神戸市北区南部_南湯乃山道
丹生山系(西は三木市志染のシビレ山から東は神戸市北区有野町唐櫃のキスラシ山迄14kmの山塊_wikiより)の南北を湯乃山道が挟み、「ひとみ」状に見え、この内南側の部分「衝原」から「蓑谷」迄の部分をまとめてみる。国道428号から県道85号相当になります。明治の地図では旧道と現県道等とは重複しない部分も多くあり、当然旧道に道標が残ります。又東西の湯乃山道に南北の山を結ぶ道が横切る形となるが、山中に入っては多く神戸方面を案内し東西を意識していないように見えるが、人の流れを反映したものであるかは何とも言えない。
丹生山には古くからの神社や寺があり、参詣の対象として丁石が数多く残り、表参道沿いには欠けることなく残っているが、その一部しか目にしておらず今後の課題としています。
尚、面白い事に「五畿内志摂津国」の項の「官道」の「〇亀山路」の経路の一部として道場川原、唐櫃、衝原、国境として書かれておりこちらの名称とすべきかも知れない。
①つゆの井と無動寺案内道標へ
蓑谷の皆森交差点を起点に出だしは北になるがすぐに国道428は西へと進みます。
ここでいきなり脱線、「栗花落(つゆ)の井」を観光します。摂津名所図会に載るからではなく、別項皆森交差点にある「下谷上の道標」の案内先にある「八幡」ではないことの確認の為です。
志染川の左岸(南岸)を1.4㎞進むと大きな四辻があり、右折(北)するとすぐに志染川の幸座(こうざ)橋を渡ります。明治の地図ではこの道が主要道。橋北詰から道なりに300mで左手(南)に火の見櫓があり30m先右手(北)に消防団団庫のある三ツ辻を大きく右に廻り込み東を向き、正面30mに個人宅のような門がありこれが入口の様です。門を入り東へ40m程に井戸跡があります。そばの観音堂と弁財天社は昭和47(1972)年の再建とあり、八幡ではない。
大正四年の銘があり、「右、若王山無動寺」「左、播州三木志染谷街道」とあり多少の移動は有るもののこの三ツ辻を北東に登ることは間違いなさそうです。現東面には「是ヨリ四丁(436m)登ル」とあります。二基重なってたつのは再建された為で後ろ側があたらしいと思われる。
②新兵衛石から無動寺へ
『神戸の道標』山下道雄の北区№98の「福地 無動寺境内、鐘楼のかたわらに横倒しの道標」は見つからなかった。
左の写真は鐘楼を南東に見たもの。周囲にはなかった。
③無動寺から字岩ヶ辻の道標へ
ルート②、六條八幡の東から「福地字岩ヶ辻の道標」へ。
上記「山田町福地3の道標」の辻から無動寺へ向いましたが、その時「辻から60mの六條八幡への分岐の三ツ辻に入らず」としたが、これを左(西)に入ると、20mで三ツ辻になりこれを北に折れ坂をのぼります。正面土手には現在の道案内があり、「八幡神社0.4㎞」とあり別に「太陽と緑の道」の案内もありこれに従ってください。道なりに進み西へ向きを変えると、上記の案内板から170m地点の四辻に着きます。この北東角にも今の案内板が有り、北「無動寺1.3㎞」に折れます。あとは少々キツイ坂道を570m登ると上述の池下の突当り三ツ辻に出ます。
何時も参考にさせて頂く『神戸の道標』山下道雄、では北区№94として紹介されている。それには所在地を「岩谷道」としてあり、別項の「くつかけ峠道」では、その道筋は「…無動寺への参道口にあたる福地から分かれ、山田川(志染川)右岸に沿って西に行き中村八幡をすぎて岩谷川を遡り、”シバンド”の草地に立つ道標前を通って急坂を登り、稚子ヶ墓山と帝釈山との鞍部に出る。」としている。明治の地図で見ると八幡神社の西方から岩谷川沿いの小径が北上し、当地で上に述べた尾根から下って来る間路の道と合流しているのが分る。ただ次の三点で上記の「くつかけ峠道」の経路に疑問を感じています。
