妙見山奥ノ院丁石

妙見山奥ノ院への道は、南から「今谷道」、西から「本道」、北から「堀越峠道」と三本が有る様ですが、現在確認出来たもののみ載せておきます。

1.始めに

まず、今谷道。この道は妙見山本殿(開運殿)から本瀧道を下り、現在の府道4号線に出た後、「奥ノ院近道道標(野間中今谷道入口の道標)」や「奥ノ院」の額が掛かる鳥居が建つ地点から分岐し、奥ノ院へ向う経路とします。近道でない道は?の問いには答えをだせていません。
 「今谷」の由来は分かりませんが、現在の地図には「今谷池」が載り、この谷を指すのでしょう。池自体は新しいもののようです。

妙見山本殿から府道4号合流迄は「能勢町」本瀧道や、右のボタンから「本瀧道丁石一覧」を参照下さい。
鳥居を潜りすぐこそ少し登りますが、ほとんどは緩い登りで歩きやすい道です。とかく奥ノ院は山奥でキツイと思いがちですが、ここは奥ノ院直前までは鼻歌まじりです。遠望できる
景色が少ないのが欠点でしょう。

尚、よく使わせていただいている『今昔map on the web』明治42年測図ではこの辺りが切れています。そこで、地図の年代は下る(戦前1910年頃か)ようですが『ひなたGIS』でスタンフォード大学出自の「日本版MapWarper1/5万」で見ると古い道がつかめる。
 私自身は図書館で入手した明治28,42年等の大日本帝国陸地測量部の地形図を使用しています。

2.二十二丁今谷道入口(地図上距離2,796m、25.7丁)

奥ノ院一の鳥居とする資料有りを北に見る。道標右端、一つ置いて左に丁石。

野間中今谷道入口の道標を見ておきましょう。写真右端に建つ石です。何といってもこの道標の「近道」が気になる点です。『能勢の道しるべ』では答えを出していますが、私は納得していません。詳細は下記ボタンから参照して下さい。
 
鳥居の額には「奥ノ院/妙見大菩薩」とあります。奥ノ院一の鳥居になるのでしょうか。

二十二丁石

近道の道標と共に建つ丁石には「二十二丁(2.4㎞)」とあります。ここへは何回となく来ているのですが、全工程を行くのは初めてです。
 鳥居を潜り20m程の左手(西)に「南妙法蓮華経…」の題目石が建っています。この少し先まで山道風だが直に平坦な林道になり、参詣道の趣が無くなります。

3.見つからない21,20丁

 21,20丁丁石が残るとあるが、見つけられなかった。20丁辺りは右手の山から土砂が崩れてきたように見えひょっとすると埋もれてしまったかもしれないが、21丁辺りは道の拡幅にともない遺失したかも知れない。

題目石を北西に見る、先で大きく東に曲がる

10m先、右から土砂が押し寄せ道巾30㎝程になる。21丁過ぎ。

林道?との合流点を西に見る

21丁の少し先で三ツ辻に成っており、東方へ向う林道に突当る。ここからは更に広くなり車も入れそうな道となる。
 写真左は合流点を西に見たもの、左奥から来て、右奥へ参道。右手前への道は幅が広く山中へ登るが未調査。
 写真右は期待に添えなかった石、特に上のものは山型に加工された様に見え、少し掘り返したが裏面にも文字は無かった。

気になる石

大原川の支流?の橋を振返る。

4.無名の橋を渡る

距離的には16丁を過ぎて、谷にかかる橋を渡ると、野間大原の集落下部を抜けて登って来た舗装道との辻になる。

橋を渡り40mの辻を北に見る。

広い辻の北西部から南東を見る。左端に道標

5.野間大原の道標(2,349m)

この辻の北東部に道標が建っており、妙見山奥ノ院を案内している。今来た道が参道近道であったとすれば、左(西)から登って来る道が元々の参道かも知れない。

ここからは「奥ノ院今谷道」参道が一本になり、ある意味起点かも知れません。

十七を北に見る

6.十七丁丁石(2,196m20.1)

