる。別項の「しるべ岩」は秀吉を案内するためのもでは無いとは思うが、万一秀吉が見たのなら非常に古いものといえます。

では、一庶民が『摂津名所図会』寛政10 (1798)年刊をたよりに、有馬温泉湯治の旅に出る事にしましょう。1800年出立とすると今から221年前、秀吉から217年後となる。秀吉は大坂城からの出発でしょうが、こちら町民は高麗橋からとします。橋東詰めに立ち、最初の目標は?と。大阪市内で「ありま」を示す道標はないので、そこを目当てに進めないので、代わりの神崎、伊丹等で探しても明治期の道標しかなく、中山とするものが九条北小学校に有る様だがそこを経由すると遠回りになる。尼崎市が「有馬道は神崎から」としているので、そこに向かう道としよう。明治の地図では「中国街道」と書いたり、大阪府史では明治9年6月太政官通達六十号として「国道二十六号路線」と呼んだ様で、「高麗橋、北区北野茶屋町、西成郡中津村、神津村、歌島村を経て、…川辺郡小田村の内神崎に入る…」としている道を目指します。それを明治期の地図で見ると、高麗橋を西に難波橋筋を北に曲がり難波橋で大川を越え、西天満から北野村、三番村、萩の橋、十三、中津川(新淀川ではない)を渡しで越え、成小路村、神崎川渡しから、神崎へと読み取れる。現在の中津あたりから北はほぼR176号相当と出来るでしょう。

現在の難波橋(ライオン橋)は堺筋の延長に架かっているが、近世では西の難波橋筋にちがいないでしょう。橋以後の道は少し不明確であるが、古地図では現太融寺東辺りを通って北西に向かう旧道らしきものが確認できる。この道は多分今でも残る道と思える。太融寺辺りに「北区野崎町5の道標(不明)」が有ったと思うが、見つけられない。その後堂山町、茶屋町、中津を過ぎて新淀川の大正時代の「北区中津7の道標」は当時見るすべもなく、淀川さえ無かったはずである。

太融寺南東角道標無し

江戸期のお役人さんである太田南畝さんが書いた「革令紀行」に出発地(道修町三丁目)と行き先(小倉か)がちがうけれど、よく似た道筋を神崎までたどっている様子が書かれていて、参考になるかもしれない。文化元年八月十八日(1804年9月21日金曜日)のことらしい。

「鶴の茶屋趾」碑、「元萩の橋」碑等があるが、道標では無い。又どの程度信憑性のあるものかも分りませんが。「元萩の橋」碑が残る地点は能勢街道の起点とされる場所でもあり、多分北への道がそれで、西へは「ありま道」(中国街道とするものもあり)がある。明治の地図でもハッキリと読み取ることが可能である。地図では四辻に成っており北東部に「萩寺」があり、辻南に小川が流れここに橋の記号が書かれている。これが「萩の橋」であるなら、南から来た人は橋を越えて左(西)折れし中津川を渡り十三へ進んだことでしょう。北への能勢街道は木川に渡っている。
尚、この辺りの道は「陸地測量部大阪地図 (大阪古地図集成 第22図)」の北端が参考になると思います。右(北)岸にある十三の渡し説明板にも地図が載ります。

鶴の茶屋趾碑
北区茶屋町8-9

元萩の橋碑
北区中津1-11-1

十三渡し趾、明治11年までは舟渡

十三に入れば、街道筋ではないが駅東の神社にまとまって三基があり、別項にまとめているのでそれを参照下さい。下は案内板の拡大、クリック(タップ)すると拡大できます。
今でこそ十三は有名ですが、近世にあっては十三の渡しをわたった所に集落は無く、北西の今里が中心であったようで「ありま道」は今の十三バイパスの加島出口を降りた、淀川郵便局の東の道に相当したと思います。渡しからこの間は道が残っていない。現郵便局の地点で西に曲がりその後道なりに北西の三津屋に向かいます。この旧道は部分的に十三筋より北側に
残っていて「田川北1交差点」からは北にはづれる。この辻は分岐だけを見れば三ツ辻に成り、コンビニの前の細い道(旧道)に入り170mで三ツ辻に成ります。

「中津7の道標」に明治29年に川工事開始とある。

三ツ辻の正面に道標にしなかったのですが寺を案内する大きな「淀川区田川北1の石標」があります。右側の道を進めば突当りの寺だと思います。道標としなかったのは、右とか一丁とか書かずに寺名だけを書くので、ここから参道だったと見なしたためです。
これを左に旧道は進みます。

道なりに進むと西に向きを変え、三津屋南2交差点にでます。これを右(北)に細い道が旧道です。送電塔のある広い道を横切り、ここから100m道なりに西に進んだ三ツ辻(現十三筋の手前60m)を右(北)折れ、110mの三ツ辻を左(西)折してから道なりに330mで今の十三筋に出ます。合流直前右手に小さな墓地があります。三津屋の村外れでしょう。
十三筋(府道41)を250m進み三ツ辻を右(北西)の細い道に入ると旧道です。加島集落への道で道なりに進みます。旧道入ってから460mで阪高空港線を潜り、道なりに460mで新幹線を潜り、50m先の三ツ辻を真っすぐ細い道に進むと堤防上の道に突当り、ここが神崎の渡しの大坂(加島)側であったと思われます。左岸堤防下には渡しの跡などは残っていないようです。田川北1の石標からここまで2.7㎞程の間は見るべきものはなく、町工場の間を抜けるだけで旧道の風情は感じられない道となります。
天保の国絵図等を見ると川幅三丁とあり加島側には一里塚もかかれ、道自体は太く朱線で描かれており重要な道でったことがわかります。ちなみに、「十三船渡川幅壱丁」と比べると川の大きさが良く分る。中津川の南にも一里塚があり、これを上記のルートでみると4.5㎞と推測され、鹿島の一里塚は村中であったかも知れない。

写真準備中

「ありま道」探索を続けるためには、南140mにかかる神崎橋に迂回し、渡ったのち右岸(北岸)を300mのぼり、三ツ辻を西に折れる必要があります。これ以降は「尼崎(ありま道)」に書くことにします。なお、右の写真の金毘羅山の石灯籠は一本北の辻に置かれています。

神崎の渡し、尼崎側。加島側は灯籠にかくれる。

2021/8/8 作成中です。