今日も又道を間違えてしまった。西国街道芥川から分かれ、真上街道を北上し、原に出れば良かったのでしょうが、チョット、ショートカットしようとしたのが間違いでした。が何とか到着しました。
高槻市、田能です。高槻カントリーの北側となります。
(この記事の為、天保国絵図を見ると当地は丹波国であったようです。田能村から摂津国原村まで二里拾町となっていました。)
先ず、写真右側の「田能の自然石道標」です。これが一番お気に入りの道標です。
当時の巡礼の様子を少し披露します。間違いはご容赦下さい。
江戸時代は勝手に旅行する事は出来ませんでした。「手形」という言葉をお聞きになった事はおありとおもいます。人別送り手形や宗旨送り手形等もある様ですが、時代劇等では一番なじみのある手形。
そうです。往来手形が無ければ旅行は出来なかったのです。今で言うパスポートでしょうか。
古文書のお勉強会でも習いました。その受け売りです。下に載せてみます。
手形は当然手書きですが、ほぼ書式が決まっており、次のようなものが書かれます。
住所氏名、旅行目的、宗旨、最後に旅行者が途中で病死した場合の取り扱い、そして末尾に、手形作成日、宛先(諸国御番所御役人衆中)であったと覚えています。
実例を引っ張り出して来ました。
「往来手形の事、摂州東成郡大坂内安堂寺町筋、山家屋町深江屋源兵衛、この度西国・四国・秩父・坂東巡礼にまかり出申し候、所々御番所相違なくお通し遊ばされ下さるべく候、・・・この者病死仕り候とも、その所の御慈悲を以て御取り置きなされ下さるべく候、この方へ御届けに及び申さず候、その為往来手形件の如し、宝暦卯年二月・・・」
この方は金持ちであったようで、行先を見ると、当時の日本半周の旅であったと思われます。
又、旅行中の病人等の扱いについて、村での取り決めなどは、五人組帳の前書きに定めを書くなどして、村人に衆知させていたようです。病人や死人等の取り扱いは勿論、役人への届け等、当該の村としては大変な作業が必要であったと思われます。
さて、この道標の下部に書いてある内容を、拾い出してみましょう。
「羽州秋田郡川尻村
俗名、亀之助、は川(つ)
為、文化九申正月廿三日、随雲妙喜信士、
同廿四日、松山智貞信女
施主 村中」
とあります。
秋田県からはるばる、当地(田能)まで来て、亡くなった巡礼の夫妻と思われます。施主に当村中とあるので、村の者が二人の死後、弔いの為に建てた道標であると思われます。
上の手形の書式にあてはめれば、当地を旅していたなら、西国三十三ヶ所の霊地を順礼していたものと思われます。先の例の様に、この二人もお金持ちであったかも知れませんが、私の心情では、余り裕福ではない百姓の夫婦が「講」に当たり、始めての巡礼旅であったとします。西国逆打ちでなければ、京都市の西山善峯寺(二十番)から亀岡穴太寺(二十一番)を目指していたか、或いは穴太寺から次の茨木市総持寺(二十二番)への途中であったと思われます。道筋的には後者の可能性が高いか
例題の宝暦卯(九)年が1759年、この石が文化九(壬申)年正月廿三日は1812年と50年程差はありますが、秋田の二人も同様の手形を持っていたと思いますが、手形病死の項にある様に、秋田県の川尻村に連絡しなかったでしょうか。現茨木市、多分当時は丹波国田能村の庄屋さんの家に古文書が残っているものなら、もっと面白い(不謹慎な)ことが書かれているのではないでしょうか。
本人達が一日の差で亡くなっていることや、村人たちのバタバタした対応状況、落ち着いて後の道標石の建設などの状況が思い浮かべられて、辛い事件であったと思われるが、一番好きなものの理由です。
「供養塔の道標」西面
次に、左側の「田能の供養塔道標」です。今日は前回よりも見える様な気がして写真を多くとってしまう。読めなかった字も肉眼で「妙跡」の様に見える。その下はやはり読めないが、帰って写真を検討する事にします。
此方の道標は紀年銘を信ずると、「宝徳三(壬申)年三月、1日とすると、グレゴリオ暦1451年4月11日金曜日となり、ユリウス暦では4月2日。」となり非常に古いものです。石の形などからも古さは伝わります。それ故か字は読み難い。今後の事も考え空を仰ぐような建て方はやめて欲しいのですが、現状は雨ざらしです。
今日は余裕があるので、周囲を少し探ることにしました。
明治の地図で真上街道は田能集落の西を通っている様に描いていますが、この道標の移動が無かったものとすれば、江戸時代では、道標の南東から来る道が主の道であったかも知れません。
先ず、南東へ下ってみる事にします。ゴルフ場へは入らずに谷筋を進みます。これが真上街道であったか確証は得られません。ゴルフ場の手が入っているのか、土地の農家の所為か、350m程で広場の様な場所にでます。北東の別の谷沿いを進む道があり、これを少し登ると、フェンスがあり進めません。三ツ辻に戻り少し南下するが、そこそこ広い谷筋を進むだけで、手掛かりは無さそうと引き返しました。尚、地図では、このまま南へ1.5㎞程進めば府道6号に繋がっている。
