珍しく、博物館を見学しに行きました。目的は「仁徳天皇陵古墳出土の刀子」です。天皇陵出土品等見る機会は無いと思っていましたが、「見れる」とありました。見に行かなければなりません。
久々に近辺も見てみる事にしました。
第一目的地は、馴染の堺図書館の東らしい。道に不安はありません。堺東駅前の道標をチラリと見て、グーグルマップでは堺中央線、地理院地図では一条通、を南下し、「御陵通」の交差点が見えるくらいに来ました。信号が変わり、南に横断待ちを避ける為、手前で東に折れます。環濠にぶち当たり南に行けば図書館前であったはず。
アーアー、又、住宅地探検をしてしまう。
展示物の解説写真をテキスト化しておきます。写真①
金銅装刀子
刀子は、小型で刃の長さが短いナイフ(工具)のことです。
本資料では鞘と刀身の部分が残っていますが、腰に吊るすため
の釣り手と、手で持つための柄は残っていません。
この資料で特徴的なのは、鞘です。一般的な刀子の鞘は、革製
で刃の側の縁を革紐で縫ったものと推定
されています。しかし本資料は、檜と推 断面図
定される木材で作られた鞘を金銅板(銅 刃(は)
板を金メッキしたもの。金銅装)で覆い、 ├───────┤
刃の側の縁を銀製の鋲で留めていました。 (鞘付き刀子の図)
本例は、革製の鞘をもつ刀子の姿を貴金 ├───────┤├─────┤
属で表現したものと思われ、大王家の副葬
品にふさわしいものと評価できます。
(刀子の左面写真)
(刀子の右面写真)
國學院大學博物館提供
甲冑金具
甲冑金具とされるものは、金銅板の小さな破片です。 (展示資料写真)
甲冑のどの部分なのかを明らかにすることは困難で
す。分析によって、鉄板を用いた製品の表面に金銅板 (展示資料写真)
が貼られたものであると推定されており、鉄に金銅板
を貼った甲冑の一部の可能性があります。
國學院大學博物館提供
仁徳天皇陵、大仙古墳はご存知の通り前方後円墳です。これは、お墓であるとされ、後円部分に棺が納められるのが普通らしい。ところがこの展示の資料によると、前方部に石槨が見つかり、その中に石棺と共に、甲冑、ガラス製品、等の副葬品が有ったとの事、その中の一つがこの刀子(とうす)であるらしい。
本来天皇陵とされる場合は、発掘しないらしいが、墳丘の一部が崩れた事により修理の過程で、記録されたものらしい。新聞でこの展示会を知ったのですが、刀子だけの展示と思っており、これらの資料の方が驚きました。
映像で見た石棺のレプリカも有りましたが、これは少し残念でした。石の質感が再現しにくいのでしょう。こちらはむしろ、三面のガラス張りを止め、石槨自体を作り込み、その中に石棺を納め上から見る方が良かったかも知れない。ただ、前方部に有ったらしいのであるが、後円部にあると推測される、主となる石棺の姿を想像させるには十分でしょう。墳墓の大きさでよく比較されるピラミッドの石棺に比べるとはるかに大きいと思わせる。ピラミッド行ったことないけど。
展示物の解説写真をテキスト化しておきます。写真②
仁徳天皇陵古墳 前方部で見つかった石棺と石槨図(レプリカ)
※現品:八王子市郷土資料館所蔵
柏木貨一郎が描いた石棺・石槨の図を模写したものです。
石棺を上から見た図には、石棺・石槨の大きさと、石棺の周囲に置かれていた副葬品の記載があります。
図の右下に「此所ノ上石垣崩ル」(この上の石垣が崩れている)と書かれており、そこから石槨の中を見
たと考えられます。仁徳天皇陵古墳の副葬品として知られているもののうち、絵図があるのは甲冑だけ
