尼崎(有馬道「間道」)

「間道」とは、広辞林には「わきみち、ぬけみち、かくれみち、こみち、(対)本道」と有ります。この内近世においては「ぬけみち」が少し現在とニュアンスが違い「抜け荷の道」(場借料を払わない)ととらえることがあるが、市教委はこの様な意味では使っていないと思うので、本道でない脇道の意味で使ったものとします。間道の起点が「神埼町12の道標」地点としているのでそこを見てみる。
天保国絵図や明治44年地図でも北への道が太く書かれこれに対して西への道は細かったようです。昭和7年の地図に至って同じ太さに描かれ神崎橋も見え、西への道はまだ当所を通て次屋に向かっている。しかしこの道案内(明治11年)を建てた時点で、「有馬」は西へと案内しているのである。即ちこの時には間道を案内する意識はなく西が有馬への道とされていたものと思う。現在でも私に聞かれた場合は同じ答えとします。
近世において「間道」がここから分岐するという立場はとりませんが、一般的に使われている名称として使っていきます。

神崎町12の道標、間道は右へ

左の写真が「神崎町12の道標」です、渡しからここまでは本道と同じです。間道の起点とされるここを西に進み310mで新道にのみ込まれ、やがて北に向きを変えた720m地点で「次屋2丁目交差点」になります。南西からの広い県道と合流し新しい県道は北に向かいますが、南から来た旧道は北西に分岐する道となり、逆K字状の辻になっています。辻の北部に植込みがありその中に「次屋2の道標」が立っています。植木が邪魔で良く見えない場合が多いと思います。(右の写真) 北への案内は無く、「左ハ次屋村大辯財天女、是より/三丁南」とあり、約100m南東の尼崎市次屋1丁目29の三叉路(現四辻)からの移設と考えています。

右端「次屋2道標」を北に見る、左奥へ旧道

上記で説明した次屋2丁目交差点の手前約100mの辻から寄り道をしてみます。
道標の案内にある「大弁財天女」と思われる、次屋1丁目1-26の「次屋伊邪那岐神社」に向かいたいと思います。県道41号近松線の「松本五差路交差点」から140m西の辻(北に大きな製鋼会社の入口がある)を左(南)に折れます。120m進み四辻南東に消防署があればOKです。消防署辻から南へ100m変則の四辻を道なりに右(西)に曲がり20mの左手(南)に北側参道があります。本来の参道は南側と思われますが、西側からも入れます。不思議なことに東側にも道が有るのになぜかこちらにだけ入口が有りません。
この神社の社殿南側の境内社、厳島神社の南西部に「次屋1の道標」があります。これも弁財天を案内する道標ですが今は役目をはたしていません。この道標は施主や紀年の点で「次屋2の道標」と比べる事ができて、そばの常夜灯の取次との関連も含め興味のつきない道標です。詳しくは下のボタンから参照して下さい。

北参道の鳥居、一番小さい

次屋1の道標を北東に見る。右端狛犬右が当道標

下坂部2道標、やや右電柱左側「右…有馬」

次屋2丁目の辻から旧道を道なりに410m(下坂部小学校の東側)突当りの三ツ辻を左(西)折れて60mの三ツ辻突当り電柱脇に「下坂部2丁目道標」が立っています。小さいのと生垣に埋もれていて見落とすかもしれません。東(正)面には「右、中山、有馬道」とあり「ありま道」です。道標には間道、本道等の区別はいりません。目的地と選ぶ道が分れば十分なのです。

北江道なりに310m名神を越え、610m地点の四辻を西に折れ、そこからクランク状に90m進むと近松記念館南東角の広い変則四つ辻に出ます。久々知村の北東はづれになるのでしょう。記念館の壁際に一基、80m西に進み寺山門東前に一基、更に西に70mの四辻北西部に一基と、久々知には道標が三基あり、最も西側の「久々知1広済寺西の道標」の東面には「右 中山、有(馬)」とありここは北に折れる事をしめしています。他の二基は広済寺と近松門左衛門の墓を案内する。
有馬道の出発点近くにある「お初天神」の由来ともなる「曽根崎心中(1703年)」の作者の墓がある
広済寺でありますが、お許しを願って門前の道標だけを見て先を急ぎます。

久々知1広済寺西の道標

久々知1広済寺門前の道標

道標風広済寺を案内する碑

広済寺門前を西に70m地点の四辻の北西部の小さな祠南にあります。「上坂部2丁目道標」東面には「右、小ばま、中山、有馬」とあり、右()折れします。
このあと、道なりに110m進み、小さな橋を越えて西向きに40mで三ツ辻に突当ります。この三ツ辻を右(北)に折れ西正寺を西に見て
100m、最初の四辻を左(西)に折れ道なりに230mの四辻で南北の尼崎道と合流します。(西正寺北東の四辻に道標が欲しい。)

