西宮(青野道~平尻道)

①宝永元(1704)年小浜絵図

②明治5(1872)年生瀬村絵地図

③明治43(1910)年測図地図

青野道概略

「青野道」とは現在の生瀬東町から惣川を渡り、中国自動車道の北側辺りを花の峯、青葉台、その北で武庫川を越え、木元(このもと)から名塩、旧国道176号沿いに名塩川を登り、赤坂峠を通り、再び中国自動車道の北側に沿って船坂川を越え、神戸グランドヒルゴルフ場の南を過ぎ、平尻(へんじり)から北西に山を越え、有馬川沿いの神戸市北区道場町平田に出たと思われる道の前半を言うと思います。武庫川を生瀬橋で渡り、生瀬村中を通り名塩に出る現国道176号に添うルートを主街道とするなら、間道(裏街道)といえるかもしれません。尚、この道は「五十八ヶ山道」「名塩道」「平尻道」「丹波街道」「西宮街道」「大坂道」とも呼ばれるようです。現在の青葉台辺りは明治五年の絵図に「青」として載り「青野道」の呼び名の元となった字では無いかと思う。
歴史的なものを『宝塚市史』第二巻から抜粋すると、『元禄の頃、丹波や三田への近道となる名塩道が、金仙寺道にとって代わる。寛永九(1632)年の山論絵図に、青野道から「木元舟渡」を通って名塩への道が描かれ生瀬から武庫川右岸を木元に至る道はない。寛永十八(1641)年の武庫川洪水で青野道が欠け、それに代わる武庫川右岸に新道が作られた。木元から猿甲部岩山に突当り河原を瀬伝いに太多田川合流地点の有馬道に続く、仮称二瀬川道である。慶安三(1650)年の山論絵図には両道が描かれている。承応元(1652)年の大水で二瀬川道が切れ、猿甲部岩山を切り開いた猿甲部道を付けたが難路であった。天和三(1683)年の山論図には、青野道と猿甲部道二本が描かれている。生瀬村は宝永二(1705)年に右岸沿いに平坦な新猿甲部道【写真①1704年図に既に載る】を開通させた。正徳元(1711)年の駅法改正により生瀬が宿駅に指定されると、享保年中(~1735年)を過ぎると駅繁栄の為生瀬村は故意に青野道を荒廃させた。寛政十三(1801)年に名塩の教行寺に蓮如上人画像を迎える為、名塩村が青野道を勝手に普請し通行しやすくすると、宝塚市の小浜等の利益などもからみ再び通行が増えた。』のように書かれている。
その後の青野道の記述がないが、文化八年伊能忠敬の巡礼道測量時には、三田、道場河原、湯山(有馬)、舟坂、太多田川沿いに生瀬、小浜…となっており、青野道辺りは通っておらず参考に成らなかった。
明治5(1872)年作成の生瀬村絵図【写真②】には「五十八ヶ山道」として描かれているが、明治も後半の43(1910)年測図の地図【写真③】には、木元から武庫川を渡り花の峯の頂上辺りまでの間道が確認できるものの、頂上から今の県道33号につながる東側部分が読み取れない。一方、元禄国絵図、天保国絵図のどちらも生瀬村の主張とは逆に青野道を主としていたように見え、近世においては猿甲部岩山部に「二瀬川道」があった時を除いて、青野道が使われたものとしてよいでしょう。現在の国道が「二瀬川道」に近い為なんとなく納得がしにくく思われます。
そこで、その道を明治43年測図の地図を参考にして、現在の道を追っかけてみた。開始地点を宝塚市境の生瀬橋東40mの県道33号の三ツ辻とし、終了地点を神戸市北区道場町平田420の振分三ツ辻としました。
結果的には四か所で道が途切れてたどることが出来なかった。

注)、五十八ヶ村とは単独の村名でなく長尾山の奥山にあたる立会山の権利を持つ村(山子)数58から来ていると思われ、長尾山系を示すものでしょう。58村になったのは延宝六年十月九日(1678年11月21日火曜)以降。『宝塚市史』第二巻より。

