今回、妙見山参詣道の未踏査部を無くす為に、出掛けました。「満を持して」のつもりです。この日の為にチェーンスパイクも購入しました。
本当は1週間ほど前に茨田中学校に工事の進捗を見に行った帰り、某スポーツ用品店に立ち寄った所、安もんのスパイクがあり、衝動買いしたもので、試したい気持ちも有ったのです。
それでも、取敢えず、天気予報で暖かい日を選び、1月19日に出発しました。
表題に有る様に、今回は2ルートを一度に攻略する予定を立て
1.上杉尾根参道、
2.天台山コースの未踏部分
3.あわよくば、妙見道の吉川峠から、吉川集落への旧道
を課題とします。
始めての部分が多いので、予めチェックポイントをGマップに作成しておき出発です。地図は広範囲ですが「豊能郡の道標」を参照下さい。
今回は、歩く距離が長く出発地点に戻ってこれないかもしれず、電車で妙見口駅を目指しました。かと言って、エスケープルートを事前には考えていないのですが、最悪川尻、出来れば常盤台駅、になるかなー、程度のものです。
妙見口駅からは、既知の道標二基を確認をしてゆきます。
先ず、最も近い「豊能町高代寺の一町丁石」です。無事などころか、墨も入れられ綺麗になっています。これは幸先が良さそうです。
次の「新滝道二十二丁丁石」迄は、まだ見つけられていない道標を、以前から何度も捜している石なのですが、もう一度探すため、道路の左右の溝を見ながら進みます。幸い自動車の通行はほとんど無く、道路は独り占めです。
が、見つかりません。
「新滝道二十二丁丁石」迄に確認ポイントが一点あります。「吉川旧山下道の道標への分岐」と言えるでしょう。これは妙見山から西方面の連絡経路となります。例えば、西の一庫、ひいては姫路方面への主要道が有ったはずで、高代寺南にある「山下道の道標」に最短で繋がる道があるのではと考えた為です。これも、それらしい地点が観察できました。進んだ訳ではないので、今昔マップ on the web 明治の地図での分岐点と推測できる辻。としておきます。尚、明治の地図では点線(或いは破線の道)で描かれているように見えるが、これが地図記号の道であるかどうか、よくは知りませんが、現小学校の北側を西に進んでいる様(破線なら学校中を突き抜ける)に見えます。
もし妙見山の帰りに、花折街道をショートカットしなければ、前出の妙見口駅の「豊能町高代寺の一町丁石」から、北へ進入する道です。
「二十二丁石」を北東に見る、右国道を東へ渡ると上杉尾根コース入口へ 8:49
「新滝道二十二丁丁石」に着きました。こちらはあまり注目されていないようで、枯草に包まれていましたが無事です。
後ろの木の案内板には「妙見の森・ケーブル」があり、一抹のさみしさが感じられます。今後、妙見山へ行く人はどのルートを選ぶのでしょうか。
「吉川上杉池南西の道標」の位置は池の下、上部の池堤には二基の石灯籠が立ちます。これは旧参道の名残であると勝手に想像していますが、明治の地図ではこの道がハッキリと描かれています。その描かれた道を進みます。即ち池の南端に沿って東に進みます。ここで北に直進すれば、かっての能勢ケーブル駅、黒川に行けます。
倒れている「吉川上杉池南西の道標」には「右、黒川」「左、吉川」と案内があり、この上杉尾根参道を妙見山から下って来た時に、正面に見えていたはずです。
さて、ここから上杉尾根参道として、トレースが始まります。池の土手を登ると、フェンスがあり、池に転げ落ちないようにされているのでしょう。
渡り終えると、正面に鳥居があります。以前来た時はここから草の繁茂がヒドク、鳥居の北側の境内と思しき場所が草が少なく、道が有る様に見え、それに進みました。新滝参道に山を越えて出る道を探したのですが。見つからなかったことを思い出します。
鳥居横に案内板が有りました。「吉川旧妙見参道の鳥居」とあります。もう間違いありません。吉川より25丁とあります。
鳥居の建設は寛政の様です。とあれば近世からの参道である事は間違いありません。寛政5年(1793)としています。
私の調べでは、「癸丑仲夏吉辰」から1793年7月1日が癸丑年、壬辰月、壬辰日となり、七月の建立と考えたい。西暦では8月7日水曜日になりそうです。