一点は明治の地図にも有り達路以上(県道、国道)の道として現国道428号に相当する道が描かれている。なぜこちらを「くつかけ峠道」としなかったのか。
二点目、天保の国絵図に中村のやや東の川沿いから、福地村を突き抜け一貫して左(西)に曲がりに「なけ町峠」へと繋がる朱書きの道があり、起点が中村(福地の対岸)よりやや東に思え、かつ八幡神社の西外れから始まる岩谷川沿いの道なら少しは東に向かう様子が有ってもよさそうである。
三点目はこの道標の建つ向きと、案内先が南方向しかない点である。ここが北への主要な通過点であるなら北方面の案内、例えば「淡河」等があっても良いと思う。
これらから、この地点は現国道筋に当る主要街道から南西に外れ東下村へ出て、その後烏原村から兵庫へと向かう人の近道として利用された道ではないかと思う。尚、この兵庫を案内する川沿いへの道は現在見当たらなかった。
尚、ここから北へ淡河方面を目指すと「淡河町投町山の辻環境センターの道標」(約3㎞)が有りますが、岩谷川筋を遡っていないので別項にします。
参拝を済まし、南の石鳥居の前の辻を西に下り40mの三ツ辻を南に折れ、80mの志染川の神前橋を渡り、200mで旧県道に出ます。ここからは西に旧県道をほぼ一直線に進み、東下集落を抜けて神田川のかやのき橋が970m地点に架かり、渡り終えてから70mにある四辻を左(南)に折れます。折れた地点から南へ60mの四辻を西に曲がり40m地点の左手(右側)に石灯籠が建ち「鷲尾氏屋敷跡」らしい。その西10mからたんぼの畦道を50mいくもよし、南へ舗装路を迂回(70m)するもよし、野中の三ツ辻東部に「山田町東下の道標」が建ちます。
⑤野中にポツントある東下の道標
この道標は小さなものでなぜこんな所にあるのか不審に思われるでしょうが、ある意味重要な地点なのです。道標の西面には「右、兵庫」「左、有馬」とあり、(南)湯乃山道から兵庫方面への分岐点なのです。明治の地図からすると今の左のあぜ道は主要道とは思えないが、この北西190mの「丹生山参詣道」碑のある辻で湯乃山道を別れた後、ここで右に分岐せず、道なりに左へ行くと元の湯乃山道に戻ってしまうのです。
この「右、兵庫」とする道は、今のハイキングコースの紹介で多く「藍那古道」などと表現され、藍那へ繋がりその先は「鵯越道」として兵庫に達しています。
「東下の道標」から西へ100m民家北の三ツ辻を右(北)へ折れ190m地点で県道15号に出ます。四辻北西部にバス停があり、その西に石鳥居が立ちます。その右柱の東に私の定義では道標でもなく丁石でもない、大正十二(1923)年に神社が建てた参詣道の碑があります。ここが丹生山神社への起点として問題はないでしょう。
ここからは参詣道として丁石が連続するのですが、一部のみ取り上げます。
⑦二十五丁
石鳥居から道なりに、麓橋、丹生神社宝物館を過ぎ190m地点に「山田町川原の二十五丁丁石」が有ります。道の真ん中に南面した地蔵?像が参詣者を迎えます。「従丹生山」とあり道標扱いとしたが、この道筋に残る丁石すべてに「従」が付いていることを見れば、純粋な丁石扱いとすべきでしょう。この場合は距離が正確でなければなりません。次の丁石迄の距離を見てみましょう。
ここから北へ40m進み三ツ辻を左(西)へ入り車止めをすぎて山道になります。あとは道なりです。北に廻り込み更に東に向きを変える辺り。