次は、道標から北東方向の舗装路を進もうとすると、すぐ左手上にお墓が見えその横に小さな石が転がっています。目ぼしいものは無いかと探したがなく、道路に下りようとした時、少し養生された石が段ボールの箱に入れられ置かれているのに気付きます。よく見ると地蔵ではないかと思われます。この時、地蔵下部が四角く飛びだしている事に気付き、ホゾであろうと直感した。道標の下部は何度か見ていますがほとんどは直接土に埋められるように加工されている(上部より太い)ので、台石に嵌め込まれる構造を見る機会が有りませんでした。
今後の参考にと、写真を撮り、寸法を測っておきます。稀に台石に嵌め込まれた道標を見る事はあったのですが、下部の構造は知りませんでした。転倒のことを考えると深く掘られていると思っていたのですが、この地蔵像の場合は左程でもありません。これで十分であるなら、道標もこれに倣うと小さい石で製作可能と思われるが、手間賃を考えると直接埋設する形式の方が安いのでしょう。
エエモンを見させて頂きました。
後は、「杉生縄手ノ北の道標」の安否確認ですが、その前に「樫船神社」を見て置くことにします。
府道733号北側の階段を登り300m程の距離ですが、30m程登らなければなりません。登り口の常夜灯に「並河」をみつけ、『五畿内志』、正式には『日本輿地通志畿内部』かの編者「並河誠所」(wikiに「元文3(1738)年、71歳で没」とある)かと一人で色めき立ったが、名前が多分「平助」とあり、文久二壬戌(1862)年とあったので関係は無いでしょう。
木立に囲まれた尾根筋を登ると、本殿前には多分舞台が設けられており、雰囲気の良い神社であった。尚麓の田畑の中に大きな石の鳥居が立ちこの前の道が幹線道路で有った事を窺わせる。明治の地図では聯路として書かれているようです。勿論この道を北東に500m程辿れば、最初の二基の道標に繋がっている。
寄り道をしてしまったが、道標安否確認に戻ります。樫船神社を下って来て府道を西に進むとすぐに、田能村を北に登って来た府道6号に合流します。トンネルを抜けると亀岡かと思ったが、まだ高槻市のようだ。トンネル西側から900m道の右(北)に妙楽寺が有ります。
寺のインターフォンを押すが応答がありません。「杉生縄手ノ北の道標」とした石の無事を確認し後にします。
実はこの後もう一件、神社を訪れていますが省略します。グーグルマップには「春日神社(杉生千ケ谷)」とありました。妙楽寺から道を挟み南側になりますが少し歩かなければなりません。
発表する機会も無いので此処に詳細を残しておきます。
1.亀岡市穴太橋西の道標
亀岡市曽我部町重利下河原 府道407号の穴太橋西詰から直線90m南西の田圃中の四辻北東部に西を正面に建つ
尖頭型角柱 152x37.5x38㎝ (頂高2㎝、基部10㎝含む)
N35.007551 E135.557179
西面
┌―――――――――――――――┐
│ かめ山 │
│左 道 │
│ 京 │
└―――――――――――――――┘
南面
┌―――――――――――――――┐
│右 よしミ弥道 │
└―――――――――――――――┘
東面
┌―――――――――――――――┐
│ 「なし」 │
└―――――――――――――――┘
北面
┌―――――――――――――――┐
│ 穴太村 │
│ 施主 濱風半右衛門 │
└―――――――――――――――┘
(今昔マップ on the webの明治の地図で見ると、現在地より約100m西辺りに三ツ辻があり、北東へ分岐する道が、
走田神社西を通り余部へと向かう。余部を経由し亀山城、京都へは東穴太橋を渡る道より遠回りとなる。
又、その三ツ辻より更に、西180mに三ツ辻があり、南に分岐し重利の集落に進む道がある。この辻から、風口の
医王谷方面(善峯寺方面)への入口迄、東真瀬場経由で800m、南重利経由で1.1㎞と思われる。)
(行先、よしミ弥は、京都市西京区大原野小塩町1372の善峯寺と思われる。明治の地図で見ると川を東に越え、
風口から南東に山を登り医王谷、鍬山神社に続く道があり、寒谷、外ノ畑、杉谷、善峯寺と続く様には思えるが
これを示すかどうか自信はない。
かめ山、京はこれは間違いなく亀山御城下を目指す道である。風口へ出て穴太口の道標(現荒塚町)としてよい
と思われる。現在位置に置かれるならば、左が北、右が東をさし案内に文句は無さそうなのですが、明治の地図
には、ここを通る道が無い。では分岐する辻、即ち元の建立地点は何処であったか。
善峯寺への道が明治の地図で茨木街道(現国道423相当)重利交差点辺りとすると、この東への道筋上では、
分岐させる必要はなく、同じ道を進ませる案内であるが、案内先を変えただけのものかも知れない。)
残念ながら総持寺への案内でなく、善峯寺への案内でした。逆打ちが多かったのでしょうか。妙楽寺の道標も善峯寺を案内しています。ただ私の一番好きな道標とした田能の道標は「穴太」「妙見」を案内するものだったので、穴太から善峯寺の経路では無かったか、善峯寺から来た時正面に建っていたものかも知れない。ハイキングマップ等で穴太寺・善峯寺をみると田能は経由しないようである。
以上、成果があったのか無かったのか。少し秋を楽しめたように思い、帰途に着きます。