上坂部2丁目の道標、背後から来て右(北)に折れて「有馬」へ

この四辻は上坂部の集落の西端であったように思われ、南は明治期に「中国街道」呼ばれた長洲中通2の道標が建つ地点に繋がり、これから進む北には塚口をかすめて伊丹に繋がるみちである。 この四辻の「上坂部2丁目の道標」を見てみよう。立派な道標で色々特徴もあり、自動車のよく行き交う辻に有りながら傷も少ないまれな道標といえるでしょう。今後も長く残ってほしいものである。その特徴とは1.北面に分銅が書かれた扇状の紋を持つ。2.頂部に方向を示す?印を持つ。3.世話人の肩書?が変わっている。詳細は下のボタンから参照下さい。 ここでは東面の「右、小ばま、中山、有馬」に従って右折(北)へ進みます。旧道は北へ210mの県道606号の交差点で途切れます。最近まで製菓工場でしたが、住宅地に変わり通り抜けれるようにはなりました。上坂部1丁目交差点を北に越え100mの四辻を左(西)折し130m、JR塚口駅に突当り右(北)折し北へ130m踏切のある三ツ辻に出ます。この間は徒歩でのみ通行可能です。
踏切から旧道が復活します。JR宝塚線(福知山線)の踏切を西に渡り280m道なりに進むと、県道13号(産業道路/玉江橋線)に突当り、新道にのみ込まれます。これを右(北)に折れて阪急高架線をくぐり合流地点から120mの道の西側になにやら旧道のような細い分岐があり(30m北の「塚口本町7交差点」を西折れしてもおなじ)、これを左(北西)に入り突当りを西に30m進むと正面三ツ辻のやや右に小さな自然石の道標が立つ。ゴミ出しの日にはごみ袋に埋っていることあり。
「塚口本町1の道標」です。道南には塚口寺内町東門跡がある。

塚口本町1の道標、電柱の手前、奥(北)へ昆陽方面

「塚口本町1の道標」では「右 昆陽、中(山)」とあり、東面している事から北への道を進みますが、明治の地図を見るとこの辻の東40m辺りの四辻で北に伊丹を目指す「尼崎道」が分かれているので、当然そこにも道標が存在したと思いますが見つかりません。変則の四辻と見受けられるので、この道標がそこに置かれていた可能性も考えられます。なお、塚口の北西木戸口に抜ける道は村中をウネウネと進まなければならず、どの道が主要経路かは決めにくい。この北に「塚口本町2の尼崎藩領界石」があるので、とりあえずそこを通過するとなれば集落北東部をすすむ事になる。

塚口本町2の尼崎藩領界石、右から出てきて奥へ、門跡を左へ

北町福祉会館北西の三ツ辻を南に見る、右北西門跡か

塚口寺内町の東門から北門までの「ウネウネ道」この部分は地図でも確証がないので、抜き出して書きます。
塚口本町1の道標」から北に70mの四辻を真っすぐ(北)に行けそうもないが、その道に進みます。道なりに西に方向を変え90mで筋違い四辻に出ます。正面に「塚口本町2の尼崎藩領界石」があり、これを右(北)に曲がります。10m進むと清水町門跡が正面にあり、これを左(北西)にとります、道なりに200m進むと西に向かう道が突当りになってしまい左(南)にしか行けません。南に15m、西に30m、で北町福祉会館北西の三ツ辻にでます。この北辺りが北西門では無かったかと思いますが、辻北側10mの左(西)手の石垣上に小さな祠があるが、これが門跡かは分かりません。

東門跡の解説板より

北西木戸口を抜けると、南野村までは一本道なのだが、今では途切れ途切れになっている。順番にかいてみます。
北町福祉会館北西三ツ辻からは北に一直線に600m、途中塚口神社の北西端を過ぎると伊丹市に入ります。県道606号(西宮豊中線)に出ると旧道は無くなり、西に30m進み阪急伊丹線を越えて北に線路沿いに40m進むと逆K字型の辻があり、北西への道が旧道として復活する。130m進むと古墳跡を利用した墓地に突当り、左にまいて90mで三菱グランドに出て旧道は途切れる。
この後は、伊丹3(有馬道間道)に続く。

市境界地図。塚口右下から昆陽左上へ一直線に有馬道(間道)とされる

伊丹市の南野村南口、奥(南)塚口方面

上に有った道標、博物館に展示中

2021/8/10 作業中