丁石らしい二十四丁が左手(北)にあります。ここまでの距離は140m以上あり、もはや丁石の誤差を大きく超えている。ここで明治の地図を見ると、参詣道が付け替えられているようで、それによれば、上記40m地点から西折れすることなく北へ一直線に登る道がかかれています。西への迂回道が何時出来たかは分かりませんが、明治期以前の丁石であればこの北への道に建てられていた筈で、移設された結果長くならざるを得ないのでしょう。下にあげた「十一丁丁石」まで、現在の地図で水平距離を測ると、1.48㎞(13.6丁)となり下部の急こう配をを考えると14丁とすれば、25丁から11丁の間は正確と出来るでしょう。
廿四丁以降の丁石は一石五輪卒塔婆型で統一されてるいるように思いますが、上部が欠け角柱型になったものもある。
⑨十一丁は道標か
左、十一丁の上部は他の丁石と同じです。
右、下に「従是」「右、淡河町」「左、丹生山」とありこれを道標の根拠とするが辻に建っている訳では無い。又その他の石にも正面の丁数表示の外、側面に「自丹生山…丁」とするものがある。
丹生山神社の参道を部分的に見たが、下山しましょう。残りは別の機会にします。
⑩子育て地蔵の道標
県道の石鳥居迄戻ったら、西へ80m進み四辻左手前(南東部)に「山田町東下26-1の道標」が建ちます。この辻で現県道と旧県道が分れますが旧県道が明治の地図と一致します。昭和五年に建てられた最法寺への道標でここから南の西下村への道は明治の地図には存在しない。北東面の「子育地蔵尊、南三丁」が最法寺を示すとし、今の広い南への道を進むと500m程の距離となり三丁(336m)では足りないが、南東のあぜ道を行くと三丁強で辿り着く。
⑪最法寺の下から西下の道標へ
最法寺の西の下30mにある三ツ辻を西に折れて北から南西に民家を廻り込んで70mの三ツ辻を南へ折れて山に向かい簡易舗装道を道なりに520m進むと鋭角に分かれる三ツ辻の南部に有ります。写真左側の道が藍那への山道であるようです。現在の木製の案内板には「丹生山系縦走路」とありましたが、これは電鉄会社等が主催する「丹生山から帝釈山等の縦走路(東西方向)ハイキング」に繋がる道である事を示していると思います。藍那から丹生山への道は一般的に「藍那古道」と呼ばれるようで、多くは西下に出ず、この道標の東側の道を進み、前述の「山田町東下の道標」から東下を通過し、県道の丹生神社前へ出るようです。しかしこの道標がアイナを示す様にこちらが本来の古道かもしれません。なぜなら明治の地図ではこちらの方が近く見えるからです。
いずれにせよ、藍那古道がらみは未調査になっております。
⑫環境センターの道標
「淡河町投町山の辻環境センターの道標」へ
南北の湯乃山街道を結ぶ国道428号のまん中と言える地点に有ります。山田町原野で北に折れ志染川の原野橋を渡り、一本道を約4㎞進み岩谷峠の鞍部を越すと240mの右(東)に「淡河環境センター」入口が見えます。ここをよく見ると入口左に国道に添うように細い道があり、下る国道とは逆にいくぶん登っています。入口を無視すると三ツ辻になり、この分かれ目に立っています。今は植込みの中に有りますが元は路傍に置かれていたと思います。
明治の地図にも、たぶん県道(現国道)から、聯路が分れる様子が描かれ北寄りの聯路は木津に繋がり、県道は淡河方面に続いているようです。淡河と木津の分岐点であったようです。国境が北に有るので摂津の国としました。
丹生山北側の淡河方面からの道標が摂津国、播磨国の何れに属するか明確ではないがこれも今後の調査として手付かずである。山に登る覚悟が出来ておらず申し訳ありません。
これで、南湯乃山道の項を終わります。摂津国内としては衝原迄ありますが道標は残されていないようです。