中山寺で一基追加等
1.始めに
2023年、今年の暑さにカマケテ、宝塚市の道標を見ていると記載漏れが一基あるのに気づきました。その経緯と、前からあきらめていた門前南の道標にある歌の読み下しに挑戦しました。加えて小浜の一基を訂正。
「宝塚市立中山寺会館西の道標」としました。混同したのは南西20mにある「宝塚市中山寺山門西の道標」ですが、実はこの道標は阪神大震災の復旧工事によりトラックにより倒され邪魔にならないよう西側に移動し道路からもハズして置かれたようです。今回の道標を隠す様に建っていたもので、自然石の当道標にとっては本来の形になって喜ばしい限りです。
詳細は別項を見て頂くとして、再計測した値を載せて置きます。高さ48x東底辺40x奥行30㎝の三角柱状ですが上部に行くつれ細くなっており、頂部は水平に近く三角形を呈し、上部の東辺30x北西辺28x南西辺29㎝となっています。今となっては駐車場の境界石のようですが、Y字路の切っ先に当る西側に東を向いて建ちます。
東面に
「左順礼道」とくずし字で書かれており、この面だけが赤茶けた色をしてオシャレな感じを受けますが、場所柄左右に疵が沢山あり痛々しいです。
案内する「左順礼道」は現宝塚市が盛んに「順礼街道」として売り出している、中山寺から売布神社、清荒神、遠く花山院・播州清水寺を指しているものでしょう。明治の地図では「巡禮街道」と表現されていて左の道が達路以上、右の道が聯路(達路より狭い)として書かれるが、右を進むと303m、左を進むと320m(グーグルマップより)で同じ辻にでます。
行先を地名でなく「順礼」とし、行路もわずか17mではあるが長い左(南)側を案内するなど、近世の道標には余り見かけない。北(右)側の道が集落内を抜ける場合を除いては近い方を案内するのが常です。よって建立時期は明治以降ではないかと思っています。
雰囲気のよく似たものが、東に1.6㎞程離れた山本の集落内に「山本東1-5の道標」があるが、これにも紀年銘はない。
3.中山寺門前東の花山院のうた
次に、中山寺門前の二基の内の東側にあるやや小さい一基の東面にある、歌(御詠歌)の読み下しです。
変体仮名は最初から諦めていたのですが、花山院の御詠歌と違っていると疑問を持つ方がおられるようで、白黒を着けたく思い挑戦です。
その為に、もう一度写真を撮りに行きました。
横の木が邪魔になり一面全体を見ることが出来ず、さらに彫が浅い上に苔か汚れで良く分りません。現場では目の悪い事もあり読めない、手で触れば良いのだが届きません。帰って写真を見る事にします。
花山院菩提寺のHPを見ますと、御詠歌として、
有馬富士 麓の霧は
海に似て 波かと聞けば
小野の松風
とあります。(改行はこちらの勝手で入れました。)
当道標東面の読下しは
ありまふし ふもとのきりを
海と見て なミかときけは
小野のまつかせ
となりました。
やはり微妙に違っています。尚、花山院御製の歌は勅撰和歌集の『拾遺和歌集』以降を探したが見つけられませんでした。
「宝塚市中山寺山門前(東側)の道標(当道標の詳細)」にも書きましたが、
『万葉集』、山部赤人の有名な
「田子の浦ゆ、うち出でて見れば真白にぞ、富士の高嶺に雪は降りける」
が『新古今集』では、
「田子の浦に、うち出でて見れば白妙の、富士の高嶺に雪は降りつつ」
のように異なっているのと同じと割り切りましょう。
三行目の一部の確認をした結果、上記となりました。
最後に、小浜宿内の「宝塚市小浜5丁目8交番東の道標」の読み下しに誤りがありました。すぐ横の説明板も誤ってると思います。道案内部分は問題がないので捨て置いても良いのですが、訂正しておきます。
が、読めないと云うナサケナイ報告です。