先に挙げた、西国からの参詣者が有った事を裏付ける根拠ともなる地名を、見つけました。鳥居北側にある灯籠の南面に「願主、西備深津之庄、石井長次郎…」とあります。私の勝手な想像では、「西備」は「備後」の事とし、広島県福山市の深津であろうと考えた。山陽道からここを目指すには、六甲の北側を通過し、三田あたりから東へ最短の道があったものと思う。
山下あたりから吉川へか、又、吉川の何処を通って、この鳥居に来たのであろうか。の一つの答えが前出の吉川小学校下の近道辻のチェックになる。
天保国絵図「備後国」に深津郡の福山城東に川を挟んで「深津村」が見えます。
やはり、明治の地図は正しかったようです。もし階段があれば立派な参詣道として機能する経路です。一部に残る石材などがその名残なのでしょう。
Gマイマップの青丸が、現在地点、黄色の逆水滴印が、チェックポイントを示しています。
都合で変わる可能性はありますが、「豊能郡の道標」はこちらを参照下さい。
現在のハイキング道を、明治の地図と比較すると、階段上からは、ほぼ同一経路のようです。これ以降はハイキング道を進みます。
が、旧道をそのまま進んだようで、道はU字型に凹み、故に中央は水路状に浸食されて、更に窪んでおり、そこにこの時期大量の落葉が積もり、一見楽勝の道に見えましたが、大間違い、100m程は進みましたが、場所によっては落葉が腰下まで来ます。世間の人より足が短いのは自覚していますが、余りにもアマリです。ふと横を見ると上に踏み跡が…、どうもハイキングコースは旧道ではなさそうです。ホウホウの体で、上に這い上がります。一見水路にも見える旧道を見下しながら、ハイキングコースを進みます。もし見えなくなったら旧道に戻る心算です。何故なら丁石等の有無が確認できなくなるからです。幸い、ハイキングコースからでも、そこそこの石が有れば見える状態で進むことが出来ました。
落葉のラッセル(雪のラッセルではありません)が効いたのか、勾配がきついのか、尾根に取り付く前に何度休んだことか。
大概は、何か獲物があり、写真を撮る等し自然と休憩が採れているのですが、ここは単調な道です。ハイキングを楽しむことが慣れていないのでしょう。獲物(石)がないとガムシャラに歩くだけです。
事前の妙見山山頂までのチェックポイントは、黒川からの合流点、「八丁茶屋跡」と駐車場辺りのピーク地点の三ヶ所だけです。
こうなると、残りの見えない部分も見たくなります。転ばせてみようと試みるも、重すぎて動かず。
数字部分が「拾五間」、「立木…不残」と有るので、丁石では無さそうと、自分に言い聞かせ、諦め、後にします。
丁石・道標ならもっと力がでるのですが。
石燈籠の火袋より上が無くなり、代わりに擬宝珠を置いたような石造物です。
念の為紀年部分を写真に撮っておきます。年号が、竿上部の湾曲部に書かれており、よく読み取れないが、中央辺り「二年壬戌」が見えるので、後で調べれは分かると思い、適当に写真を撮って後にします。
ここで、帰ってから自作のツールで、「壬戌二年」に相当する年号を調べた所、「壬戌二年」は1802年享和二年、と1862年文久二年、の二つ候補が出てきてしまった。何方も二年です。年号は、何としても写真から読み取るしかないようです。
写真からは「□和二年壬戌五月吉辰」と読み取れるので、享和二年の建立と思われます。
更に、重大な手掛かりを見落としていた事に気付きます。紀年の左側に
何んと、「取次 當山八丁茶所 了圓」と読み取れる。まさしく、今日探すところの「八丁茶屋跡」の関係者と思われます。場所の同定には至りませんが、疲れていたとは言え、痛いミスです。もっと念入りに見るべきであった。
尚、「取次」とあるのは施主ではなく、建設の為の取次役をしただけの人を示しますが、自分の「茶所」の前に置かせたことは、十分考えられるでしょう。
この時、ここが「八丁茶屋跡」とは気が付いていません。
多分燈籠の竿部以下が残る、を過ぎるとすぐにポイント7標識が出てきました。50m程の距離でしょうか、その横の茶色の案内板に〔八町茶屋跡〕とあります。
周りを見回すと、このすぐ下側が平らに削り取られ、敷地跡であるように見えます。とすると、その更に一段下の平地の西端にある、上に述べた灯籠の様な石が、店先に立っていたのかも知れない。
このポイントで、遺物を探してみるが何も見つかりません。少し下に開けた平地が北寄りに有るだけでした。八丁の距離を示す物は、無しと結論します。