辻から北へ50m、三ツ辻の右手(東)に野間大原野集落センターがあり、道左の電柱脇の崖縁に「十七丁」丁石が建ちます。「二十二丁」から地図上の距離は合いませんが、この後の丁石探査にはここも起点の一つにしなければなりません。

十七南面拡大

16丁想定を東に見る

16丁想定地点には見当たらず、突当りを左に曲がり橋を渡った所に気になる石があり、又他に左手遠く(下流30m右岸)にも石を見つけたがこちらは道が有りません。何れも写真だけを載せておきます。丁石では無さそうです。

別谷橋?北詰の石

右岸の未確認石

右に曲がるべき五つ辻を北に見る

7.間違いやすい五つ辻

橋を渡って30mで五つ辻になり、これを右折し北東方向へ進みます。この辺りは圃場整理が有ったのではないかと想像させる道の造りで、参道の雰囲気は欠片も有りません。ただ明治の地図の道とは大きく外れていないと言えそうです。
 道なりに進むと民家に入るので要注意。私も間違えました。よく見ると石垣に案内地図が張り付けられています。これを見ても妙見山から奥ノ院への道であることが分かります。

石垣南面の道案内板

15丁辺りを北に見る

15丁辺りを北に見ると、右手(東)土手に気になる石が見えるも丁石ではなさそう。
 14丁辺りも丁石は見えず。先に四辻が見える。

14丁辺りを北に見る

明治の地図の拡大、赤丸印内、現在の直進道が無いように見え、北への点線道も西から接続し「ケ」字状に見える。聯路を東に進み西に折り返すと、かなり遠回りになる。

8.大原集落北の川の越え方

 14丁辺りの四辻がこの参道のキーポイントの一つになります。大正9年の丁石を辿っているのでその頃にこの四辻を真っすぐ進む道が有ったか、無かったかが問題です。真っすぐ道の先には小さな谷があり、これを越す道の有無が参道の距離に影響します。大正9(1920)年の地図が無く、明治の地図を見ると、聯路で描かれる道は東へ進むように見え、北へ進む部分は「大原野」の文字で隠れています。戦前(年詳細不明)の地図では直進道が確認できます。
 出発点の二十二丁丁石から奥ノ院迄の地図上の距離が2.8㎞(25.7丁)と既に短かすぎる距離であるのに更に谷を越すため迂回するとなると、余計に誤り(少なくても1.5丁)が大きくなります。ただし、妙見山にある道標の「奥ノ院45丁」に対しては誤差が2丁程になり迂廻路が有利に働きます。

 取敢えず、ここは北へ直進します。

谷を越えて13丁想定地から南を振り返る

谷(大原川か)を越えて13丁辺りを北に見るも丁石無し大阪府の建てた棒標が倒れるのみ、が。
 その60m先の右(東)側、野間大原自治会の名前の入る消火栓?の向うに、十三
丁石が建っていました。

13丁辺りで北を見る

十三丁石を北に見る

9.十三丁丁石(1,656m15.2)

十三丁石が残っていました。想定より60m先なので、誤差の内と出来るであろうか。十七から辿ってなので、本来は奥ノ院からの距離を以て移設の判定を下さなければならない。
 結論から言うと、移設されていると思う。詳しくは「
妙見山奥ノ院今谷道丁石一覧」を参照下さい。

十三西面拡大

十二を北に見る。

10.十二丁丁石(1,542m14.1)

連続して十二丁石がありますが、120mと少し間隔が空きすぎで一般的な丁石の精度としては不合格です。近くの駐車場の都合で少し北に移設されたものと思われます。結果として丁石基部が露出する状況を招いている。この辺りの状況では、参道の土砂が洗い流されるとは思えません。

