2025年4月、この項が書きかけのままである事に気が付きました。上記博物館主催の催しは2023年11月、その後、2024年11月に同様の催しと二年連続して出席しています。そのどちらが書きかけであったのかも分からない状況です。
2025年4月に入り、豊中の現況調査に続き、吹田もその必要があると判断し、吹田市域全部を確認すべく出かけました。
吹田については何の記述もしていなかった。依って、ここに現況をチェックした話を載せる事で、吹田市の全般記事とします。
吹田市に関しては、『すいた歴史散歩』をテキストにして、回り、一基を除いて確認出来ております。一応の調査終了は2017年10月頃の事であったと思います。それ以降も、津門中道はよく利用しており、変わりのない事も確認しているので、特段再調査の必要も無いと思い今にいたりました。
が、豊中市の再調査で行方の分からないものが何点か出た事で、吹田市においても確認が必要だと思った次第です。
今日は、一気に市内全域を回る予定にします。上述の2024年秋にも津門中道、亀岡街道辺りは通っているので、市内南西端の江坂の四基の道標から始め、しばらく訪ねていない高地(千里山)の道標の安否を尋ねる事にします。
即ち、江坂から千里丘陵南部に取り掛かり、北に向かい、時計回りに市内全域を一周することにします。最後は亀岡街道をまっしぐらで吹田の渡で終りとなるでしょう。
一応、吹田市内の道標地図を載せて置きます。
グーグルマップ吹田市の道標
グーグルマップの道の起点に特別な意味は有りません。隣接する市に置いています。又、その経路はそのアプリ(プログラム)の制限上、思ってもいない描かれ方になったりします。参考程度とお考え下さい。
結論から先に述べておきます。2017年当時から大きな変化はありませんでした。尚且つ全部回れず。
「10.吹田市江坂町3丁目の道標」です。旧道の微妙な屈折を楽しみながら160mでやや広い南北の道と交差します。この交差点の北東部に道標があります。民家の敷地内建っていると思われ、交通事故にもあっていないようです。
南北の道は府道134号のようで、現在は北の勝尾寺に向かう事ができるが、明治の地図にこの道はみえません。よってここへは移設です。
伊丹道(旧道)を東に進みます。100mで三ツ辻になり、この辻の北西部に二基の道標が建ちます。この辻は明治の地図にもあり、北折れすると、先の府道134号に合流し、「勝尾寺」を案内して問題はありません。何故、二基も建っているのでしょうか。
「11.吹田市江坂町3榎坂西(小)道標」の東面には「右かちを(じ)」としています。写真では奥(北)に進む事になります。
「12.吹田市江坂町3榎坂西(大)道標」の西面には「(すぐ) 吹田 京」とあり、今日はこれに従います。尚東面には「右 みのを 中 山」とし、勝尾寺がありません。
小道標は、この大きな道標に無い案内を補っていると考えればよいと思う。ならば小道標が後に建てられたと考えて良いかも。
三ツ辻を20m東に進むと、右(南)から来る道との三ツ辻になります。辻の南東部に石が幾つかありますがその一基が道標です。「13.吹田市江坂町3榎坂東道標」と名付けましたがこれも無事でした。
大坂から勝尾寺を目指すには、神崎川を越え、榎木から北進してきて、この辻で突当り、左(西)折れし、20mの小道標で右(北)折れして進む事になります。今風に言えばクランク状に進む案内になります。当時は富くじを買いに行く人が多数通ったのでしょうか。信心で詣でる人と何方が多かったか知る由も有りませんが。
道標の南面に「左リ勝尾寺」と案内するだけで他にはありません。勝尾寺しか眼中にないようです。上記「小道標」と同じ役割を果たします。
新御堂筋を60m南に下り、江坂町西交差点を東に渡り、北に折れ60mを東折れし、旧道に復帰します。この後は少し屈曲しますが道なりに進み新御堂から600mで垂水神社参道入口になります。服部ー吹田の旧道はこの後、現阪急豊津駅の南へと向かいますが、「18.吹田市上山手町11の道標」を目指し山登りにかかります。地理院地図では垂水神社から愛宕神社 迄、44mも登らなければなりません。「千里」は「山」か「丘」か、私は「山」に賛成。
踏切を渡り、300mの三ツ辻で道がわからなくなり、地図を確認します。実は久しぶりなので道を覚えていませんでした。グーグルマップのナビは「右に曲がります。」とおっしゃる。何時もこれに逆らって進むのを楽しんでいるのですが、これに従う他ありません。