④青野道起点を北西に見る、右県道33へ、左は生瀬橋へ

⑤惣川の旧橋跡部分か両岸がセリ出している

生瀬橋東詰め40mの辻から

宝塚市境の生瀬橋東40mの県道33号の三ツ辻から始めます。ここは東の大阪方面から有馬道、巡礼道、丹波街道などと呼ばれる道が生瀬橋に向かう三ツ辻にあたります。青野道への分岐点としました。【写真④】
明治の地図では惣川の現行の橋よりやや北に橋が架かるように見えたので旧橋の痕跡を探しましたが見つけられなかった【写真⑤】
。しかし右岸(西側)には旧道跡らしき道が川から民家横を通り県道につながっているように見えました。【写真
この後は現在の県道33号に吸収され180m北西に坂を上ります。旧道はここでやや西寄りの道を採っており、現県道を離れるように見えるが神戸市水道局のフェンスにより進入できません。【写真

⑥惣川右岸からの道が県道33へ東から合流

⑦左分岐の旧道は水道局門扉で進入不可

⑧高速北側道の進入口左へ入ると下の写真へ

神戸市水道局を迂回

しかたなく県道を170m登り中国縦貫上り線を潜ってすぐの三ツ辻【写真⑧】から西へ分岐し100m進んだ辺りが旧道の復帰点とみえるが、自動車道の側道で北側は削り取られ、崖を登り尾根筋に出る道は【写真⑨】見つからない。地図の花の峯北側を通過する道にはここからは行けないと思います。

⑨見つからない旧道を東に見る

⑩発電施設への登り口

⑪発電施設の東行止りから西を見る、再開地点とした

⑫発電施設西端

この辺りの新旧の道の対比をみる良いサイトが有ります。「今昔マップ on the web」を是非参照下さい。

花の峯から青葉台へ

あきらめて側道を西に進むと、33号の分岐点から450m地点で南から来た花の峯住宅地へ登る取付道路に出て右(北)折れし、道なりに東から大きく西に廻り込んで広い道を600m進むと宅地北側にある太陽光発電施設の入り口【写真⑩】を北に入ります。20m程でチェーンが張られてるが、公道と思えるので横を通過し東端まで進むと【写真⑨】から北西150mほど上辺りになると思いますが、行止りになっています。
下部には繋がらなかったので、ここ【写真⑪】を再開地点として西に戻り330mで発電施設の西端【写真⑫】になり、山道になりますが車の轍が有ります。この西端から220mで三ツ辻になり左(西)は送電鉄塔へ、右(北東)は多分宝塚の火葬場方面であろう。鉄塔まで60mを進み、塔の下【写真⑬】を過ぎ110m下るとデジタルTV中継塔に出て、更に110m下ると排水施設の下の民家脇の青葉台住宅地内舗装道【写真⑭】に出る。
明治の地図にある北よりの道は、ここから250mは途切れますが、青葉台2丁目15【写真⑮】からは復活し武庫川水道管橋【写真⑯】まで110mとなります。この橋よりは少し北に渡しが有ったと思われます。
明治の地図で道が描かれていなかった部分を太陽光発電施設の中の道で代用し追跡したが、写真⑨から写真⑪の間が不明、写真⑭、⑮の間も未確認ではあるが、それらしい道は確認できた。
ただし宝永元年の絵地図【写真①】の近世の道は花の峯ピークを通らず、山の南側の現住宅地内を通過し、中国自動車道の隧道辺りから北に曲がり渡しに下っていた様にも見える。

⑬鉄塔下を右(西)へ

⑭青葉台2-11-6民家横へ出る

⑮復活地点か、青葉台2-15-1の南にある階段

⑯水道橋、人も渡れる渡しは少し北に有ったか

2022/10/28 追記

『源右衛門蔵21号』宝塚の古文書を読む会編、「猿甲部周辺と青野界隈彷徨」に明治19年測量地図に旧道が載るらしい、それによると中国自動車道により道が無くなっているとの事であるが、地図上の経路は写真⑨辺りで標高100mの等高線に登りほぼ100mに沿って西進しているように見える。高速道路より上部と思われる。北への回折地点はやはり100mの高さに見え、現青葉台2丁目南部と思われる。地図入手後に再調査の予定にします。
 10月30日神戸中央図書館の地図で確認したところ、100m等高線を目印に、上書の言うようにほぼ中国道で消えているようです。青葉台2丁目から北へ下る道は一部現在の道として残る様に見えます。地図に小径(破線)で描かれている道(右図の桃色)を「青野道」としました。依って上で書いた文「花の峯から青葉台へ」は北に寄り過ぎており、お散歩記事としてください。