何故こだわるかと言うと、八丁が麓からか、妙見山よりか、何方を示しているか不明な為です。丁石であれば、一般的には、対象となる寺社からの距離を示す場合が多いのですが、事前の検討ではこの先距離が長すぎるのです。
では、進んだ距離を示したものでしょうか。
**後日、「八丁」が下からか、上からか、何方になるかを記述する【予定】
【結果】地理院地図で下の鳥居迄970m(8.9丁)となった。依って、上記の灯籠と思われる位置にあったとすれば、「八丁茶屋」とは、下の鳥居からの距離を言ったものと出来ます。
尚、web豊能町観光協会の「豆知識」八丁茶屋跡の項に、「文政十一(1828)年五月、余野村忠左衛門が、一札差入れ…」茶屋建設の願いを出したと説明している。これが正しければ、前出の灯籠の紀年より後となり、別の茶屋も存在した可能性がある。
余野村は少し離れすぎているかも、と疑問を持ったが、ある資料に「吉川は余野と木代と同一領主であった」、「享保20年(1735)・高槻藩永井直行領、明治元年(1868)・高槻藩永井直諒領」とあり、これなら二軒建っていても良いでしょう。
尾根筋の平坦部に出て、ようやく南側の景色も見えるようになり、少し楽になったかと思ったが、余りにもダメージが多く、一息入れる事にし、ベストや手袋をリュックに仕舞い込み、再出発です。
丁石があったならば、この鳥居が重要になるのですが、残念な結果となりました。
神社であれば、多く上の鳥居が0丁(到達点)となると、勝手に思い込んでいるのですが。因みに、お寺は本堂又は、塔堂が0丁と、思っています。
蛇足ですが、この鳥居の西下、新滝参道には大正八年のものですが、「一丁」の丁石が建っています。この鳥居迄の距離を示しているようです。詳しくは「川西市妙見山新滝道丁石一覧」を参照下さい。
旧参道は、開運殿(本堂)までとするので、明治の地図にあるルートを進みます。現「星嶺」前は通りません。上の鳥居も通りません。鳥居南側の道に戻ります。
それでも、意を決して天台山を目指します。少なくとも過去に、1/3は歩いた事があり、その感じでは難しくはないと思います。
出だしは「清滝参道」+「本瀧参道」です。開運殿から北東へ70m、清滝参道は東に右折れし、本瀧参道と別れます。
この角の南東部に、二基の丁石、辻から北へ向う本瀧参道、下り口の東側に、二基の道標があります。安否確認をしました。
丁石は開運殿に近い方が三丁、遠い方が壱丁となっています。三丁は折れているので適当に置いただけと思われ、壱丁はそれらしい位置に建っています。三丁の方が開運殿に近いが、元は壱丁より遠くに有ったものと思われます。
施主等から、共に清滝参道の丁石と思われます。詳しくは「妙見山清滝道丁石一覧」をご覧ください。
丁石の北側、本瀧参道、下り口の東側に、二基の道標があります。これも無事の確認。
手前の小さい道標にある「右、かめやま」に従い、今の亀岡に向かいます。これが清滝参道を下る事になります。
大きい方は「野間中本滝道下山口の奥ノ院道標」
小さい方は「野間中本滝道下山口の道標」を参照下さい。
何れも、無事でよかった。
次に、清滝参道の鳥居を目指すのですが、先の一丁丁石から50m程、坂を下る手前南側にも「川尻の井戸道道標」が立ちます。すぐ東下には鳥居も見える。これもチェックOKでした。尚、この石の行き先「井戸道」の行先について、何んとも恥ずかしい考察を載せているのですが、今となっては「井戸」は「井戸城」ではないかと思います。まだ行ったことがないので、そのまま放っておきます。
この「井戸」に向うと南に進み、新滝道参道か、駐車場を越えて、先ほど登って来た、上杉尾根参道の何れかで、吉川に下る事になります。本来なら、今の様な斜面ではなく辻の中に、建っていたと思うのですが。
清滝参道の大きな石の鳥居に来ました。本来なら上りの到達点と出来る物でしょう。但し建立は大正三年、御大典記念とあれば、新しいものです。
尚、これと対応すると出来る「下の鳥居跡」を最近見つけたばかりです。現在では野間峠近くの府道4号に立つ鳥居があります。下の鳥居に関連して「野間口清滝参道の石碑」も参照下さい。先の「一、三丁」丁石とソックリです。
ここから、天台山山頂西までは既に通ったことのある道です。見落としが無いかに注意しながら急ぎます。
下りの為もあり、ペースは上がりますがその分、落葉によるスリップが多発します。兎に角、こけないように!