団地内に入ってしまったようです。ここを東に進むと、ナナ何んと折角登って来たのに下り始め、しかも出口で突当りになってしまった。一応三ツ辻であり、筋違いに東へ進む道もあるのですが、再び地図をチェックします。どうもドツボにハマったようです。取り敢えず、最も近い名神のアンダーパスを目指して進む事にします。
グーグルのナビに従って進んだ結果、何度か痛い目に合っているので、ここは地図だけを見て最短距離を進む事にしました。
自宅に帰って、通ったと思われる道を書いておきますが、その通りであったかはわかりません。
では、団地内を通り東の出口の三ツ辻に突当ったところから、右(南)に15m、三ツ辻を東(左)に折れ140m、変則四つ辻を道なりに北東へ250m、広い三ツ辻を右(東)折れし390m地点で、「豊中6」とある名神高速の地下道南側入口に出ました。
ここで又地図を確認します。次の目的地はすぐ近くです。変則四つ辻から名神の北の側道を東に進み50mで、側道を離れ左(北)側の側道の側道へ入ります。(左にも道があるので左折しないように注意してください。)
変則四つ辻からだと、グネグネと道なりに結構登った220m地点、何辻か分からない辻(地理院地図では6本、グーグルマップでは4本)の一番手前の左への細い道に、折れて急な坂を登ります。左手のフェンス沿いに進む形になります。ここを間違えなければ後100m道なりに高い方へ高い方へと登ると愛宕神社下になり「上山手自警消防団、格納庫」を過ぎると「18.上山手町11の道標」も左手(西)やや上の斜面に見えます。
無事残っていました。
「上山手町11の道標」を南西に見る。左から来て、右(北)へ進む。
交番は辻の北部に有りますが、西に道を挟んで、2m程高い部分に広場があります。パトロールから帰って来たのか警察官が横の車止めにミニパトを誘導しています。呼び止められは、しないとは思うけど・・・。なにしろ、こちらは挙動不審者な者ですから。「ドウヒョウを見て回っています。」と答えて、「ご苦労様です。」と返って来そうにはならないだろう、等と想像してしまう。そーっと背を向け階段を西に登ると、正面奥に地蔵等がズラリと横一列に置かれ、広場の左手(南)の崖の端には「15.佐井寺1の道標2」が見えます。左手の道標は一見して無事が分かったので、先ずは正面の地蔵「14.佐井寺1の道標1(派出所南道標)」を見に行きます。
何時もの事ながら、赤い前垂れが掛けられており、どれであったか、捲りあげないと分かりません。中央の一番大きいものであったと記憶している。赤い布を持上げてみると確かに文字が書いてあります。
早速、前垂れを外させて頂きました。
「佐井寺1の道標1(派出所南道標)」中央を南西に見る。背後に交番。
広場南東端の「15.佐井寺1の道標2」は変わりありませんでした。防草シートが張られ見易くなっていましたが、道標の前はスギナの子が延びて見難くなっていました。もう少し早ければ、ツクシと2ショットが撮れたかもしれません。
交番前から、吹田市最北部の道標を目指します。少し西の佐井寺集落からは、明治の頃の呼称「山田街道」が繋がっており、それを北に進めば良いのですが、今は、旧道トレースをせず、新しい道で山田上(現山田西4)に向かいます。道筋の詳細は省略。交番前を北に廻りこんで、「こもれび通り」から府道2号に出て左折(北西)し約3kmで「17.山田東4の道標」に到着しました。
この道標も無事が確認出来ました。横に建つ解説板には「元の位置から北西へ十六・八メートル移動」と有りますが、私の元位置は別の場所としています。
吹田市の最東端を目指します。山田街道旧道を南東へ戻り、樫切山北交差点に出てこれを東進し「千里丘あおば通り」に入り、名神高速を潜り、中環のすぐ手前、大正川に架る「八丁橋」の南詰(手前)で、川に沿って東に進む車の通れない細い道に分岐します。(実際はこの時曲がり損ねて広い道を行ってしまい遠回りをしてしまった。ただ明治の地図ではこの遠回りの道が描かれており、川沿い道は無い。)
「八丁橋」を通り過ぎたので、そこからの道を書きます。橋北詰を過ぎると道は東に曲がり、橋から300m地点でK字型の辻に成ります。ここを直進せず、斜め右前(南東)の一番細い道へ進みます。これが明治の旧道のようです。分岐から60mで橋(名前は不明)になり、越えると、前述の川沿いの最短道と合流する事になります。合流後もこの南への細い道を、道なりに進むと370mで「9.吹田市青葉丘南1の道標」に着きます。途中60mで右の広い道に分岐しない事。220mで広い道を横断する事。に注意してください。狭い道なのに人が良く通っているのには驚きました。