十二東面

11丁辺りを北に見る

11丁は見つかりません。
 十二
から120m地点に四辻があります。戦前の地図では参道を東西に横断する道は、西、地黄にある野間神社から、南東の牧、又は北東の犬甘野に続く道として描かれているが、現在の地図では北の堀越峠へ繋がる林道のようである。参道の進む方向には「林道/大原奥ノ院」の黄色い標識があり、南北も林道と思われる。

林道との四辻を北西に見る。左黄色標識に「林道大原奥ノ院」とある

を北に見る

を振返り見る、林道を避けているかの様

南東面

11.十丁丁石(1,284m、11.8丁)

十二丁石から260m、上記林道標識から110m辺りに十丁石が有ります。舗装されているのは林道と成っている為でしょう。参道の雰囲気はありませんが、道の左(谷)側に建っていました。振返って見た写真を見ると良く分るのですが、谷側に傾いており転げ落ちそうに感じます。私なら山側に建てると思いますが、皆さんはどうお思いでしょう。
 そお、移設されていると考えます。理由は後程述べます。

道に背を向ける七丁を北に見る

12.丁丁石(1,194m、10丁)

先に七丁丁石が現われます。
 十
丁石から90mに九ではなく七丁石が目立たない様にか、道の外を向いて建てられている。これは間違いなく移設であろう。又、唯一施主の住所が「和歌山市」で他の「大阪市」と異なっている。

七丁南西面、施主の住所は和歌山市

九丁を北に見る

13.丁丁石(1,164m、10.7丁)

左上の七丁の写真の後方に小さく見えることからも分る様に、30m北に九丁がある。十丁からすると120mの距離になり、ほぼ1丁(109m)の隔たりとして良いか。
 が、私説としては移設としています。

九丁の西面(手前石の左側)

今谷池を北に見る、参道は右手(東側)を北へ

14.今谷池

九丁を過ぎて70m地点、左手に進入出来そうな切れ目を見つけ、ここに寄りましょう。参道からは目に出来ませんが池の南側の堰堤に出るとチョットした池があります。多分今谷池だと思いますが、戦後の地図では存在が確認できません。新しい物となれば、当然参道は付け替えられていると考えて良いでしょう。この時「丁石の運命は如何に?、次回に続く」とドラマではなるのですが。・・・

八丁丁石東面

15.八丁丁石

この後、本来なら八丁丁石が有るはずですが、それらしい石は移設されておりこの参道上には有りません。現在は二十二丁丁石(この記事の出発点)のある府道4号を西に約1㎞下った三ツ辻に建っています。写真のみ載せておくので詳細はボタンから参照下さい。

現地を西に見る、右奥は府道4号を野間中へ

左の力石の後ろにある

8丁の想定地点

林道との分岐辻を北に見る、左奥へ参道

16.作業小屋の分岐

九丁丁石から想定した八丁辺りを過ぎ、目印となる作業小屋が見えてきます。この前で多分林道は右(北東)へ分岐するものと思いますが、左(北)へ参道を進みます。

七丁想定地を北に見る

七丁は既に通って来ていて、九丁から見てこの辺にあったのではとする写真を載せておきますが、建設当時の位置ではないと思います。作業小屋からすぐで広場の様に拡幅されています。
 丁石代わりになるか、案内図が建てられていました。

歌垣山、地黄地区の案内板。奥ノ院も描かれている。

6丁辺りを北に見る

5丁辺りを北に見る

想定の6丁、5丁(2,110m)地点を空しく過ぎていきます。すぐ左手(西)には沢が流れており注意は自然と右側になりますが、見落としは無いと思う。(実は三回ほど往復しています。)