61.明治19年測図の青野道、
近世の道の手掛かりと出来るでしょう。明治42年測図では道が消えている。武庫川を渡る現生瀬橋に注ぎ込む惣川が蛇行し現在一本の橋が二本であったのを初めて知った。
惣川の橋を入れると三本連続して見える。近世に橋が架かっていたともあるが?享和3(1803)年9月たからづかデジタルミュージアムの「十河川、覆盆子川、荒神川土砂留絵図」には船渡しとなっている。

⑰木元側再開点を南に見る、奥の橋対岸は【写真⑯】になる

⑱廃線跡の案内板、失われた二つの瀬ではなく淵の名が4,5に載る

⑲奥福知山線廃線跡から旧国道176へ

木元渡しから

住宅地から南の武庫川の森興橋へ下り現国道176号に出て太多田川を渡り木之元地藏まで(森興橋南詰から1.6㎞)進み、福知山線の廃線ハイキング道へ進入します。車止めまで進み、右(東)に下り武庫川右岸(西岸)に突当ります。40m南には人が渡れる水道橋が架かる地点です。此処を青野道追跡の第二開始地点とします。渡し跡や対岸の青葉台に登る旧道の跡はおろか、平成 16 年に落橋した橋跡も見えないようです。
渡し舟を降りた事にしてここ【写真⑰】から西に進みます。60mで廃線
【写真を越え階段を登り140m地点で旧国道の合流地点三ツ辻【写真になりここからは一応舗装道路です。三ツ辻から道なりに1.1㎞進み西宮名塩駅のロータリーにつながる細い道【写真を直進しロータリー北側を抜け広い道を西に横断し南に折れると塩瀬公民館前となります。この間180m程です。公民館前から西に回り北西に250mで現国道176号の「名塩八幡」交差点【写真に合流し、これを右折(東)し旧の176号を名塩の集落中へ進みます。交差点から200m道なりに「名塩東交差点」【写真に着きます。明治の地図で達路以上で描かれる道は直進ではなく多分「蘭学通り」と呼ばれる道であろうとし、こちらを進みますが、江戸期の国絵図では道が川を横切っていないので、蘭学通りより一本南側の道が近世の道筋かも知れない。最も北側の道は昭和42年の地図に現れる新しい道であろう。

⑳名塩ロータリへの入り口
直進し公民館前へ

㉑現国道176名塩八幡交差点を右旧国道へ

㉒名塩東交差点を中央の蘭学通りへ
近世は左の道かも

蘭学通りの由来を書いた説明板

名塩蘭学通りは旧道か

説明板の文の終わりに「名塩東口~名塩バス停に至る旧道が蘭学通りと名付けられた。」と「旧道」の表現があるがどの時代かは明記されていない。
【写真㉒】の正面電柱の後ろに立っています。文字が薄かったので写真に修整を加えました。

㉔蘭学通りの鴨谷橋を西に見る

この辺りの「今昔マップ on the web」。

蘭学通りを西に進むと、名塩東交差点から280mで名塩川鴨谷(かもたに)橋【写真㉔】 を一度横切り440mで旧国道176号に合流し、460mで「名塩」交差点【写真㉕】になり上記案内板の通りです。名塩川を横切る点が、元禄、天保の国絵図と反するため近世の旧道ではない可能性が高いと思われます。
旧国道176に合流した後、20m西の三ツ辻交差点の北西部に「名塩1丁目33の道標」が立っています。

㉕名塩交差点南から南を見る
蘭学通り合流地点は橋向こう左奥60m、その手前左側に道標。
右電柱の左に出る道が近世の川を越さない道だと思う。

名塩1丁目33の道標

名塩1丁目33の道標

この道標が案内する「蓮如上人御舊蹟」とは教行寺の事と思われ、前述の青野道が復興するきっかけとなったお寺と思われます。蓮如上人が嶋上郡富田に建てた富田教行寺を案内する「高槻市富田町4の2の道標」もあるので比べてみて下さい。