「9.吹田市青葉丘南1の道標」としていますが、「茨木市」かも知れません。黄色の鉄柱で守られて無事でいます。
この道標には、来た道を指して、「左 山田道」としています。山田からきたのでこの案内に問題の無い事が分かります。尚、この道標は明治より前の建立と思うので、「山田道」としているのは明治の「山田街道」を言うのではなく、「山田」への「道」の意味です。
南東面「たんば」「ば」は変体仮名
摂津国内の「たんば」を案内する道標地図。灘五郷から有馬へ六甲山を越える道は、唐櫃道、ととや道、船坂峠越え等か。
因みに「右 たんば/妙見」の案内を見て、皆さんは納得出来るでしょうか。南から来て写真の右に進む道を明治の地図では「亀山(岡)街道」としています。
昔、この近所の方にお話をうかがった時「たんば」と言われて何処を想像しますかとお聞きした事があります。答えは「わかりません」でした。
ここで「ひけらかし」を一つ。「たんば」を案内する摂津の道標の中で、この道標は最南東端にあります。「たんば」が何処を案内するかは、分からないながらも、何となく道筋が見えて納得がいくのではないでしょうか。
左の、「丹波篠山を案内する道標」を見て下さい。多分何本か道筋も浮かんでくると思います。
丹波=丹波杜氏、とし、この方々の帰路の為に建てられた案内として見ると、不思議な事に灘五郷(西宮~神戸市灘区)に続く道には、「神戸市北区有馬町亀乃尾不動西の道標」一基しかありません。灘からは、先ずは有馬を目指したからでしょうか。
池田、伊丹からは納得出来そう。では、吹田にも酒造業が有ったのでしょうか。Aビールは知っていますが、これは関係ないでしょう。詳しい方に聞きたいものです。
次は間違いなく茨木市域の道標ですが、確認しておきましょう。「茨木市宇野辺1の道標」です。
これは間違いなく明治以降の案内です。無事を確認し、南へ向いましょう。
前述の「亀山(岡)街道」を南に向かいます。旧道はほぼ一直線に続き新芦屋下で府道14号を横切りJR東海道線の西側沿いに進んだ後、千里丘上5で府道に合流し、千里丘1で西側に離れていきます。この千里丘1丁目は摂津市となります。ここに「摂津市千里丘1の道標」が建っています。市域で言うと吹田市ではないのですが、見ておきましょう。数年前までは民家の陰に隠れ見つけ難い道標であったのですが、現在は見易く綺麗に整備され建て直されたようです。
尚、道標建立当時は現府道14号は無く、「左 満し田 江口」は現府道を横断してJR沿いに進む道を示していたとなるでしょう。
「亀山街道」は市場池公園まで、吹田市と摂津市の市境を通っているようです。依って道の西側にあれば吹田と考えてよいでしょう。
市場池公園の少し手前、西側民家の庭に「山田市場2の道標」が保管されています。元はすぐ西の辻にあったもので工事で遺棄されることを避けて庭に置かれているとの事でした。個人宅であるため、道から無事である事だけを確認して後にします。
次は市場池公園の南端にある「摂津市千里丘6市場池公園の道標」です。公園内でもあり無事残っています。
ここは、どうも摂津市のようです。池も公園も吹田市ではなさそうです。即ち、亀山街道は市境を通っていないことになります。
この道標は「大阪府」が建てたもので、大きさも立派で、彫り方も凝っています。南面に「右、亀岡街道」「左、小野原街道」とあり、移設で無ければ、主要道の分岐点であったことが分かります。公園内である為多少の移動は間違いないでしょう。
小野原街道について少し。大阪府誌(明治36年)に一等補助里道として、起点「三島郡豊川村大字国道三号路線(現R171)」、終点が「三島郡味舌村大字味舌上假定縣道亀岡街道(多分ここ)」、経過地点山田村、となっている。
この後、打って変わって非常に古そうな道標を確認します。石の形からして嬉しくなります。如何でしょう。旧い分、文字は読み難いです。
「岸部北2少路の道標」です。一石五輪塔と呼ばれる形式だそうです。五輪と言われるのは、五つの部位から成り立っているからだそうで、上から「空」「風」「火」「水」「地」、陰陽五行説(木火土金水)とは別物なのでしょうか、良く分りません。何となく有難い気はします。
案内先は「佐井寺」のようです。これに従い北西に進めば、何時間か前に通った、交番前にたどり着いたようですが、今は吹田サービスエリアでブチ切れています。
この後、この記述の頭で「後で行きます」としていた、博物館の道標の元位置を見に行きます。元位置に行っても、道標が無いのは明白でしょう。と言われるかもしれませんが。地上には石が無いのですが、地中に残欠が埋っていると思われるのです。よってそれが無くなっていないか確認するのです。
