先ず、教えて頂いたのは去年の12月であったと思います。すぐには行けず、グズグズしている内に年も変わるどころか、二月も下旬となってしまいました。
茨木市内では、他にも未調査物件が山積みしているのですが、欲張らずに今回はこれだけを目的に行きます。
教えて頂いた場所は、分り易い所です。「沢良宜東墓地」内との事、すぐ近くに「玉櫛1の道標」があり何度も通っています。山中の墓地なら気兼ねなく入れるのですが、都会の墓地は何故か憚られるのは、私だけでしょうか。
今日は、礼を失わないよう入ります。細い道の東側も墓地になっている様ですが、表札の架かった西側に進みます。門扉は無く、注意書きなども見当たりません。壁際と教えて頂いているので、すぐに見つける事が出来ました。ただ新しい墓石の間の裏側となり見難い位置になっています。
この道標、過去に、ここより東からの移設としていましたが、どうも旧道(明治頃)の辻の雰囲気が感じられます。道路拡張で邪魔にならないよう、結構な距離移設されたものとしたが、今日改めて見ると・・・。
南側の水路に沿って手摺の様なものが設置されており、転落の予防を計ったものと考え、その南側の今の広い通りがなければ、この道標で曲がる必要がある。
ここが、三ツ辻であったとすると、明治の地図に一致しそうである。これは再検討しなければならない。
後日追記、「玉櫛1の道標」のすぐ北側が墓地になっており、これが、明治の地図の墓地であろうとしたのが、誤りであったと思う。この墓地を改めてよく見ると、小さいのです。この小さい墓地を明治の地図の記号であろうとした事で、誤解が始まった。
即ち、沢良宜東墓地の本体は、道を挟んだ西側とすべきであり、明治の頃に枝切街道とされた道の上に、「玉櫛1の道標」が建っている、と考えると良いのでしょう。
尚、地図にあるもう一つの墓地の記号地点に、現在も墓地があり、「茨木市真砂共同墓地」と確認出来ました。
外周りに新しいものは無く、従来の物にも変わりはないようです。館内の様子も見てみましょう。
そして、図書閲覧室に向かいます。係りの方が居られ、墓地内の道標に関する資料は有りませんか、とお尋ねしましたが、得る物はありません。
そこで、今回の道標にある、行先で唯一怪しい「まなご」をお聞きした所、「真砂(マサゴ)」をこう呼びます。問題解決です。
後日調べたところ、他所でも「真砂」と書いて「まなご」と呼ぶ所もあるようです。特殊ではなく、漢字の当てかたの問題でしょう、或いは音便などかもしれませんが。天保国絵図でもこの字「真砂」を用いています。
今日も、一応満足の内に帰る事が出来ました。
後日の反省点として、スマホの「カメラ」を勉強しなければなりません。
お約束通り、スマホの「カメラ」を練習して、再度西面の撮影に行きました。
さて、結果は・・・
写真も一部差し換えます。
その前に、練習の結果判明した事。
1.撮影時に操作モードが選べ、動画への切り替えなどと同じに「PRO」なるものが存在します。これを選択すると、何んと手動の設定が出来、フィルム感度・シャッター速度・絞り(EV)か・距離・色温度等が設定出来る事が分かりました。嬉しくなり・ゴソゴソしましたが、レンズの焦点距離の変え方、即ちズーミングが出来ない様なので、最終的にアキラメてしまった。
追記、デジタルカメラに、フィルム感度(ASA,ISO)が何故あるのか知りません。
と、言う事で何のテクニックも無く、普通に撮ります。唯一つ、シャッタータイマーを「3秒」にセットした事だけが、前回と異なる点です。これが、結構有効となり、以下にその写真を載せておきます。
カッコ良く、書きましたが実は大失敗もしています。シャッターを押して、それらしいアングルで何枚か撮ったのですが、確認をすると、ピンボケばかり、何が写っているのかさえも分りません。
答えを言いますと。皆さんでは考えられない、理由でした。カメラのレンズの向きが・反対だったのです。レンズが道標側を向いておらず、ペタリと付けたブロック塀を撮っていた為です。何故分からないかって、スマホのモニターには綺麗に道標が見えていたからです。実はこれ、モニタリングならぬミラーリングでした。反射像を見ていただけなのです。何回か挑戦した後、気付いたとは、お恥ずかしい次第であります。
削除して、再挑戦。
北側から撮った写真に少し手を加え、見易くした?ものを載せておきます。
全貌が分かりました。現、西面にも案内がありました。
更に南に下った「沢良宜東墓地の道標」の元位置候補辻1を南に見る、電柱辺りか
「沢良宜東墓地の道標」にこの道標の元位置の候補地を、載せています。ここには、写真だけを載せておきます。
沢良宜東墓地内の道標は、三面に案内先が書かれた、供養道標と思われます。移設されて現在地に有るのでしょう。