高槻市富田町4-2の道標

㉗左は、旧国道176で現176号へ接続
右、明治の西宮街道

㉘三ツ辻を北に見る
奥の道を下って来て左へ進んだ、近世の道か

近世の道らしき名塩小学校南部を通過した道が右から左の旧国道に合流する辻を東に見る。右枠外に現176号
西150mで旧道に分岐

この辺りの「今昔マップ on the web」。

名塩の近世の道はどこ

明治の地図では名塩交差点古くはしおづ橋からの近世の道が右から合流していた地点と思う。東久保(とうくぼ)に続いていますが、近世の道とは思えないので谷の南側の山裾沿いの道にすすむ事にしました。
名塩1丁目33の道標から西へ20mの三ツ辻(K字型四辻か)【写真㉕】を南へ60m下り、三ツ辻
【写真を右(南西)に折れ100m地点の三ツ辻を右(西)に分岐し坂を上る。この辻から190m道なりに進むと名塩小学校の南東になりグランドが見下せ、これを右手にさらに進み学校南西端(270m地点)の三ツ辻をやや左(西)にとり540m地点【写真で旧国道176号に合流します。辻の東に立つ電柱は「名塩二丁目22」とありますが、明治の地図では丑子(丑ノ子か)と書かれています。辻を左(西)に旧国道へ進み150m地点で右(北)寄りに分岐し川沿いにへと下り国道のループ橋の下を越えた250m地点で三ツ辻となりここで不安になります。左の現176の側道へは進まず、右へ10mの「しおづはし」【写真を渡り安楽寺の石垣に沿って進み40m地点三ツ辻となります
近世の道はこの安楽寺南西角の三ツ辻を直進(西行)すると思われるが、現在では170m程先で行止りになっているので、明治の地図で間路として描かれている東の道に折れ
寺の北側を進みます。
「しおづ橋」手前辻から110m地点
【写真で旧国道に合流し左(西)折、500m地点で上記であきらめた近世街道との合流地点であったと思う今では三ツ辻【写真㉜】に出会います。この辻を道なりに明治の地図で達路以上として書かれた「西宮街道」を220m進むと現国道176号に合流します。

㉚しおづ橋を北に見る
渡って石垣沿いに東に折れる

㉛近世の道が行止りでしかたなく、しおづ橋から100mの旧国道へ戻る。右手前へ出る

㉜西宮街道を東に見る
古くはしおづ橋からの近世の道が右から合流していた地点と思う。
左手前は名塩茶園町、国見山西を経て道場へ

㉝国道から西を見る
奥、東久保集落中へ

㉞国道合流手前80m
右は谷の田に下るが、北には続かず、中国自動車道にも出ない。
赤坂峠交差点まで右側には旧道痕跡なし。

この辺りの「今昔マップ on the web」。

東久保から赤坂峠へ

東久保(とうくぼ)のヘアピンカーブまではほぼ旧街道と思われますが、この大きなカーブを直進する形で旧道【写真が西に延びます。カーブの分岐点から840mで現国道176に合流しますが、明治の地図ではこの辺りから谷の北側に道筋を変えて赤坂村に向かうように描かれている。北へ曲がり谷を越える道筋【写真は中国自動車道にはばまれ確認できなかった。
近世の道を考えた場合は写真㉞の200m手前の東久保会館北30m地点から南西に分岐し60mで現国道176号を南側へ横断して国道のやや南側をほぼ並行して赤坂峠西【写真へ抜ける道が相応しいかも知れないが未調査です。不確定部分とします。
取り敢えずは明治の達路に従って西宮街道復帰地点と思われる、赤坂へ向う事にします。国道に合流後130mで「赤坂峠交差点」
【写真㉟】になりこれを北に陸橋を渡り北詰を東に110m戻ります。復帰地点【写真㊱】は旧道の面影は一切ありません。

