東大寺の道標再訪

右側の大きい道標(2018年)、左奥(南西)へ西国街道下り、右柳谷へ

1.始めに

webを見ていると東大寺の道標に落款(印)があるとの事、いったい今迄何を見て来たのかと自身に腹を立て再度見に行くことにしました。最近は山間部が専らでしたが、久しぶりの平野部です。その顛末です。

2.高槻氷室町は復活しない等

高槻市氷室町の残った一基は明治の道標

剥げ落ちる別所新町の道標

折角の遠出なので、途中少しチェックもしておきます。西国街道を東進。
高槻市氷室町の三基の道標は、やはり明治の道標しか残らず、近世のものは復活せず。
高槻市別所新町の道標は残るも、やはり読めない状態で放置されているようです。

桜井1の道標

島本町に入り桜井1の道標はと見ると、撮影条件が良さそうなので、写真を撮り直しておきました。

4.百山稲荷の道標ではなかった

JA島本の北50m東側

JAたかつき島本支店を過ぎて、見つけられなかった「百山稲荷の道標」では無いかと一瞬喜んでしまった石が有りました。道の東側であったが、見える範囲には文字を確認する事が出来なかった。東に向かう道の辻でもあり気にはなるのですが、あきらめて進みます。

裏側にも文字は確認出来ず

5.東大寺の柳谷道標、再見

さて、いよいよお目当ての東大寺柳谷道標の刻印部分です。過去に5、6回は来ているはずなのに?見落としていたようです。

今日は念入りに見ます。何故かと言うと、落款を持つ道標は極めて少ないからです。ただ、落款=書家となり、建立者自身が書いた道標では無くなる事を示し好きにはなれません。私は、普段書き慣れていない字を道標のために苦心しながら書き、建てたであろうと想像できる様な道標が好きです。が、落款を持つという珍しい点では掛替えがなく、書家の名前等から別の情報が得られるかもしれません。
 因みに、落款を持つ道標は他に「高槻市霊仙寺町の道標」、「神戸市北区有馬町端宝寺北の道標」、「大阪市北区中津7の道標」があります。私の知る限りでは4基目です。

東面の全体像

概要を述べておきます。
 東面、柳谷観世音菩薩道
 南面、明治三十四年六月 是ヨリ三十丁 と発起人
 西面、北面には、人名や講名か(小組とする資料有り)等多数
サイズ、高216x東面36.5x30㎝(頂高11㎝含)

南面明治34年

6.落款は「廬山」

東面下部

見過ごしていたのは明治の作の為か、近世でないと疎かになりがち、且つ名前が沢山すぎてそちらに気が行く為か。
 道標を探しに行くとき、先ず、行先、紀年、施主の順に見るのですが、紀年が明治以後であると何だかガッカリしてしまい、以降力が入らなくなるのが常であり、その為だと思います。
 東面下部に有る様です。

「…道」の下、署名と印(明度変更)

早速見てみましょう。
右側には、作者の名前、左に落款が彫られています。
 右側、当初読み下しを間違って現地では「鷹山」とした、左には落款(刻印)が見えます。
 結構な大きさなのに、何故気付かなかったのでしょう。
『落款字典』柏書房昭和57年には載っていませんでした。

道標東面「…道」の下、署名と印

落款の書体はほぼ篆書と決まっており、彫が明確なら読下しも幾分楽なのであるが、彫の深さが浅く線の繋がりが読み取れません。
そこで右横のくづし字に頼る事にしました。上にも書いたように「鷹山」としたのだが、『くずし字用例辞典』児玉幸多編、東京堂出版を見ると少し違うように見える。聞き覚えのある号で期待したのであるが、何か違う。途中の経緯は省きますが結果「廬山(ロザン)」としました。
 「廬」は「庵」と同じで「いおり」のことであるらしい。
これを「廬山」地名とするとwikiに「中国江西省九江市南部にある名山」とあり有名な名勝地であるらしいが、知りませんでした。中国の地名を号にはしないと思いますが、如何でしょう。
 京都には「廬山寺」があるらしく、天台宗の寺院で同じくwikiに「明治維新までは宮中の仏事を司る御黒戸四箇院の一つであった。1872年(明治5年)9月に天台宗の寺院となる…」とあり、柳谷観音の浄土宗とは結び付きにくいと思う。

