神戸市北区南部
北区南部の範囲。
下調べで、道標の集中するゾーン毎にまわったので街道沿いに順番に記述出来ていません。
有馬道を有馬口から蓑谷へ
県道からの分岐の前に一点確認するのを忘れていました。北区東部に書いた「唐櫃335の道標」や「唐櫃361の道標」で少し述べた「三田のわかれ」を押さえておきましょう。南西から来た有馬道が三田に分かれる地点を表した呼び名で一般的には追分とされる辻であるとして、明治の地図を見ると、まさに六甲北有料道路唐櫃ICの下に辻があったようです。有馬へは唐櫃台を経て水無バス停に出る道です。
左から流れ込む川の向こう側辺りから右橋脚の向こう(橋の東詰め)に道が続いていたようで、それが有馬温泉への旧道と思う。三田へは現県道を進む。尚川筋も直線的に付け替えられている。六甲北有料道路は昭和44年地図に見え始める。
有野町唐櫃2436の道標は元、左の写真の後方の小川のその後ろの道に、山王神社に移設された大きな石灯籠と共に置かれていたとお聞きした。邪魔になるので今の位置に移したらしい。
明治の地図の有馬道を南西に進みましょう。前に書いた参道碑の辺りが古々山峠の頂上あたりで、ここから山田町に入り南西に下り道となります。昭和60(1985)年修正地図までは見える「大池」は今は無くショッピングモールになっているが、この池を起点にしていたと思う山田川(源流は地獄谷や石楠花谷らしい)の右岸(北)を進みます。
一つ気がかりなのは「天保国絵図」で郡境(東は菟原郡、西は八部郡)の峠辺りで道が大きくうねっている点で明治の地図のほぼ直線状とは少し違うのではないかと感じるところです。
左の写真は出合橋から300m程南西の新幸陽橋から北東を見たもの。この辺りに有ったとされる「花山ドライブインの陰にある上谷上の道標」は見つけることが出来ませんでした。
出合橋交差点から県道を200m進むと新道は直線に、旧県道は右に分岐する三ツ辻となり、明治の有馬道は右(北より)に進みます。分岐三ツ辻から850m右岸を進むと、左(東)に径3㎝ほどの鉄パイプを手摺とする小さな橋が架かっています。『神戸の道標』では「上ノ原橋東詰」とあり、この橋を左岸(東岸)に渡ります。最初に訪ねた時は突当りかと思いましたが、草をかき分けるとT字路の様で、橋の北東部に丸い石が見える気がしました。
何時ものように草刈りをすると「山田町上谷上61の道標」が出てきました。
明治の地図では右岸に有馬道が通っていますが、「天保国絵図」では左岸(南東岸)を通り北東の有馬・三田へ向っており、この辺りで南東へ分岐し炭ヶ谷へ入る道が描かれている。炭ヶ谷の後は、杣谷越えし森村への道、と生田川沿いに布引の滝に向かう道が分かれている。摩耶山へは生田川沿いの道で三枚岩辺りから尾根筋道を進むのではないかと思う。
現在「すぐ、ありま」に当る道は新県道に出てしまい旧道は無く、「右、まや」の道は背後へと進む道に相当すると思われる。多分辻の形状は大きく変わってしまったのだと思う。
浄光寺門前からはほぼ一本道ですが、一応説明します。門前三ツ辻を左(西)に折れ、ほぼ路地と思われる道を40m進むと谷筋に下りる三ツ辻となるが、これを北に上る道に進みます。200m地点で墓地入口となるがこれを右(東)に廻り込み地道となるが360m地点の左(西)側に苔むした石が転がっています。これが「山田町上谷上浄光寺北の道標」です。気を付けていても見落とすかもしれないが、この先30m程で道が無くなるので引き返しながら探してください。目印としては、東側に段々畑があり下から三段目の北西部で道がやや広くなっており、道標のすぐ西は沢状です。
この道標は北を案内するものでは無く、ほぼ180度回転して置かれていたと思われ、「右、兵庫」「左、摩耶」と南方への道を案内するものである。詳細は下記ボタンから参照下さい。
浄光寺北道標から有馬道に戻る
