相も変わらず、茨田中学校へ。何度目でしょうか、今日こそ新学年も始まり、工事は終了している、と思い出発しました。
結果だけ報告しておきます。
「ダメ」でした。
一つだけ朗報が有ります。
先生にお聞きした所をまとめると、
1.工事は今年度中続く
2.現正門は次年度、オープンスペースとして開放予定、及び現北門は廃止
3.多分、前に有った、記念碑、桜、道標もそこに復元されるのではないか
4.上記が保管されている場所は分かりません
即ち、一年間は、行っても結果は得られない。来年4月にに行く事が決まりました。
それでは、花見も兼ね、川沿いを探索と・・・
この前見つけた「鶴見区徳庵2-2-4の道標」迄南下します。
この道標の西20m(家屋の反対側)の、古川左(東)岸に、旧道が走っています。現道標の東面に、「右、すみノど・能ざき/「すぐ、京・やなぎ谷」とあり、「すぐ(直)、京…」が示すのは、古川左岸の道を北上する事を案内するものと、受取れます。
これが、最後にまとめている、明治の頃に言う「小阪街道」に当ると思う。
安否確認を終え、その道へ回り込みます。明治の地図で見ると、現道標の前を突き抜ける短い道が見えるのですが、現在は家が建ち、南側に30m程、一度回り込み、旧左岸道(現在の古川すぐそばの道ではなく、その東、民家の間を通る道)に出ます。
ここから北へ、川沿いに北上します。明治に言う、小阪街道かも知れません。地理院地図には、幅4mアルかナシかのこの道が、黄色く塗られていいる所を見ると、府道15号(八尾茨木線)になっているのではないか。尚、グーグルマップでは、徳庵橋北詰から、150m寝屋川沿いに進み、北西に折れ100mで、この細い道と合流しています。
徳庵橋北の細い道を道なりに500m程、道は東に向き、三ツ辻に突当る感じになります。
正面右側(辻北部)、二基目になります。「鶴見区中茶屋1の道標」
西面に「右、なら(奈良)ミち/左、京みち」と案内が有ります。
右(東)方向へは行ったことがありません。雰囲気のある道ですが・・・。
今日も左へ、尤も「京」迄はいきません。
安否確認が終りましたが、ここで宿題を思い出しました。
北面の上部に読めない、字が有るとしていました。
私の読みは、北面
「…もろくち村中ノ茶や」としています。
読下しに再度挑戦です。
知識をひけらかして、「春」の変体カナ「す」に見え、斜め右下に小さく「ぐ」が有りますよ、としたいのだが?。
「く」の後に「も」がくっ付いてしまい、「く」が窮屈になる。
他に、一字目を「左」の異体字「㔫」とし、「も」の上に有る二つの点を「ハ」と解釈すると、「左は、もろくち…」等はどうか。
又、当地が諸口村中ノ茶屋であることもあり、案内の必要はないとするか、或いはピンポイントに茶店の方向を示すとするか、微妙な所である。
橋を越え、北にウネウネと道なりに350m、茨田中学北側を通る広い、鶴見通りを突っ切ります。交差点を渡り終え、明治の旧道のトレースに悩みますが、現在の道を道なりに進とします。茨田北小学校の東を抜け、浜公民館まで来ると、見覚えがある様な気がしてきました。小祠の中が気になって、振返った為でしょうか。
公民館を過ぎ50m程、今日の三基目。南に交番がある三ツ辻の北東部に「鶴見区浜4の道標」が建っています。
南東面「右、佐太・京」「左、守口」となっています。左へ進み、京とはお別れです。
チョット一言、右が「京」になっている事は、今辿っている、多分「小阪街道」はこの右方向かも知れません。
旧記事に使用の写真
浜4の道標南西面中・下部
安否確認は終わりましたが、宿題も有りました。昔撮った写真が、よく映っていなかったので、南西面の「先達」に参考書の「(浜村)」を書き入れいましたが、今日は明確になりました。この文言はありません。
ここでは、道標記事の訂正となります。
参考資料から「(( )部は『鶴見区旧街道と道しるべ』より)」と補足を付けていましたが、記事から削除します。
三ツ辻に突当り、左手(西)に浄教寺が有ります。この辻北東部に道標があります。
今日、最後の、四基目。「鶴見区焼野2の道標」
ここが、小阪街道であったか、少し東の古川沿いがそれであったかは不明です。浜4の道標から右に分かれると、古川右岸道路に続くと思われますが、現在では、中環等で旧道は辿れないと思います。(門真市ひえ島町20辺りから復帰出来るかも)
小阪街道を佐太・淀川岸まで行きたくなりましたが、大阪市を離れてしまいます。「北河内」に手を染めると又、長くなりそうなので今日は止めておきます。
以上報告まで。市境を西に進んで帰る事にします。が、大阪市が有りません。中環迄は大阪市だったと思うのですが、西に折れると右も、左も守口市のようです。そんなに北に来たつもりは無いのですが。
この記事を書くに当り、気になっていた疑問を調べてみました。
即ち、枝切街道は、何処まで続くのか。
答えは、明治36年刊『大阪府史』(昭和36年復刻版)によれば、北は「三島郡茨木町大字茨木仮定県道高槻街道」、南が「三島郡鳥飼村大字鳥飼下高槻街道支線」、と成っており、今回ウロウロした辺りは、「小阪街道」北は「北河内郡庭窪村大字佐太…」、南が「中河内郡八尾村大字八尾…」、経過地名「…門真村・古宮村・諸堤村・今津村…」とあるため、南から浜4の道標迄は、小阪街道に違いないと思います。
当初、「枝切街道」に疑問を持たなかったのは、有り難いテキスト『大阪の街道と道標」1999年刊に「2-12枝切街道(小阪街道・茨木街道)」とした項があり、「枝切街道は河内と摂津を結ぶ街道の一つである。」の次に「東大阪市小阪から北上し…仁和寺に至るが小阪街道である。」と明確にしているのに、図71、72、73、の表題が「枝切街道1,2,3」とあるため全区間「枝切街道」と勘違いしていました。
多分、同じ勘違いが反映されていると思われる、鶴見区のトップページ>区政情報>区のあらまし>旧街道と道しるべ、にある「小坂街道(枝切街道の一つ)、「中茶屋」の「古堤街道と枝切街道(小坂街道)の分岐点に建っている…」等から枝切街道が勝手に南に延伸したのではなかろうか。尚、現在この頁では、その記述が削除されている様である。
今回の誤解で修正しなければならない文書が5点見つかりました。申し訳ありません。もう少し裏付けを調べ訂正に掛かります。
2026/4/19 東大阪花園図書館に、「古堤街道」杉山三記雄、2020年刊、多分当地の研究家と思うのですが、を見つけました。
現地に見に行きます。
表題には、小阪街道は無いのですが、この中に、「preface(序文か)」とした中に、古堤街道に交差する地図が載り、徳庵で交差する南北の道を「小阪街道」としています。(本の表題には「こて」とフリ仮名が付けられている。)
又、本文中に「枝切・小阪街道」のコラムが書かれ「淀川の北から枝切街道・・・南下し徳庵は小阪街道と呼ばれる。」とある。同時に図示もされている。
加えて、大阪府誌(史?)明治36年からとし、上記の内容と共に「里稱 四里十八町 門真辺りでは「徳庵道」と呼ばれている。」ともありました。【注、私の持つコピーでは「里稱二里三三丁」のみ】
結果として淀川以南は「枝切街道」では無さそうである。