㉟R176赤坂峠交差点
信号を右に陸橋を渡り旧道復帰点を目指す

㊱西宮街道復帰点を西に見る。
奥、高速側道を陸橋へ
右、旧道を平尻へ

近世の道は東久保村を通過していない

元禄、天保の国絵図より、近世の道は当時の東久保村を通らなかったとすることも可能である。即ち川筋より北側を通っており、東久保村が南に離れて描かれているうえに、「名塩村内大澤村」を通過した後、一里塚まで描かれているからである。
この「大澤村」の手掛かりがつかめていませんが、現在の東久保6,7辺りを示すとし、「東久保村」が東久保9、10辺りまでと、別れていたとすれば今の東久保は通過していたとになります。
《2022/11/8 追記、大沢村の手掛かりとして西宮市の『農業用ため池のマップ』に「大沢新池(原池)、西宮市塩瀬町名塩(字谷口)5333」「小池(辻池)、西宮市塩瀬町名塩(字下大沢)70」なる記述を見つけた。場所は現在の名塩赤坂の西側にある。これからすると名塩赤坂=大澤村と考えて良いかも知れない。》
これに従うと東久保6と7の境となっている道、即ち、東久保会館の東90mから北に分岐道が近世の道と思われ、川筋との位置関係も満足し、中国自動車道を越える陸橋も設けられていて、赤坂旧道復帰点への接続も自然に見える。上記の南寄りの道よりこちらの方が可能性は高いかもしれない。

62.天保国絵図
右下生瀬から左上平田への三田道、東久保を通過しない。平田の北に出る事は疑問である。

2022/10 追記

東久保会館の東90mから北に分岐する道を調査した結果、この道は名塩から国見山の西を通り道場村に出る間路への取りつき道であったようで、旧道の候補からは外したい。(上記活字の小さい部分)

202211/7追記 東久保集落内を抜ける道を見てきました。
 ヘアピンカーブ入口から東久保会館前を通る道は市道「塩22」らしく、会館西から分岐する道(
写真1-1.)は「塩34」と成っているようです。現国道176号を横切る部分は変更を受けているようですが、その他は拡幅舗装はされているものの、旧道の雰囲気が色濃く残る道です。
 集落内を抜け赤坂峠?の最高地点296m(現R176最高点280m)を通り、頂上より250m地点で現国道に接する
(写真1-2.)が、国道をアンダーパスで抜けると350m地点で旧国道に突当る。「今昔マップ on the web」の昭和42年改測の地図までは中国縦貫道も無く、近世の姿を残している様に見える。
 この道が近世にあった事は疑う余地はないと思うが、主要道(丹波道)であったかどうかである。私見であるが村中道に対して今で言うバイパスが存在した場合、主要街道は村を避ける側となり、この規則を当てはめるとこの「塩34」は村中の生活道路で「丹波道」では無いでしょう。
 ここで、新しく手に入れた、「明治20年測図」地図(
写真1-3.)を見ると、「塩22」が現R176に出るあたり(写真)から北に大きく曲がりながら「塩155」の名塩赤坂9-15辺りに繋がっているのが見える。現在では中国道で道が無くなっているが、前述の昭和42年改測地図にも描かれているように国道として存在していた事が分かる。この道の最高点が288mと思われるので「塩34」より少し低く、距離も長い為勾配は緩かったと思える。但し明治20年測図地図では、現、名塩赤坂9-15辺りは崖状に書かれており、車馬が通れる道に付け直された感じにも見え、近世ならば、谷筋を池の畔まで直進していたかも知れない。
 以上の観点から明治の地図に書かれる「西宮街道」が近世の道に近いとしたい。

写真1-1.塩22(右)から、塩34(左)の分岐点

写真1-2.塩34と国道の合流点を西に見る。直進すると地下道へ。

写真1-3.明治20年測図地図、右端が東久保。

㊲赤坂西の旧道分岐、右へ

㊳隧道西出口から旧道右(北西)へ

船坂川から平尻道へ

西宮街道復帰点から中国自動車道の側道ではなく【写真】を右、西に道なりに曲がりながら下ると400m地点【写真㊲】で右(北)に分岐する旧道があり、これを250m進むと再び自動車道北側の側道に合流します。現在ではゴルフ場への入口の様に見えますが、前述の近世の想定道もここに繋がっていたと思われます。ここから240m下るとトンネルとなり、これを通過し出口すぐ【写真㊳】(生コン会社入口のような道)を右(北西)に船坂川に向かい下ります。210mで私有地の柵に突当り、明治の地図では直進となっていますが、現在は左(南西)に曲がり鍋倉橋【写真㊴】を渡り道なりに北西に登り返します。中国自動車道をくぐり、北側側道となりこの道のピーク南にかかる無名の陸橋(高丸橋か)は鍋倉橋から550m地点になります。陸橋から140mに右(北)へ分岐する道【写真㊵】があり、これを竹藪めがけて進む道が旧街道と思われます。
明治の地図では「平尾」とあるがこの辺りでは「平尻(へんじり)道」と呼ぶそうである。