です。ガラスの器、刀などは文字のみで書かれており、どのようなものかは分かっていません。
石垣を正面から見た図には、石棺の短辺側の図と、墳丘の2段目斜面に石棺がある図が描かれています。
残念ながら石棺の位置を示す墳丘の平面図が無いため、石棺が埋っている場所は不明です。
展示物の解説写真をテキスト化しておきます。写真②の左図中
【石棺正面図より】
仁徳天皇御陵石棺 一
石棺正面図
蓋石の凸部、蓋嵩三尺余
蓋石の下部に付く紐掛、径一尺三四寸
蓋の幅、巾四尺八寸
蓋の長、長凡八九尺斗(計)
紐(縄)掛突起、径一尺四寸、隣との間隔、コノ間一尺二寸斗、端まで、五寸
紐掛蓋石ヨリ造リ出シ
朱ニテ紋様ヲ書ク
此所高ク彫出
コレヨリ下土ニテ埋ル
【御陵南登リ口切断面】
掘水面
九石坂南面ナリ
東向
郭ノ蓋大石三枚ニテ覆
写真②の右図中
【石槨を上から見た図より】
二
明治壬申年九月七日 和泉國大鳥郡 仁徳天皇陵
南登り口地崩出現ノ石棺並石槨ノ圖
同月十九日於石槨中□ 柏木政矩
四面石垣丸石ナリ
此所ニ甲冑並硝子杯太刀金具破裂等アリ
此所ノ上石垣崩ル
此所ニ金具存セザル
鐵刀二十口斗アリ
東西、凡一丈二三尺
南北、凡八尺余
蓋上ノ形チ亀ノ甲ノ如
明治八年四月十五日
鷲雪真模
明治5(1872)年 仁徳天皇陵古墳 前方部の石槨が見つかる
明治5年、仁徳天皇陵古墳の前方部が鳥のフンで汚れているの
で掃除をしたいという届け出が堺県から出されました。掃除に入っ
たところ、大石の下に穴があり、中を見ると甲冑や剣などが棺の近
くに見えたためすぐに国に報告した、との記録が残っています。こ
れが石槨(石棺を覆う石組の空間)と石棺が見つかった経緯です。
石棺・石槨が見つかったちょうどそのころ、文化財に詳しい人々
が関西に滞在していました。彼らは政府から命じられ、社寺などの
宝物の調査(壬申検査)に従事する人たちでした。
壬申検査に従事していた人々に仁徳天皇陵古墳に関する知らせが
届き、従事者のうちの柏木貨一郎(政矩)が様子を見に行ったよう
です。柏木は幕府の大工の棟梁の家に養子に入ったのち、古美術の
鑑定にも才能を発揮した人物です。石槨が開口する様子を現地でみ
た柏木は、石槨や石棺の図と副葬された甲冑の図を描きました。
現在、柏木が描いた原図は伝わっていませんが、模写された絵図
が何種類も残っています。とても正確に記録されており、石槨や甲
冑の様子が分かる貴重な資料です。
さて、この後お決まりの近辺の道標安否確認ですが、今日はもう一つ目的があります。
このサイトの記事の何処かにも描いた記憶が有るのですが、この近くの部分に限るのですが、「竹内街道」の未踏査部が有ります。これを無くし、気分をスッキリさせておきたい。
竹内街道は、「榎元町5の道標」で西高野街道と分岐し、金岡神社前の無くなった道標を調べて、その少し東の「金岡町3の道標1」へ分岐する辻迄は来ていました。
一方、「神南邊関連の石造物」の調査(カッコエエ言い方)で、大阪府太子町山田(竹内峠から2㎞西)から大泉緑地南側迄は通っています。この間400mが抜けていました。
そこで「金岡神社」の西から、緑地南口の中環交差点北側迄を見ていきます。博物館からはニサンザイ古墳の方に抜け、中百舌鳥駅の南の踏切を渡り、府道28号に合流し踏切から700m程で旧竹内街道に入ります。府道28号線の交差点には名前が付いておらず、グーグルマップの「竹内街道」を頼る他はありません。後日、四辻南西角が、大阪府堺市北区長曽根町3079-2と有りました。
