茨木

茨木市の主要街道は東西の西国街道に南北の亀岡街道が交わると言えるでしょう。が生活道路となると明治の頃の名前でしょうが、茨木街道(以下街道略)、高槻、道祖本、富田、枝切などがあり、近世の名前では鳥居嶺(清坂越)、津戸中道なども見え、道標も各地に残っています。
取り敢えずは、西国街道からです。市域東端を東太田町、西端を豊川4丁目として西へ下ることにします。5.5㎞の道のりとおもわれます。

茨木東端を西に見る
右手前の柵は高槻市

継体天皇陵
交差点西110m北側

太田3

藍野大学北東部にあたる小さな流れを横切る地点から出発したいと思います。西へ270m「東太田4丁目交差点」を過ぎて、継体天皇陵前を通り過ぎ、下り坂となる670m地点の三ツ辻右手奥(北西部)に「太田3の道標」が立ちます。手前に「太田神社への新しい道標」が立って、見にくくなっています。近年まで南側は工場跡地で大きな更地でしたが今は大きな建物が建っています。この道標は北面に「左、京/ふしみ」、西面に「右、とん田/ミしま江」とあるように現状では意味をなさない案内となっており、どこかからの移設と考えそうであるが、私は近接移設としています。このあたりは詳細を参照して下さい。
近くの解説板は当地を「雲見坂」としている。又、高槻市の富田1-31にある道標の解説にある「山家道」との合流点でもあったと思えます。

太田3丁目の道標(手前)を東に見る。右側歩道は切れ目がなく北側に渡れない。

十日町1の道標を東に見る
奥、安威川太田橋へ

十日市町1

「太田3丁目道標」から70mで「太田東芝町交差点」、400mで右(北)側に太田不動尊?(寄り道2)があり、500mで安威川の太田橋(南側の人用)を渡ります。橋西詰から70mで車道との交差点に出て、これを北西に渡り(上の名神高速くぐり)ます。北側の四辻を側道でなく西に進みます。90m先の四辻左手前(南東部)に「十日町1の道標」が立ちます。左を見れば名神の高架がすぐにあり、曜日によってはゴミに埋もれているかも知れません。
この道標は明治四十二年三月に立てられたようで、この頃の枝切街道との交差点であったことが分ります。明治の作にしては太さが結構あり貧弱な感じはしないが、行先の案内は明治期以降の漢字羅列型で指差し像もあり、風情が感じられません。これが逆に特徴かと思います。現在の府道46号(茨木亀岡線)はこの西90mを通っています。

十日市町8の道標を北に見る。カーブミラー右側、奥は安威へ

道標を北東に見る

寄り道、十日市町8

「十日町1の道標」から北(枝切街道)へ寄り道します。道標がある筋違え四辻を北に160m、大きな三ツ辻(よく見ると四辻)右奥(北東部)にちょっとした植込みがありそこに「十日市町8の道標」が立つ。現南面に「左/さうちしみちすく」とあり、近世の道標として案内を読み取ると理解しにくい道標である。「さうちしみちすく」は「総持寺道直」であろうが、「左」へ行くのか、「まっすぐ」行くのか、元の向きは南か東か、などにより進むべき道が変わるとおもいます。左のボタンから詳細を参照してみてください。なお総持寺は当地から南東約2km、安威川の東になります。
元の位置は『わがまち茨木』(道標編)によると旧太田橋西詰とありますが、橋の位置と道の関係が今一つ分からない。また、「さうちしみちすく」は「総持寺道へすぐいける」と解釈している。

前述した太田不動尊の境内西端に「太田橋」とある橋柱のような石が立っているが、解説板が無く元の位置などの手掛かりはない。ただ年代はわりと新しく感じる。

太田不動尊の橋柱を南に見る
ムクの木の後ろに旧街道

十日市町9の道標を北に見る
奥、安威へ。左20m現府道46号

道標東面、「左、あなを/妙見」
西面「右大坂」も同方向を示す

寄り道2、十日市町9

「十日町8の道標」から北へ120m三ツ辻(実は四辻)北東部に民家の壁を背にして小さな「十日市町9の道標」が立っています。この道標も移設されてここに有るようで元の位置は不明のようです。現西面の「右大坂」は南への道を示すとして、だれも反対はしないとおもいます。ただ東面の「左、あなを/妙見」がどの道を指すかとなると答えを出せる人は多くないと思います。ここで「あなを」は亀岡市の「穴太寺」(西国三十三ヶ所の二十一番)、妙見は能勢の妙見とすると、亀岡に向かう道として北を指すと出来るようにおもいます。どこに置かれていたのでしょうか。市内で「穴太寺」を案内するものは「大岩の道標1/2」「清坂71の西の道標」等が清坂越道沿いにあるがここからはだいぶん北になる。