㊴鍋倉橋から東を見る
明治期は200m下流(左)に架かっていたよう

㊵無名陸橋の西140m地点、右竹藪へ旧道

分岐【写真】から80m北西、倉庫のような建物に突当り左(西)に曲がった地点の左(南西部)に、三基の石碑【写真】が立つ。他に二基が倒れ、一基の地蔵であったらしい石が竹藪中に残されている。残念ながら道標はありません。古くはここに茶店があったらしい。

平尻の茶店跡あたり

㊶西に向きを変え終わる辺り
東方はゴルフ場だが見えない

㊷二基の石碑は道に面する
左、「蝸牛庵左□太夫」
右、「宇滴宗圓□」とある

㊸もう一基は右横にある
「竹本多賀太夫」
「未十二月十二日」とある

㊹筋違四辻を北に見る
右から来て手前を左へ

㊺四辻から進む先北西を見る
網沿いに北西に進む
中央山裾に防獣扉

名来の地蔵道標へ行けなかった

この屈曲点から西に下ること180mで野中の筋違い四辻【写真】(耕運機転換場ふう)に突当り左(南)に5m行き、右(西)に折れ畑の柵沿い【写真】のあぜ道から左(西)の山際に移り、北西へ70m進むといよいよ西への山道となるが、ここ猪、鹿除けの防獣扉で仕切られている。少しは登ってみたが、ここから先は未踏2です。
備忘の為【写真
】扉西の「丹波街道」の木杭、N34.839395 E135.248489

㊻防獣扉の西に木杭の「丹波街道」があり登り道に変わる

2022/11/7 未調査区間を無くすべく、上記防獣柵から、地蔵道標迄を歩いて来ました。上の水色部、又は右のボタンから参照下さい。

㊼名来神社北西の三ツ辻、突当りを右に登る
左は有馬川

㊽山口町名来の道標
名来神社北西辻から530m

名来神社地蔵道標側から廻り込むも

反対側から攻めることにし、上記筋違い四辻に戻り、南に向かう。ここからは旧道(この辺りの人は平尻、丹波、大坂道等と呼ぶ)ではなく迂廻路ですが行程を記しおきます。距離はすべて延べで、筋違い四辻から始めます。先ず南へ50m、西へ中国自動車道側道に折れて430m、南折れして自動車道をくぐり道なりに西へ920mの突当りを南に折れ有馬川の天上橋東詰めで1.15㎞地点になります。橋を西に渡らず有馬川右岸(東岸)を北に進み1.88㎞で名来神社北東部の三ツ辻【写真に達し、突当りを右(東)に折れ山道を登ります。2.13㎞で私有地の柵に突当りますが、右(南)に折れた後、再び東に曲がり2.41㎞地点で三ツ辻(私道進入口含めると四辻、更に関電鉄塔保守道を入れると五つ辻)に到着します。
この辻の南西部に「山口町名来の地蔵道標」
【写真㊽】があり、地蔵の向かい(東)側に山口徳有会の「丹波街道」木杭【写真㊾】が立ち南に向かう道を示しているようです。

地蔵道標の「左ハ在所道」とする道が名来神社から登って来た道と思われます。「右ハ清水道」が丹波道(神戸市北区道場町平田)を示すのでしょう。

㊾地蔵道標(左外)の東に立つ木杭を北に見る

㊿地藏道標の拡大
「右ハ清水道」
左ハ在所道」

51.地蔵道標の東辻から南を見る
右奥が旧道であろう
右枠外にに地蔵がある

「山口町名来の道標」の辻を右(南右奥が旧道であろう塔の東の空地【写真52】にでます。
ここから南東へ400m下れば猪除け扉に出るはずですが、藪がひどく進入することが出来ませんでした。よってこの400m区間は未踏3です。冬季に再挑戦が必要かとおもう。今回で二回目の敗退です。 備忘の為、鉄塔東の位置N34.840372 E135.244736

52.鉄塔東の空地右奥が旧道であろう

地蔵道標から北に下る道が不明

送電鉄塔から地蔵迄90m引き返します。このルートが当初目指した丹波を目指す方向でしょう。地蔵道標の辻を右(北東)に折れ40m進むと三ツ辻となり、東には進めそうだが、北か、西に下ると想定していた道が分らず、三ツ辻の藪に付けられた道案内も不審なため、神戸市北区平田への道もここ【写真53で断念して、麓から上ることにした。