木橋分岐辻の道標を北に見る

木橋道標の南東面(参道側)
「右、奥ノ院」

木橋道標を南に見る

木橋道標の裏面
「左、妙見山」

17.木橋分岐の道標

想定5丁を過ぎて、90m程に左(西)に木橋(現コンクリート製)が架かる三ツ辻が現われます。この左の道は、折り返す様に200m程登りその後一気に真如寺まで下る道なのですが、現在の地理院地図では分岐点が誤って書かれている様に思う。
 この三ツ辻の北西部に「
今谷道の木橋分岐点の道標」が建ちます。これには当然「右、奥ノ院妙見道」の案内があり、右が矛盾しないよう参道に面して立っているが、裏面には「左、能勢妙見道」とあり後ろに廻って道標を見ると同じ方向を案内する事となり、おかしい。考えられるのはもっとタイトなT字路の北西角又は南西角に南面して「右、奥ノ院」とあれば、裏面の「左、妙見山」が奥ノ院から降りてきた人に対して右(西)へ折れて橋を渡るのではなく、左手の南への道を案内するとして良しと出来る。
 地理院地図が昔の分岐点を示していると想像するなら60m南のY字路北部からの移設と出来るかも。

木橋東の案内板拡大

18.丁丁石(574m、5.3丁)

くどくどと申し訳ありません。参道に戻りましょう。木橋風横の案内図の拡大を載せました。赤色で「現地点」と示されている地点から再開です。二十二丁から2,132mとなる地点辺りで参道は北東に方向を変えます。
 90m進むと右手(東)山側に五丁丁石が建っています。上の想定位置ではなくこんな所(想定位置から112m遠い)に立っていました。

五丁丁石を北東に見る

五丁丁石を東に見る

五丁丁石は右手(山側)に建っており、参道は舗装されていないがまだ道幅が広く移設の可能性は避けられません。この辺りまで下って来るともう杖はいらないようです。落ちていた杖を立て掛けて撮影。
 湿気が多いのか苔を剥がしてみて「五丁」と分かりました。

五丁北西面

四丁手前の車止めを北東に見る

19.一つ目の車止め

五丁丁石から80m地点に車止(二輪車用か)の柵が現われます。
 これを抜けて20m程進むと左手(北西)に四丁丁石が建ちます。五丁からはピタリ1丁です。道もようやく参道らしい登りになります。

四丁から南西を振り返る

四丁丁石を北東に見る

20.丁丁石(474m、4.3丁)

四丁丁石は谷側に建ちます。左手の沢には水がありません。右手山側には石垣が詰まれ道の機能を守る努力が忍ばれます。参道としての用途だけなら驚きのものとおもわれますが少し拡幅されているようです。

四丁丁石の南面

三丁丁石を北東に見る

21.丁丁石(343m、3.1丁)

四丁丁石から130m、1丁よりやや遠いが三丁丁石がこれも左(谷)側に建ちます。ただしこの辺りでは道幅も狭くなり参道自体が樋状になり、左側の土手状部分に置かれています。いい雰囲気に成ってきました。
 苔なども無く非常に綺麗な石です。

三丁丁石南面

右の参道に背を向ける石、左端は電源盤か

廻り込み参道を見下すと裏面に「常吉大善神

22.常吉大善神

三丁丁石から50m程でちょっとした目印があります。妙見山本瀧道には沢山あったのですが、今谷道では多分唯一かと思う、聞いたことのない神様が祀られています。「常吉大善神」とあり、参道に背を向けて立ちます。その谷側には奥ノ院の為のポンプ施設の様なものがありこれを守る為でしょうか。

最初の右折れで東を向いた正面に建つ二丁丁石、土と落葉に埋もれ見つけにくい

23.丁丁石(238m、2.2丁)

三丁丁石から105m、丁度1丁地点に二丁丁石が建ちます。北東に向かっていた参道は直前で右に90度ほど折れ10m程で左に折れる、参道中唯一の九十九折れ地点の突き当り部分になります。位置的に崩れた土砂に埋もれやすいのか上部が少し見えるだけでした。