尚、ここからの緊急連絡ポイントの名称を「XXXPn」と表現します。XXXは初谷、光明山、天台山の三種があります。
清滝参道とする旧道を、東に下って行きます。
急いでいたので写真を撮り忘れていた。古い写真を使います。
妙見山に向う参道の候補道(ハイキングコース)を図示してみました。野間口から西へ、ほぼ直線的に進むのが、清滝参道(橙色)です。
この図で「39.妙見山標石」の西側(現ハイキングコース「初谷P21」)で合流し、妙見山に向う、天台山コースと初谷コース(何れも緑色)。
初谷コースは沢道でもあり、近世の参道とするには、相応しくない、と考えています。
同じく沢筋の「新滝参道」は大正の銘を持つ、丁石があり、近代の参道として認めなければなりませんが、今に至り崖崩れが多く閉鎖される事も多い様で、今後も参道として機能するかは定かでありません。これが、初谷コースを参道として使わなかった理由であるとします。
天台山コースは尾根筋が主となり、可能性があると考えています。
光明山P2地点から120m程と思う。
前回もチェックした府道と旧道の接触地点「光明山P1」に来ました。細かく見ると旧道は合流はしていないのです。K型と言うかH型と言うか、微妙な合流点です。そこで府道に出て、現在の案内板を見てみましょう。何か「右、法輪寺」(天台山ではない)が回り込むように書かれています。
回り込んで進んでみましょう。すぐに少しずつ下り始めます。と、見覚えのある道です。少し先に道標がある事は承知です。
尚、ここに「天台山」が案内されていないのは、今では天台山へは、府道4号を進む事になるからです。明治の地図の天台山参道は、ここで左右に分かれ、先で合流している様に描かれています。吉川峠から来た場合は、多分、今の府道側を通ったと思う。
今日は、法輪寺(東)側を通っていきます。
光明山P1地点から140m程と思う。
前回来た「法輪寺西上の道標」に着きました。この道標は妙見山を案内します。余野や箕面方面からのショートカット参道、かとすれば「川尻参道」もありか。
写真を撮る等、少し時間を掛けます。
前回行かなかった、道標には案内の無い右方向(南西)に進みます。東に下れば法輪寺です。
南西への道は今の地理院地図には載っていません。さて、何処に出るでしょうか。
「法輪寺西上の道標」地点からは、少し登りになります。快適な道なのですが…。
120m程でしょうか、案の定、現府道4号の峠の切通し上部に出て、行止りです。前方(南)には、同じ高さで尾根筋が続いていますが、府道で削り取られたのでしょう。渡る事が出来ません。
府道切通の東側に降りて、切通の西側に廻り、対面の続きに向かいましょう。
復帰点には「天台山P16」標識が立ちます。
この先200m過ぎからは、今回始めての踏査部分になります。さあ、新しい手掛かりが有るでしょうか。
結果を先に書いておきます。何も有りませんでした。お疲れ様!、以降写真だけ載せておきます。途中所々、旧道と現ハイキングコースの見分けが付かない地点が出てきます。理由は、旧道が歩くには適さない状況に有る為でしょう。U字状、雨水浸食、落葉堆積、覚悟を決めたとて歩きたくない。
MTBには面白のか、今日初めての遭遇人に道を譲りました。
そんな・こんなは有りましたが、何度かスリップもしたが、以前、吉川峠から少し登った、「天台山P2」ポイント到着しました。以下に少しだけ載せておきます。
歩き易かった道はハイキングコースであったか、旧道であったか?、すぐに合流するものと思い、安易なルートを選んでしまった。
合流地点と思われる場所に来て、後悔する。
後日、N34.910225,E135.469176
辺りと思われる。これを地理院地図で確認すると、今下って来た道が描かれており、北側に道は無い。明治の地図でも同じルートと思われるので、旧道であったと出来るでしょう。では、左の写真で北(左)側に進む道は、どこに続くのか?