金岡神社で無くなった道標を少し探し、休憩を取りました。写真を撮り忘れたので古い写真を載せて置きます。
新しい石柱はあるものの、今回も、古い道標は見つかりませんでした。
神社の南からは、カラータイルで舗装された、「竹内街道」が続きます。
金岡町752-2の筋違い四辻に来ました。ここで一度街道から南に離れ、中之町会館前にある「北区金岡町3の道標1」の安否確認です。
南に折れた直後の東側に「真宗、西光寺」があり、過ぎてすぐの三ツ辻南西部に石柱が立ちます。道標ではありませんが「中之町内會」とあり、これを西に折れ100mの左側に中之町会館が有ります。西向きの入口南側に祠があり、前の線香立が道標になっています。
偶然、会館より人が出て来られたので、この道標の元位置をお聞きするも、「知らない」との事でした。
道標は無事でした。竹内街道に復帰します。
ここから先が未踏区間になります。
竹内街道が繋がったので、今日の目的は終了しました。あとは帰り道で既知の道標安否確認だけです。沢山あるのでドレとは決めていませんが、近ければ寄る事にします。
大泉緑地は行った事が無いので、ここを少しウロツイタ後、帰り道は、長尾街道と見当を着けました。長尾街道のこの辺りの未踏区間はありません。(道明寺までは行ったことがある。)
大泉緑地より北へ真っすぐ抜け、長尾街道に出て、西に帰ります。見覚えのある道標にたどり着きました。「北区蔵前町3の道標」とした明治の道標です。後で地図を見ると大泉緑地から近道が有ったようです。
この後は、少し街道を南へ外れますが、ワザワザ行きます。実は東面が上手く撮れていない道標があるのです。
さて、表題の「勘違い」ですが、「北区蔵前町3の道標2」の東面写真の再撮影を終え、道標のある公園で少し休息の後、「北区蔵前町3の支柱道標」に着きました。公園から150m程北西で、すぐ近くです。二本残された石柱の隙間を窺うが、相変わらず見えません。そして新しくなった祠の中の地蔵を見ます。右の大きい方の地蔵の赤い前垂れを捲ると、行先が無くなっています。これはエライ事だと慌ててしまう。一しきり写真を撮り、ガッカリしつつ、左側の小さい地蔵さんの前垂れを巻き上げると、ナントこちらに案内があるではないか。
これは「はじめての、道標だ」がハヤトチリだったのです。
此方の方が先に見た、支柱部に有ったとされる道標。変わりはありません。相変わらず、ひっ付けて、立てて有ります。離して下さい。
これは既知の一基であるのだが、「二本立つので二基か…」。
「祠内の地蔵を見てみよう」。右の大きな地蔵の赤い前垂れが邪魔をしています。
捲って読んでみると、道案内ではありません。??
左の地蔵の前垂れを取ると、「出た!」
左と、右を勘違いしている事に気が付きません。新しい道標だと思い、必死で一連の作業をこなした。今日は安否確認だけと思い、お掃除セットは置いてきました。地蔵右下部の文字らしき部分を、手指で拭い、撮影するも、悔やまれます。そこで??。
なんて書いてあったか、自身のHPをスマホで見る事にしました。チャンと載っていました。「北区蔵前町3の地蔵道標」はこの左側の地蔵だったのです。
調子の悪いカメラに、又、負担をかけてしまった。おかげでグリップ部が異常に熱い。この後、大阪市内は目検だけにしておこう。
何を書こうとしたのか。
大仙古墳出土品のお宝、竹内街道踏査の自慢、と考えた時「最近調子に乗り、行く度ごとに新しい道標を見た為、今回も」と「ハヤトチリ」した事を、今後の諫めとして書きました。
尚、竹内街道も峠の府境まで2㎞程残っているぞ。