通り越して上から見た二丁丁石

二丁丁石の北面

二丁の左下部拡大

落葉や土を片付けて見た二丁丁石は北面を向いていました。他の石と変わっている点は施主の名前上部に「魚忠事」と多分魚屋さんの屋号が付くことです。施主に「忠」が含まれていないので、何代目かの店主かも知れません。尚「事」はくずし字で書かれている。又「忠」を「心」とする資料があるが誤植であろう。

右上、一基目の道標を北東に見上げる。左上、二基目の道標は隠れて見えない。

四辻東部より西尾根筋を見る。手前が下の、右が上の道標。中央には現案内標。奥に進み奥ノ院、左に下り妙見山へ。

24.鞍部の道標二基

二丁丁石から80m、峠鞍部の直下の右手(東側)に道標が一基、鞍部に出て二つ目の車止め?を抜けて左(西)の尾根筋に向いてすぐ右手(北側)に二基目の道標があります。鞍部を真っすぐに北側(堀越峠方面)に下る道が有る為三ツ辻と思うが、よく見ると尾根筋を東に向かう地図に載らない道も有るので四辻かもしれない。(右は三角点に繋がる道とする資料を見受けた。)

一基目(下)の道標。妙見山へ

この二基の道標を見ておきましょう。
 下部にあるのが奥ノ院から妙見山へ下る人への案内「右、妙見山」とある。上部の奥ノ院へ登る人の正面に見える道標には「左、奥ノ院妙見」と指示している。施主は同じ「大阪大乘結社中」とあり通常なら一本の石の各面を利用して済ますと思うが、資金のある団体であった為か、或いは辻が今よりもっと複雑な形状であった為か、二基に分けて建っている。

二基目(上)の道標。奥ノ院へ

一丁丁石を北西に見る。参道は左へ進む。

参道から下り方向を見る。正面に一丁丁石が此方を向いている。

25.丁丁石(115m、1.1丁)

下の道標から鞍部に出て、車止めを抜けて上の道標迄が10m程、左(西)に尾根筋を30m進むと二又(Y字状)に分かれる広い辻に出ます。辻の手前右(北)側に西を向いて一丁丁石があります。二丁丁石からは120m、一丁強になります。
 参道はほぼ直進(写真では左)しますが、右の広い道も奥ノ院下部の建物に繋がっているようで、荷物運搬用と考えれば鞍部の車止め設置も納得がいきます。
 丁石について話を戻すと、立っている向きが理解できません。参詣するものに背を向けています。これは多分道を拡幅した時、残存距離を示す丁石とは知らず、元の向きも知らず、奥ノ院からの距離を示すものだとして、奥ノ院の方に向けて移設した為と推測できます。
 移設時に作業員に対し、設置位置だけは指示するも、向きを指定しなかった為、現場で困っている状況に遭遇したことが、此処ではないが茨木市でありました。

一丁丁石西面

一丁から80m地点を西に見る。奥ノ院は右階段の上。沢山の献納石は丁石との関連分からず。

さて、ここで少し先走りますが、今谷参道の丁石はこれが最後です。
 では、前に書いた「最初と最後の石は中間の石と差別化されている」に従えば、この一丁丁石にそれを見出さなければならないが、どうでしょう。それともゴールに最後の締めくくり石が有るのでしょうか。
 結論だけ書きます。目的地では最後の石を見つける事が出来ませんでした。兎に角多くの石があり見落とした可能性は大いにありますが、無いとします。
 この一丁丁石は二十二丁丁石の様に他の面に銘が刻まれることもなく、大きさも変わりません。唯一、中間石と異なるのは「是
より」とカナで書かず、二十二丁丁石と共に漢文風に「」とするだけです。判断は皆様におまかせします。