耳原3法華寺の道標を西に見る
右側白壁の西端に道標

道標を北東に見る

西国街道に戻り、耳原(みのはら)3へ

「十日町1の道標地点まで戻ります。
80m西に進むと「耳原交番北交差点」になり、安威神社御旅所を右(北)に見て、270mの右(北)側に法華寺の西端に立つ「
耳原3法華寺の道標」があります。見にくいですが西面に「左、そうちじミち」と総持寺を案内しています。現在は直線状の道にあり辻でもないので移設されたものには違いないのでしょうが元位置は分からないようです。東と南の二面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれているのでこのお寺の壁際に置かれたものと考えられますが、道の南からの移設ではないかと思います。
耳原から総持寺への道は東か、はたまた南へ向かうか、ここでは南へ向い西河原で安威川を渡るほうが、東の十日市町、又は太田に出るより近いとおもいます。いかがでしょう。

良の東詰めにある橋柱か
道標ではなさそう

中河原10の道標を東に見る
奥、幣久
良(てくら)橋へ
左右は府道110号

中河原10

西国街道を西へ向います。630mで茨木川の幣久良(てくら)橋の東詰め、これを渡り西詰から400mで府道110号(余野茨木線)の交差点になります。この四辻北西部の植込み中に「中河原町10の道標」が立ちます。この道標は再建されたものでオリジナルは修復されて茨木市立文化財資料館、西植え込みの中に移設されています。よってこちらには北面に「一九八ニ年三月(昭和五十七年)事故之為破損シ再建ス」と明確に書かれています。北面に「北 明治三十年十月建之」とあり明治の地図を見るとこの地点は南への道が無い三ツ辻となっているので元は東100mの三ツ辻に立っていたかも知れない。

再建道標(上)と文化財資料館のオリジナル道標

R171新豊川橋交差点を直進

宿川原1の三基を東に見る。左から北、中央、南、とした

宿川原1の三基

中河原10の道標から西へ道なりに720m進むと現R171の「新豊川橋交差点」になり、勝尾寺川(茨木川上流)を渡らず南西に現国道を突っ切り80m進むと一昔前のR171西行き道路と合流し50m西の交差点で、ななめ左(南西)の細い道「椿の本陣」への案内がある、に入り50m進むと少し左に曲がりながら三ツ辻となる。この三ツ辻左側(東部)に三基の道標が立つ。西から見ると三ツ辻突当りの正面に見える。40m先右(北)側には椿の本陣があります。
北と南の二基は明治の作で、中央は古いとされるがそれも怪しいと思っています。

中央の道標

南の道標

郡山2への階段を南東に見る。迂回は60m先左

左端道標を北西に見る
右側から登ってくる

寄り道3、郡山2

この道標から南へ道なり(道祖本街道か)に70m道はすぐ東に曲がり四辻に成る、これを右(南)の広い道へ折れ40m坂を登ると左(南)石垣の間に階段が見える。この階段を登り少し道が広くなり150mで急坂終了近くの三ツ辻となる。広い道は左へ曲がるが、巾1m程の細い道を南へ40m進むとほぼ丘の頂上になり四辻が現れる。この辻の右手前(北西部)に幾つかの地蔵などとともに道標が立つ。東面に「右、かちおう寺道」とあるので、今、寄り道のために登って来た道を案内しているものと思います。東の郡山集落から登って来る人はあまりないと思われるので、南の中穂積から来た人への案内であろうとします。300m程の行程ですがかなりな勾配です。下部の階段は西に迂回する道があります。