ここまでは、無事?に残っていました。残念ながら時間が来てしまった様で。後、数基確認が出来ていません。近々続きを載せる事にして。今日はここまでとします。
後日、残りを回って来たので、項を改めず、加筆修正します。前回撮影していなかった街路の様子を上記の適当な所に差し込みますが、天気が悪かったもので、見難いかも知れません。
メロード通りから西に折れた道は、すぐに南に方向を変え(この三ツ辻を北口と言うらしい)、吹田の集落中を進みます。分岐から200mで正面にマンションが立ちはだかりますが、筋違いの四辻でやや東側を南に進みます。が、その南西角(マンション北東部)に「南高浜町3六地蔵道標」が有ります。説明板も西横に建てられ、吹田市が大切にしている感じが良く分ります。無事に残っています。
次に道標の案内に従って南に向かいます。道標から140m南の三ツ辻北西部に「南高浜町4南町道標」が建ちます。これは厳重にガードされており、無事でありました。ただそのおかげで見難いのが玉に瑕と言えるでしょう。案内板には「30㎝北西に移動」と解説され、移設前の道の広さが想像できる。現3.0m幅なので1間半の道であったか。
これで予定の吹田市内の道標は終りになりました。市域的にはもう少し南までありますが、渡し跡を見て終わることにしました。
ここで、念のためグーグルマイマップ「吹田市の道標」を見ると、未確認の「南高浜町2の蓮光寺地蔵道標」と、よそ者「江坂3の油掛け地蔵西の道標」が残っています。「蓮光寺地蔵道標」は何度来ても見ることができていません。が、一応お堂だけでも写真を撮っておくかと、今来た道を引き返します。
上記「南高浜町4南町道標」の北30m、の路地とさえも思えない隙間に入っていきます。この隙間道をニ三度クネクネ曲り、寺南門に着きます。今風の伸縮門扉には鍵が掛けられており、やはり入れそうもありません。東に回り小祠の破れ等から覗けないかと見に行くが、何時もと同じ、ガッチリと守られています。
諦めて、西の通用口側へ進むと、偶然檀家の方が「墓参り」にお越しになられた様で、趣意を告げ、一緒に入れて頂く事が出来ました。後に寺務の方にもご挨拶できました。
私が「南高浜町2の蓮光寺地蔵道標」と呼ぶ道標です。見ることが出来るでしょうか。
残念ながら、小堂には鍵が掛かっており、堂外からしか見えなかったのですが、一部、道案内部分は見ることが出来ました。10年来の事で感激一入です。
考察は別項としますが、まとめるまで少し時間を頂きます。新たな疑問がでてきました。左右が逆転して書かれており、行先の一つが勝尾寺ではなさそう。
モッタイぶっていますが、少しだけ書いておきます。赤い前垂れの下に道案内が書かれています。
向って右に「左 片山・・・」、尤も、「左」の字が変ですが「ナ」に「ヒ」と見えます。「㔫」は講談社『大字典』では「左」の俗字とある。
では左側はナント書かれているのでしょう。実に読みにくいのですが。「右い者らき・・・」ではないでしょうか。「者」は変体仮名の基の字で「は」になり、くずして書くと「む」のテンが無いような字になります。
「右いはらき・・・」とすると、「右茨木」となるでしょう。何時も参考にさせて頂いている『すいた歴史散歩』では「右勝尾寺ミち」と読み下しているようですが、どうも怪しいと思います。
さて、最後の「江坂3の油掛け地蔵西の道標」ですが、これは遠方から何かの理由により、吹田市に持ち込まれたと想像出来、無くなっていないかだけを確認しました。無事であった事を伝えて、本項をおわります。
『すいた歴史散歩』にのる、街道を書き出してみる。(・・・)は大阪府史3巻、明治36年刊、【・・・】は私製左図
1.亀岡街道(二等縦貫線)【亀岡街道】、吹田の渡から茨木市宇野辺、京都亀岡市
2.吹田街道(一等補助里道)【吹田道】、亀岡街道の南高浜町から西に豊中市服部
3.佐井寺観音参詣道、片山町4-38から佐井寺観音
4.小野原街道(一等補助里道)【小野原街道】、市場池から山田東1-23大神木橋、旧山田、山田三ツ辻、箕面市小野原
5.山田街道(三等補助里道)【山田街道、山田以西】、茨木市下中條から八丁池の南、山田樫切山、山田1-24、山田三ツ辻、上新田
6.千里街道(二等補助里道)、佐井寺から龍が池の東、原、片山町4-38、吹田停車場
7.東吹田街道(三等補助里道)、南町から東へ、安威川に沿い岸部、摂津市の乙辻街道
とし「明治34年大阪府調べの道の名称で、それ以前にどう呼称されたかは不明。解説の都合上用いる。」と断りがある。