高槻市最南部の道標

始めに
 ここが高槻市である事を始めて知りました。この辺りはほとんど来たことがありませんでした。web上でこの道標を知り急遽向うことにしました。

先ず場所の説明から。江坂から始めます。内環状線を吹田に向かい(東進)、吹田市役所や阪急吹田駅を北に巻いて南東に進み神崎川を越えて上新庄交差点に出ます。ここをやはり内環状線に左折(東)し、阪急上新庄駅の下を過ぎ「大隅1交差点」にでます。この交差点は上に新幹線が走り、左手(東)に瑞光寺があります。
 瑞光寺には最近訪れた、「東淀川区瑞光町2の道標」や「鯨橋」が有るので、急ぎでない時は見ていって下さい。ただし駐車場は無いように思います。
 「大隅1交差点」を左折(新幹線高架に沿う分離帯の有る道)して、内環状線を離れ1kmで歩道橋の掛かる「大桐5交差点を左折(北東)し府道16号(大阪高槻線)に入ります。府道16号は片側は1車線の古い道で、車も人も通り難い道ですが、ここからは一本道なのでこれを選びました。「大桐5交差点」から500mで再び神崎川を北に越し、2.5㎞で中央環状(一津屋交差点)を越え、7kmで螺旋階段の「柱本歩道橋」が架かる交差点になります。
 この交差点を右折(東折れ)すのですが、案内的には北40mの小さな四辻を右折(東折れ)し100m先の四辻南東部となります。歩道橋の交差点を曲がった場合は少しクネクネとなり省きます。

チョット寄り道。
瑞光寺

柱本歩道橋を北に見る

ようやく着きました。四辻南東部としましたが東の細い川を越えた、火の見櫓の下ですネ。新しいフェンスに囲まれて、小さな石標の東に立っています。このフェンス(柵)が邪魔になるのですが、東側は扉に成っており、幸い開ける事ができ東面だけは邪魔物なしで見ることが出来ました。

移設であろうことは「高槻市柱本3の道標」に詳しく述べておきましたが、高槻市の「まちかど遺産」の様な説明碑は立っていません。新しいものとして、遺産の対象外なのでしょうか。或は市の方も高槻市域と思わなかった(そんなアホな)。公文書館の『摂津天保国絵図』でも「嶋上郡」(高槻村と同じ)に成っています。

道標の案内先では無いのですが、おそらくこちらがメインの「八房の梅」があるらしい法光寺を見に行きましたが、梅の木は分かりませんでした。上人がらみの「八房梅」はあちらこちらに残る様ですがよく知りません。房状に花が咲くのでしょうが、ブドウ状になった梅干しも食べてみたい気がします。

東側の門前に「由来」の書かれた大きな石碑があったので、その内容を載せておきます。道標に関する手掛かりはありません。


『由来』
当寺は文明七年辛信證院蓮如上人が河内国茨田郡出口に教化のみぎり
当地在田中西右衛門なる信者の懇願により直弟子空善坊を開基とし、この
地に居住せしめられることとなり空善坊は文明八年二月近江国志賀郡大津
三井寺より自坊萬徳院を移されたのがその発祥であり空善坊捨身の霊場
でもある。顕如上人真筆の当寺縁起によって深き勝縁にあわれることを希求し、
由来とする。  十九世 釋空
右宗祖聖人生誕八百年を記念し亡父、夫の永代経志として慈にこれを建立す。
  昭和四十八年十二月二日  願主 寺前文代

梅の話はどこにもありません。

上述の『天保国絵図』には南の「鳥飼上ミ村」近くには朱書きの道が見えますが、「今昔マップ on he web」で明治の頃の地図を見ても「柱本」集落の西は道が一本も見えない。

道標東面

道標の東面を
 飛良田

 い者ら幾
(飛、良は変体仮名「ひ、ら」で平田とした)、(者、幾は変体仮名「は、き」で茨木とした)としたが如何でしょう。元位置を寺の北東角、現鐘楼の外側とし、淀川土手から下って来た船旅の人に対する案内としたのですが、この点も含めて異論が出る方も多いのではないか。因みにこれを見に行くきっかけとなったwebの記事には「…しん田」とされている様です。「xx新田」は多く(例えば三宅鶴野新田)魅力的なのですが茨木方面に見つからない。

果して「良」の変体仮名「ら」か、「しん」の二文字か

変体仮名、オンパレード。左から
①「者良」は「ばら」この「ら」は読みやすい、②「幾」は「き」長いナー、③「飛」は「ひ」一画目強すぎ

淀川の舟から降りて、柱本集落へ進む道(西)と思われる景色。やや左の大きな屋根が法光寺。土手上左(南)に「くらわんか舟」発祥の碑。この碑がある事からも舟旅の人が多くいたものと想像できる。

高槻市南端の確認と、変体仮名お勉強の巻でした。