一番手前が道標

郡山宿本陣の見学はおすみですか。近世の様子は下記『山崎通分間延絵図』をお楽しみください。

郡山宿の案内板

椿の本陣から宿川原1の道標三基を見る

宿川原10の四基を南東に見る
左奥、椿の本陣へ

同、四基を北に見る
左奥、勝尾寺へ

宿川原10の四基へ

椿の本陣の東の道標からです。西へ330mで北に細い道が分岐する三ツ辻に出ます。その左手(南)に集会所らしき古い建物があり石柱に「宿河原西会場」とある。この両脇とブロック塀の後ろに都合四基の道標が立っています。東から順に「門前東端」「門内南側」「門内北側」「門前西端」の道標としました。総持寺・京・大坂を案内するものが一基、他の三基は勝尾寺を案内しています。 1.門前東端の道標は道路に面して(北向き)建っていて、今なら「すぐ、かちをぅじ道」は西を示すと思われますが、昭和以前であればこの辻を北に向かい鳥羽(宿久庄4丁目)から粟生間谷東を通って勝尾寺へと向かっていたと思われます。(道祖本街道かも知れない。)
2.門内南側の道標は『わがまち茨木』(道標編)に「藤の里二丁目付近」として地図に印も付けられているのですが、明治の地図では一本道に見え、そこに辻が有る様には見えないので、私なりの候補地を三点ほど上げてみた。下記ボタンから参照してください。
3.門内北側の道標は一番古いように思われ、現西面ではあるが「これより右ハかつをじ(みち)」とあります。これは、わざと見にくい所に置かれている事も含め、新しい道標に置き換えられたためではないかと考えています。この辻であればやはり北を指していたとします。
4.門前西端の道標は、現在では最も見やすい位置に置かれています。又、現在の道路状況に合わせて北向きに置かれていますが、
『わがまち茨木』でも「元は道路の北側で、道祖本街道、俗に巡礼街道と呼ばれた道路のとの分岐点に立っていた。「右」とあるから、西隅にあって…」としている。先に言ったように三基も勝尾寺を案内する必要ないとの判断で、この石が一番目立つ所に置かれていたのでしょう。その代償に全身骨折、ギブスまみれになったと考えています。

門前東端の道標
これの台石と思われる石が塀の後ろにある。

門内南側の道標

門内北側の道標

門前西端の道標

四基の道標から、勝尾寺への道を進めば「宿久庄七丁目1の道標」につながり、左に「すぐ勝尾寺」とあ巡礼道の確認ができるのですが、少し離れすぎるのでやめます。右に写真を載せておきます。

宿久庄屋7丁目1の道標

鍛冶屋橋を北西に見る

春日神社への参道入口を南西に見る
背後(北)は寄り道4へ続く

寄り道4、豊川1-29

宿川原10の四基から西に西国街道をくだります。
200m進み勝尾寺川にかかる鍛治屋橋を渡り、道なりに430m地点左手(南側)に春日神社への参道入口と思われる大きな常夜灯が二基立ちます。よく見ると少し手前に北につづく細い道があり、これを右(北)に折れ210m進むと「道祖神社」の正面になり、鳥居の右(東)に「豊川1-29の道標」が立ちます。現在では「豊川」という町名になっていますが、昭和60年以前の地図では「道祖本(さいのもと)」となっています。村の氏神であったと思われます。又、大阪府史より二等補助里道「道祖本街道」が勝尾寺街道、粟生から高槻街道支線、芝生の間2.07里としており、この名前の元となった地名でもあると思うが、街道の経路は上記四基の道標地点から北へ向う道がそれであったようで、この神社の近くは通っていなかったと思う。この道標の南東面に「道祖神社」、北東面に「是ヨリ北壹町余」とあるので、今は案内している神社に移設されたことになるでしょう。旧西国街道からは210m(1.9丁)、R171からは南へ40mである。

豊川1-29の道標を北に見る。
鳥居の右、右奥R171へ40m

豊川1の道標を西に見る
奥、モノレール豊川駅へ

豊川1の道標へ

旧西国街道まで210m戻ります。時間があるようなら前述の春日神社に参拝しても良いかも知れません。多分昔あった春日村の名前の元になった神社ではないかと思います。橋を越えてからの参詣道は広くて威厳のある雰囲気があります。
ここは、西へ進みます。進む事わずか160mの三ツ辻右手前(北東部)に「豊川1の道標」が立ちます。南面に「是ヨリ、豊川學校/勝尾寺…」等の表現から明治以降のものと思われます。豊川学校が豊川小学校ならここから1km以上北となります。

道標を北に見る

豊川1の道標から道なりに830mで、モノレール豊川駅の南交差点で茨木市の西端となります。途中豊川4丁目でS字状に道が曲がっていますが、赤っぽい舗装に従って歩けば問題ないと思います。この赤っぽい舗装は「宿川原10の四基の道標」あたりから始まっていた様に思います。

豊川駅南の交差点
茨木市西端

青線は文中の経路と異なることがあります。

2021/9/14 作成

おわり