そこで「廬山」をwebで探して見ると「遠山廬山」文政6(1823)年~明治37(1904)年、京都の人、行書に優れる、とありこの方の可能性はある。読みは「ろざん」とありました。
 発起人の中に「京」と有るので、知人などの伝手で頼んだ等と考えるのは楽しい。或は廬山さんが柳谷観音を信仰されていたのかも知れない。

7.落款を持つ他の道標

先に挙げた、落款を持つ「高槻市霊仙寺町の道標」、「神戸市北区有馬町端宝寺北の道標」、「大阪市北区中津7の道標には2~3の印があり、一般的には書の落款は三ヶ所が多いようですが、この石には一つしか見付けられなかった。見落としかも知れませんので探してみてください。

神戸市北区有馬町端宝寺北の道標

大阪市北区中津7の道標

高槻市霊仙寺町の道標

8.浄谷越え道探索

東大寺2の道標を北に見る

此処迄来たので、前にあきらめた「島本町東大寺2の道標」が示す「右浄谷こへ」道を探してみました。写真の右側の道へ進む。
 道標西面の光線の当たり具合が変わるまでの時間稼ぎもあり、一時間程度を予定します。

明治の地図で見当を付けた道を進みます。

行止り墓地より北西を見る

旧道に近いと思われる道を選ぶと墓地に入ってしまい、最も高い地点にたどり着くと、名神高速により道が無くなっています。高速の西側の中腹には道らしきものが見えているのですが繋がりません。(写真の鉄塔の向うに山肌を登る道が見えている。)

仕方なく、一度下に降り西福寺前の三ツ辻から住宅地を西に進み、高速道の下を潜り、高速下り車線の西側から登る道を進みます。旧道の雰囲気は全くなく、西上部に取っ架かれる様な道も見えず、舗装路を鉄塔下迄進みましたが、分かりません。最も高い地点に「天王山断層露頭」を案内する石板を見て、あきらめて帰ろうとし、北へ下る道を進みました。高速道の現上り線天王山トンネルの下部まで下ると、水無瀬の瀧を案内する看板があり、見物する事にしました。

天王山断層露頭を西に見る

写真①.

名神上り線天王山トンネルの直前の高架道(奥)を西に見上げる。
手前は保守用道の高架か。写真背後は高速下線。
水無瀬の滝へはガード下を直進。

名神上り車線を潜り、水無瀬の瀧へは右に折れるようですが、正面の階段上に「十方山」と案内が出ています。ひょっとして探している道を案内しているかもと思ったが、観光を優先し滝に向かいます。思わぬ所にそこそこの瀧があり、嬉しくなって写真を撮る等し時間を使ってしまいました。

ガードを潜ると階段正面に「十方山」標識が見える。滝へは右折。

9.水無瀬の滝

水無瀬の瀧を西に見る。割と水量があった。

水無瀬の滝説明板(右参照)

島本水の文化園『水無瀬の滝』
 天王山に源を発する高さ約20mの美しい滝です。この滝は水無瀬離宮を築き水無瀬野での遊猟を楽しまれた後鳥羽上皇も御幸されるなど古来より広く知られ水無瀬川とともに歌枕になっています。
 水無瀬山せきいれし滝の秋の月
  おもひいづるも涙落ちけり
   藤原家隆
 滝の傍らには「八大竜王」「白姫竜王」「玉竜大神」などがまつられており雨をつかさどる神さま「竜神」信仰があったようです。

瀧の近所の現地説明図

帰り際に、「十方山」案内板を思い出し、少し先までは見ておくかと進む。歩く人もいない為かとても荒れていましたが暫らく進むと舗装された広い道になり、山中によくある高速の側道のようです。少し先の山側(西)に地蔵等が集められていました、これは旧道を整備した事を物語ります。即ち高速道作成時に邪魔になったものを処分せずここに置いたもので、先ほどの墓地からこの辺りに道が続いていた証拠でしょう。

水無瀬の瀧から南西に階段を登り側道に出て振返って見る。左に地蔵等寄せ集められ、旧道が有った事を示す。右下に名神高速、後ろに東大寺跨道橋がある。

10.浄谷越え道は宿題

名神に掛かる東大寺跨道橋東詰めから西を見る

ではここから旧道はと探したが、多分山が大きく削られ尾根筋を進んだと思われる道は有りません。ただ高速を跨ぐ「東大寺跨道橋」の西詰から新しい道が逆の南西方向に九十九折れに付けられ、案内の有る「十方山」へ続くと思うが、舗装道でもあるし、時間が掛りそうなので帰る事にしました。