先に、進路を悩んだ地点には繋がっていないかも知れない。
池田からの妙見道、分岐点に来ました。ここから吉川集落に下る道として、明治の地図と現在の舗装路が異なる経路になっています。前回も調べて旧道進入口が不明でした。今日はケリを着けましょう。
この後、一件だけ確認事項があります。現妙見口を通らず、上杉尾根参道の出発地点(上杉池東の鳥居)に最短で行ける道が、主要道として相応しいかどうかを確認する。
現在の道は国道を横切り、妙見口駅前を通り、上杉池の国道交差点に出る経路となりますが、明治の地図で破線では有りますが、ほぼ北へ直進する道が見えます。
今では、民家への進入路のように見え、その先山への登り道はとてもメインの道とは見えない。
やはり、能勢街道の西方寺へと出る道(近世の花折街道か)が一般的な道であろうとした。
事前に、N34.910191,E135.447830
辺りとした。
北に越えず、北東に進めば、上杉尾根コースに繋がるかもしれない。
花折街道の新旧を解説する為の物でしょう。古絵図を見たいものと兼ねがね思っていたのですが、こんな所にあるとは、コピーは出来ないので、何とか写真に・・・、ナンテンが邪魔をする。
後日になるが、この写真を加工し、何か手掛かりになるものが書かれていないか検討した所、上杉池の南から、多分「妙見山」への道が描かれているではないか。多分としたのは、古絵図の一部が切れており「見山」としか見えていないからです。
これで、上杉尾根参道が1800年以前から存在した証拠と出来るでしょう。ただ残念ながら、新滝参道を除き、その他の参道に関しては手掛かりが無かった。今回のルートを書き足してみました。
もう一点、池田市古江から尾根筋を通る「妙見道」が描かれていないか、あればどこで「長尾街道」に繋がっているか、が知りたいのです。1800年以前の図で「止々呂美」から来る道(左下)が、長尾街道に接続する様に描かれている。この道は吉川峠を通過する道に違いありません。明治の長尾街道の接続までに、二本の線が有ります。これが道なら、何方かが、池田からの、明治の地図の「舊妙見道」ではないかと出来るのですが、残念ながら字が読めない。「東□谷」「□谷(金ヶ谷池かも)」とある。
結論として、近世妙見山参詣道は、池田の古江から妙見道を通り、この吉川に降りた後、上杉池から、上杉尾根参道を通り、途中八丁茶屋を通り、妙見山へが一番歩き易かったと思われる。ただこの経路(上杉尾根参道、天台山参道)には丁石が設置されていたか、どうかは、分からないが、現在は上杉池横の鳥居から山上の鳥居の間と、清滝+天台山+初滝参道の上の鳥居から麓迄の間には、丁石は残っていない。
又、池田古江から妙見道を来た人々は、吉川集落へ下る直前の、吉川峠から、現、天台山を通過して、清滝参道に出る、今のハイキングコースに当る道(天台山参道)を、参詣として使う事は、距離や、勾配等の点で、少なかったであろうと思う。
加えて、大堂越えルート、初谷川コースは、近世の参詣道としては、取り上げる必要はないとしました。