道標を後にして、来た道を引き返します。浄光寺南40mの地蔵のある三ツ辻迄来たら、登って来た細道でなく南西への広い道を進みましょう。60m進むと三ツ辻があり左(南)の細い道に折れて、道なりに150m下ると県道15号に突当ります。県道に戻ってから西に70m信号のある三ツ辻を南に渡り、そのまま南へ40m進むと山田川(志染(しじみ)川)にかかる極楽橋北詰の右手(西)に「谷上東町の道標」が有ります。
「神戸の道標」の写真では橋から離れ両面が読み取れる状況に見えるが、現在では周囲の手摺が邪魔になり背面の「すぐ、ありま、三田道」が読み難い。現在の人に混乱させない為わざとそうしたのかもしれないが、残念である。特にこの石が何処に建てられていたかを想像する手掛かりが無くなってしまうと思うのですが。
極楽橋北詰から40m北に戻り県道15号に出て、そこから西へ720m志染川にそそぐ丸山川に架る「向井橋」の手前を左折(南折れ)川沿いに320m進むと丸山川の丸山橋に着きます。途中90mで神電を、230mで阪高を潜ります。丸山橋の北側にはちょっとした休憩所があり、ここからハイキング風の道になります。現在の道案内(森林植物園3.3㎞)があるのでこれに従えばよいでしょう。一言で言えば「丸山橋から南へ山道を登り丸山堰堤を過ぎ670m地点の三ツ辻南東部」となります。堰堤の上に出るまでは少し登りがキツイ事と、堰堤上の砂溜まりを過ぎたあとの沢渡渉地点の下りと登りの足場が良くない事を除けば特に問題は無いでしょう。
二基目とした「山田町下谷上丸山谷の道標」です。紀年が「昭和三(1928)年十一月」とありその頃でも主要な道で有ったことが分ります。今でもハイカーは沢山通り過ぎますが、この道標を読む人はほとんどいないようです。又、この道標が案内する「右、上谷上」を現在の道案内は「行止り」としており、もう一基の道標へは行けないのかも知れないと思ったが、運よく通りがかりのハイカーさんにお聞きした所「むかしは行けたよ、今も大丈夫と思うが」に勇気づけられ行くことにしました。
尚、昭和三(1928)年御大典は昭和天皇の即位式の事と思います。
30m程進むと東から流れ込む沢(多分本流)との合流点となり、北東へ進めそうな道は少し高い岩の上に有るようだが、沢中の飛び石もとぼしく渡るのに手間取ったが、越えてしまうと穏やかな登り道で右手(南)の沢からは徐々に遠ざかっていくようです。ただ藪がひどいのは覚悟してください。沢を渡ってから300m程ほぼ直線状であった道が左(北か)に大きく折れ曲がります。曲がって30m先の左手(西側)に「山田町谷上南町南方の道標」が建ちます。よく見れば三ツ辻で右(南東)にほぼ水平に続く道があった。
この道標には「右、再度山神戸」「左、山道」とあり、右は前述の道標への案内であることは明白で紀年も施主も同じであればペアーで建てた事に疑いはないが、こちらの道標は彫が浅く読み難い。書き手が異なるのでしょう。
又、現在の位置と向きでは具合が悪く、移動されているに違いない。
この道標から北に尾根を越せば多分2~300mで、進入をあきらめた高速の側道に出ると思われるが、地理院地図に書かれていないので引き返す事にした。(平成8年地図には載る。)
取り敢えず、丸山川に架る「向井橋」の県道迄戻ってください。
明治の地図では旧有馬道は志染川の対岸(右岸、北岸)を通っていますがこれを通らず、現県道15号を西に進みます。1.2㎞の皆森(かいもり)交差点北東角の歩道上に「山田町下谷上の道標」が有ります。
この道標も「昭和三年」の銘があり上記の二基の道標と同じ時期である。移設されたもののようだが「郷社八幡宮、十八丁」が何処を示すのか不明な点もある。
南面に「右、有馬・三田」「左、三木・淡河(おうご)」とあり追分道にあったと思われる。現在地でもこの面だけは正しい案内となるが。
有馬口から蓑谷までの有馬道を一つのゾーンとしてまとめました。
これを全て徒歩で回ると一日では無理であろうとおもいますが、ひとくくりとしました。