東大寺跨道橋から北を見る。右奥名神下り線トンネル出口、中央左作業用道路か、左端名神上り線の右車線、左奥谷に水無瀬の滝。
真っすぐ下ると上記写真①の高架道下へ続き、一周する事になる。

11.東大寺柳谷観音の道標西面

東大寺道標2/2の西面
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さて。ここで東大寺の道標に戻り、西面の再撮影に向かいます。太陽の位置が良くなって、人名が読み取れる事を期待しての時間つぶし観光でした。

西面全員の名前を読み取ろうと数枚の写真を合成した結果を載せて置きますが、読下しは又またギブアップしました。出だし部分が上手くいかないとダメなのは何故か。
 この石は大きさの割に字が小さく且つ彫が浅く、目の良くない私には現地で読み下すことが出来ないので、帰宅後どうにかなるとの思いが毎回の様で今回もいい加減に済ましてしまうのでした。

西面写真に文字を左側に挿入した

強引に読み下しました。無理やりですので誤りが多いと思います。

1、□□東垣□行□□山城加茂□□辻大坂 伝法山講四安 寺西秋造 福講西□□福 江講  大原正太郎
2、摂津川辺神心 治講 河内岩口信心講 大坂北月参講 山城北川講七神田川□□□町 山西講 田辺仙次郎
3、摂津岸部 并請講河内□住信心講 亀宮観音講 大坂□□常吉 大坂野里□安守□ 佐□講 塩田重左エ門
4、摂津今福 福壽講 河内元 福田講 大休 大福講 大坂□辻宮分 大坂 □□□一□ 山城戸講 佐野昌太郎
5、摂津今福 福井講 亀崎橋 観音講 福組信力講 大坂  田花の 大坂 □福□□ 丹波出氏保條鶴太郎
6、山城□□講一 心組 摂津山田 信心講□□近栄講 大坂 秋山□スヘ 京 藤本平郎□ 摂津□光江羽□小三郎
7、摂津海老江 信神迎講不揃□津 満願講 大坂片町 天□ 大坂山田□□ 山城 袖□□□郎 京先斗□高□□□□
8、□□蔵神埼月参講 大坂中村 月参講 山□福□   中川本定介 大坂 辻□□仰   講 有 志 中

 これを、地名・講名、地名・個人名で書かれているとし、地名が共通する場合は講名を連続させ、個人名は地名を略することもある。として読みやすく分かち書きすると。
1、□□東垣□行□□、山城加茂□□辻、 大坂・伝法山講、四安寺西秋造・福講、西□□福江講、      大原正太郎
2、摂津川辺神心治講、河内岩口信心講、 大坂北月参講、 山城北川講、    七神田川□□□町・山西講、田辺仙次郎
3、摂津岸部・并請講、河内□住信心講、 亀宮観音講、  大坂□□常吉、   大坂野里□安守□・佐□講、塩田重左エ門
4、摂津今福・福壽講、河内元・福田講、 大休、大福講、 大坂□辻宮分、   大坂□□□一□・山城戸講、佐野昌太郎
5、摂津今福・福井講 亀崎橋・観音講、 福組、信力講、 大坂 田花の、   大坂・□福□□、 丹波出氏保條鶴太郎
6、山城□□講一心組、摂津山田・信心講、□□近栄講   大坂 秋山□スヘ、 京・藤本平郎□、 摂津□光江羽□小三郎
7、摂津海老江・信神迎講、不揃□津・満願講、大坂片町・天□、大坂山田□□、 山城・袖□□□郎 京先斗□高□□□□
8、□□蔵神埼月参講、大坂中村・月参講、山□福□、   中川本定介、 大坂・辻□□仰講・有志中
(□部には一文字が書かれているとする。)
(「組」が二ヶ所に見えるが、「講」内に属するものか、「講」と対等のものか知らない。)

12.変わりの無かった道標達

以上、ほとんど成果の無い一日でした。帰りは高槻市街の道標に変わりがないか、少し見ていきました。気になっていた「高槻市上本町10の道標」も無事に真っすぐに建て直されていた。

多分施主であろう中に、「山城」「京」とするものがあり、この方達からの参詣道としては北の長岡天神の方面からが近いと思われるので、この地以外にも同様の道標が建てられたのではないかと思う。

高槻市京口町12の道標、北向き

高槻市京口町5の道標、西向き

高槻市上本町10の道標、東向き

高槻市八幡町10の道標、西向き

同市下田部町1道標を南東に見る