一丁丁石西30m三ツ辻を北西に見る。参道は左へ。

26.奥ノ院直前の分岐点

最後の難関です。一丁丁石から30m地点にまたしても車止めの様なものが建つ。これをすり抜けるのは容易なのですが、三ツ辻に成っているのです。右か、左か、これが難関。
 左、楽な方を選択して進みます。「ナンジャソレ」とツッコまないで下さい。明治の地図をみると等高線に沿って進んだ後、南から奥ノ院に登っているように見えるからです。又、左の平らな道は立派な門柱と題目石に挟まれた石段がある正門らしい地点に繋がり、参道に相応しい事は通った後には分かります。
 帰りに右側の道を降りてくることにします。

一丁から80m西、奥ノ院本道との合流点から北を見上げる。山門は無いが標柱や題目石が建つ。奥ノ院へは石段を登る。

一丁丁石からみたゴール地点を北に見る。奥ノ院はまだ30m(水平距離)程ありもう一度階段を登る。

27.目的地点(0m、0丁)

終に丁石の示す0丁地点に到達しました。一つ目の階段上部です。ここに鳥居とか、終着点を示す石があれば良いのですが見当たりません。又、上記難関地点から急登してきた道は写真の右手(東)に合流しますが、その道を選べば、終点はこの先の階段下辺りに成ると思われます。

28.奥ノ院の写真

妙見山奥ノ院の写真を少し集めてみました。
webの検索で余り写真が見当たらなかったので載せておきます。

帰りは省略し、以上で終りますが、忘れ物を幾つか載せておきます。

29.移設の考え方

第一に、上記で「後で述べる」とした、丁石移設問題です。
 以下、全て私説であることを先にお断わりしておきます。
「今谷道」に残る丁石は三つのグループに別れ、前半「22丁、17丁」、中盤「13丁~9丁(8,7を除く)」、後半「5丁~1丁」とすると、後半はほぼ1丁の距離が守られ元の位置或いは近接移設程度と出来、前半部は鳥居の存在により二十二丁は動かし難く元の位置とせざるを得ない(但し距離は不満)。
 問題となる中盤は、大きく移設された
八丁と七丁が順番を守らず現れる状況の為この二石を除くと、ほぼ1丁間隔で並んでいる為元の位置としたく成るのですが、今谷池が建立当時には無く、池造成により参道が付け替えられ同時に丁石もまとめて移設があったと思われる。その結果、9丁丁石から下(数字は大)は全体に1丁近く奥ノ院から遠ざかって移設された状況と推理する。更に、その後林道の改良・拡幅等に伴い幾度かの移設があったと考えられる。詳しくは「奥ノ院今谷道丁石一覧」を参照下さい。

30.その他

第二点、一丁丁石後30mの分岐点で「帰りに通る」とした道であるが、こちらは急坂であり距離としては短くなる。よって一丁丁石からすればゴールが上記想定地点より北に移動し、奥ノ院直下の階段下辺りになり建物に近くなり、尚且つ、途中に休憩用の石のベンチが設けられている等、捨てがたい要素があるものの、なにか勝手口から入る感じとなり採用しなかった。

三点目、一丁丁石地点から右(北より)に続く広い道を参道にしない理由は地図に無い事が第一の理由です。これを進むと奥ノ院の東下にある建物跡の様な地点迄はいけるが、遠回りになり、奥ノ院に出る経路がわからなかった。多分資材搬入用の道であろう。走って行った為写真を撮り忘れています。

鞍部から北に100m程下り振り返って見る。

四点目、一丁丁石下部の鞍部の四辻、北方向に下る道と、東の尾根筋道は参道ではないのか。
 北へ下る道は舗装が一部残る等、参道としても機能するようであるが、300m程下って見たが丁石等は見つからなかった。多分堀越峠に繋がる道で亀岡方面からの参詣道と考えられるが今後の調査としたい。
 東尾根筋の道は少し登ってみたが、怖くなって帰ってきました。地図に無いにもかかわらず、ズーッと続きそうなのです。

鞍部東尾根筋道50m辺り、まだまだ続く。

以上。2022/12