53.地蔵道標から40mの三ツ辻にある案内板

2022/11/7 未調査区間を無くすべく、上記地蔵道標から、下の写真55.の三ツ辻迄を歩いて来ました。上の水色部、又は右のボタンから参照下さい。

54.墓地南西角四辻を東に見る、背後に有馬川の無名橋と国道176

55.私の思う丹波道は右
左は西墓地から来る道

徳風会が示す丹波街道から地蔵道標をめざすも

地蔵道標の辻から名来神社北西の三ツ辻まで戻り、川の右岸(東岸)を260m北に進むと四辻があり、北東部には墓地【写真54】が広がる。この辻を右(東)折れし道なりに南の山裾を北から南東に巻いて進んだ460m地点で、北の北区道場町平田の振分地蔵から来る丹波街道と合流する三ツ辻【写真55】となる。

ただ今進んで来た道の墓地の角に山口徳有会の「丹波街道」の木杭が立っており、北からの合流道を丹波街道とはしていないようです。明治の地図では墓地から来る西からの道は描かれておらず、北からの道が近世の街道であったと思う。
その合流辻から南東
【写真56に「地蔵道標」の辻を目指します。70m三ツ辻を右(南)へとり、140m地点で道が途切れ【写真57ます。
偶然そこに居られた地元の方にお聞きすると、この先は最近保守されておらず地元の人は通らないとの事で断念した。地図上では500m程で「地蔵道標」に着くとおもわれます。
又この区間も未踏4となります。

56.左記合流点の南にあ丹波街道」木杭

57.猪のヌタ場になり断念した地点

2022/11/7 未調査区間を無くすべく、上記写真53.から、写真56.の間を歩きました。上の水色部、又は右のボタンから参照下さい。

58.平田の筋違い四辻奥、100mの振分辻へ左(南)、大坂道へ

神戸市北区道場町平田の有馬、大坂振分辻へ

上記丹波街道合流点としたツ辻【写真55から、北に300m、ほぼあぜ道を道なりに進むと三ツ辻となり、道なりに北に進む道がここから舗装路となっている。左有馬川よりに進むと落合橋の北詰に出て現在の国道にはこちらが便利ではあるが明治の地図では明確な道が書かれていない。舗装路側の道を北に500m進むと平田集落南部の筋違い四辻【写真58に突当り、左(西)に折れて100m進むと北から南へ進む有馬街道に東から突当る。
多分この辻が振分辻と呼ばれていた地点でここに地蔵が建てられていて、その地藏に道案内があったとされている。その道標が現在正福寺境内に移設された「神戸市北区道場町平田の道標」【写真59】と思われ、道標が示す、有馬道と大坂道の内、大坂道が今まで追ってきた道を示すものと想像している。
尚、写真58.の辻の360m東にある平田稲荷神社境内にも「神戸市北区道場町平田稲荷神社の道標」【写真60】があり、有馬、大坂等を案内しており道筋決定のヒントにもなりそうで、これも参照して下さい。
ここで、青野道、名塩街道、平尻道、丹波街道の終了地点とします。

63.明治20年測図の地図、平尻道(東久保~平田)。図中桃色線が近世の道と思われる。丹波道等とも呼ばれる。

59.道場町平田の正福寺境内道標
台石左面に
「右ありま」
「左京大坂」

60.平田稲荷神社の道標
「右阿
台石左面に「右ありま」「大坂ふ年能り者まて四里」は悩ましい

おわり

2022年2月より「たからづかデジタルアーカイブ」が公開され、青野道がより分かりやすい絵図が掲載されています。読み下し文も同時に確認出来る優れもので是非ご覧ください。リンクの可否が明記されていないのですが宝塚市の公的なものと思うのでここにあげておきます。場合により削除するかもしれません。

2021/10/23 作成 2022/2/11修正

メモ 2022/10/24 追記

『平尻道(へんじりみち)の地図帳』~そのルートの確認を中心として~、平成24年発行、橋本芳次(名来郷土史研究会顧問)なる本(非売品)が西宮図書館にあり、西宮市域の道筋について詳しく解説されている。
 これを参考に再度挑戦の
予定。2022/11/7踏査しました。